15 どう足掻いても俺が悪い
責めているつもりはなくて、いじめているつもりもなかった。
なかったが、意地の悪い言い方をしたのは自覚がある。認める。認めます。 俯いて肩を震わせるユリア嬢に、ひどく罪悪感を覚えて狼狽える。とんでもなく悪いことをしてしまった。姉貴の怒声が頭に響く。悪気があっても悪意はない、とついこの間姉に言われた意味がようやく分かる。これは絶対的に俺が悪い。
「ゆ、ユリア嬢」
「もっ、もうっ、しわけ……」
「いや、いいから。俺が悪かったから」
いたたまれなくて頬を掻く。震えるユリア嬢に、差し出せるハンカチなどこの服で持ち歩いているはずもなく、汚れた服の裾で拭うわけにもいかない。
「……実はな」
他にできることが思いつかず、白状する。慰めにもならないが、これくらいしかで切ることが思いつかない。ロジェならもっと何かあるのかもしれないが、奴はそもそもこんな風に泣かせたりはしないんだろう。役に立たない幼馴染め。
「この問いに答えられる貴族のが少ないんだよ」
庶民平民が貴族の自分たちより貧しいことはみんな知っている。
知っているのに、それがどの程度であるかに対してみんな無関心なのだ。
汚れた服を厭うくせに、なぜその服が汚れているのかに関心がない。なぜ汚れたままなのかに関心がない。この服がたった一枚しかない持ち物だという結論に至らない。
王立劇場だってそうだ。がらんどうの一階席。作ったやつはいったいどれほどの人間がその暇と金を持っていると思ったのだろう。
「だから、ユリア嬢の頭が特別悪いわけでも何でもない」
「いいえ、いいえ」
首を振る。銀色の髪が帽子の隙間から覗いて、揺れる。
……弱った。どうしよう。
「……ユリア嬢。ほら」
ようやく思い出して、ドライフルーツを包んでいたハンカチを差し出す。まだ中身もあるが、中身は食べて、ハンカチで拭いて。砂糖がハンカチに残ってるが大目に見てほしい。そう言って、手に握らせる。ユリア嬢は素直に受け取ってくれた。
「じゃあ。じゃあユリア嬢。挽回問題だ。今日のあの二人を見てどう思った?」
「……ど、どう……」
しゃくりあげるような声をユリア嬢がハンカチで覆う。けれど、考える方に頭が寄って行ってくれたのか、涙は少しずつ止まっていった。胸を撫で降ろす。
「最初に行ったのが、王立劇場。劇を観て、次に大通り。行商を見て、カフェに入って。さあ、どう思った?」
指折り今日のデートコースを挙げる俺に、ユリア嬢は気づいたようだ。
「どれも、平民が行く場所ではない……?」
「正解」
そう。別に俺はユリア嬢を虐めようと思って服の裾の話をしたつもりは、……いや、ああ彼女もわからないんだなと、気づいてほしいなと思ってしまったので、迂遠で意地の悪い質問をしてしまったわけなんだけども。どう考えても俺の質問の仕方と話し方が悪い。あー、まったくロクでもなかった。
だが、そうなのだ。今日、あのバカ王子と自称平民のシュリー嬢が行った場所は、ぶっちゃけて言えば『平民のデートコース』ではない。もっと正確に言うなら、一般的な労働階級の庶民が行く場所じゃない。爵位がなくても金持ちなら行く場所だ。
「今日のあの二人は平民デートだったはずなんだ。じゃあ行く場所が違う。せいぜい郊外にバスケットもってピクニックに行くくらいだ。それなのにまず行ったのは王立劇場? ないな。それから大通りのカフェもあり得ない。そんな金持ちな平民はそうそういない」
あの劇場に入るには最低でも一般的な収入二日分くらいの金が要る。その二日分の収入で四人の人間が一日半食べていける。俺の格好に金があるのかと聞いた売り子は当然なのだ。盗もうとしているのではないかと警戒するのも、金がないだろうと追い払おうとするのも。
その金がない人間の方がずっと多いのだから。
俺の言葉にユリア嬢が唇を噛む。
「行商もなかなか見に行かないよ。しかもあんな大通りの」
ユリア嬢の格好がぎりぎり相手にしてもらえるかしてもらえないかだろう。俺の格好はお察しの通り。
俺は一般より少し下くらいに見えただろうし、それくらいを想定はしているが、この汚れた格好で大通りを歩けばどうなるか。下手すればリンチに遭う。何か盗まれればあっという間に疑われるし、品物に触れようとすれば払いのけられる。機嫌の悪い貴族にぶつかろうものならば、滅多打ちにされる。だから、貧民と蔑まれる人たちは言わずもがな、大多数の平民たちもあまり積極的に大通りなんて近づかない。どんな因縁を付けられるか分かったもんじゃないからだ。
それに、それでなくてもあそこの物価は金持ちと貴族向け。
そんなところに来ている、しかも売り物が銀製品だの、織物だの、剥製だのの行商に行くか? 答えは否だ。行くはずがない。
「同じ理由で大通りのカフェも行かない。果実水が置いてあるような店、行けるものか」
ユリア嬢が飲めなかった水の入ったコップを揺らす。かなりのアルコールで割ってあるが、少しだけ嫌な臭いがする。だが、別に腐ってはいない。ごくごく普通の飲料水だ。
果実水なんて高嶺の花にもほどがある。少し余裕のある人ならばたまに買える、という程度だろうか。あれは相当な高級品だという認識を持ってほしい。
「ユリア嬢。これが普通なんだよ。これで普通だ。固い黒パンも、ぱさぱさのハムもこんなもんだよ。特別貧乏なわけじゃない。これは一般的なんだよ」
平民と一言で言っても、程度はだいぶ異なる。
第一に爵位はないが、下手をすれば田舎貴族より裕福な金持ち。
第二に生活に困ることはなく、少し蓄えもある。貴族が一番想像するし、想像しやすい意味での『平民』の人たち。
第三に日々の食事に何とか困らない程度。が、蓄えやら余裕はなく子供が一人増える、稼ぎ頭が病になる。たったそれだけであっという間に食事にさえ困るようになる人たち。
そして、第四、最下層だ。貧民と言われる人たち。屋根のある家さえ持たず、物乞いもすれば盗みもする。そうしなければ生きていけない人たち。
どれも一言で言ってしまえば『平民』なのだ。
国全体での人口割合を言えば、概ねになるが順に一割以下、三割、五割、最下層が一割以上二割以下。今日の俺くらいの人たちが本当は一番多いのだ。もちろん、この中でも程度はあるんだが。
さて。と俺は両の指を合わせる。
「じゃあここから導き出されるシュリー嬢はいったい何者か。……彼女は間違いなく『平民』だろう。ロット子爵が外に産ませた子供だという事実は別に疑わなくていい。だが、ユリア嬢。シュリー嬢が平民だと言ったとき、想像したのは?」
「……その、一般的な。ノエ様が仰る少し余裕がある、ところの。……まさか」
自分自身の先入観が余計な邪魔をしていたことに気づいたらしい。俺はにっと笑う。
自分の体に合った真っ白な絹のワンピース。貴族のお忍びですと言わんばかりのデートコース。俺がユリア嬢の服を着替えさせた理由もそろそろわかっていただけただろう。シュリー嬢は平民。平民は平民だろうさ。だが。
「庶民向けの恋愛小説に憧れでも? 平民の女の子がたまたま出会った男性が実は、みたいな? あんなことが頻繁にあってたまるか。出会うにはそれなりに理由があるんだよ」
貴族が貧民窟に行くか? 否だ。特別有名ならまだしも平民のパン屋に行くか? 否だ。 供も付けずに彷徨って行き倒れるか? どこの辺境だよ、ここは王のお膝元だぞ。メイドに手を出すのはままに聞くが、今回についてはそうではない。
「シュリー嬢の母親はそれなりに金持ちの令嬢だよ。だから、ロット家の方で揉めなかったろ。どこの馬の骨を! みたいな話にならなかったのさ」
息を飲むユリア嬢に肩をすくませる。
シュリー嬢にとって『平民』はあのレベルなのだ。だから、劇場に連れて行って、大通りを歩かせる。平民デートだとそう平気な顔で笑って見せる。彼女にとって平民はあれなのだ。それを素直に信じて楽しんでしまうアレク殿下も問題はあるんだが。
ぱちん、と懐中時計を開く。そろそろ夕暮れになる。遅くとも夕食の時間にはユリア嬢を家に送り返さないとさすがにまずいので、そろそろ帰らないといけない。椅子を引いて、席を立つ。
「お嬢様、そろそろ帰りましょうか」
「……あの、ノエ様。申し訳ありませんが、もう少しお待ちいただけますか」
「ん?」
深い青の眼がこちらを見上げる。
「その。食事を食べ切ってからでもよろしいでしょうか」
俺の皿はすでに空だが、ユリア嬢の分はもう一切れ残りがある。彼女には決して口に合うものではないだろうに。それでも彼女はそれを食べ残してはいけないものだと気づいてくれた。
俺は座り直して恭しく笑う。
「もちろんですよ。お嬢様」
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