14 ほつれた服と絹のドレスと

 大通りから外れた食堂。

 天井は掃除ができていないのか埃が積もり、蜘蛛の巣が見えます。床は石畳のままで、ぐらぐら揺れる机は脚の長さが違っていました。

 ノエ様に連れられるがまま連れてこられたそこはそれでもそれなりに人が入っていて声が響きます。

 窓際の隅にある椅子に掛けて、脱力するように息を吐くノエ様に、わたくしは身体を固めるしかありません。お世辞にも綺麗とは言えない椅子は食べこぼしが落ちていました。


「何か食べたいものある?」


 慣れた様子でそう尋ねるノエ様に首を振る。できれば水が飲みたいけれど、要望が言える立場でないことくらいはわかっています。


「そうか? じゃあ、こちらで適当に頼むな」


 そう少し笑って、ノエ様が店員の女性に注文を取ってもらう。水を一杯と、アルコールを二杯。それからハムなどとパン。

 食事が並べられるまで、ノエ様は一言も話しませんでした。


 一通り頼んだものが届いて、配膳をしてくれた女性が離れていきます。ノエ様が少し茶目っ気のある笑顔を浮かべてどうぞ、と水を差し出してくれました。


「喉が渇いただろ」

「ありがとうござ……ありがとう」


 くすんだ木製のカップに少し口を付ける。えぐみのある味がして、酸っぱいようなにおいとアルコールの風味が鼻を抜けた。


「……!?」


 驚いて、カップを机に置く。少しむせるわたくしに、ノエ様は何も言わずに葡萄酒を仰いでいました。


「ノ、ッノエさ、」

「食事もどうぞ。そのまま齧るといいよ」


 わたくしの様子にはまるで気に留めず、そう言って焦げ茶色をしたパンが差し出されます。これは、黒パン? 上に載せられたハムは水分を失ってしなびています。

 受け取って恐る恐る口に運ぶ。腐ったような味はしない。そんな味はしないけれど、硬くて酸っぱい。いつも食べているものとは異なる触感も美味しくなく、口の中の水分がすべて持っていかれそう。

 いつまでも口の中で噛んでいるわたくしにノエ様はにっと笑いました。


「答えは出た?」

「……な、ん。……何の?」


 ようやく飲み込んで、そう尋ねるわたくしに、ノエ様は心底意外そうに目を丸くします。


「さっき聞いたことだよ。お嬢様には少し大きい服がなぜ“ちょうどいい”だったのか。もしくは、今日のあの二人のデートで気づいたことでもいいぞ」

「……」


 質問の意図がわかりませんでした。服のサイズが合わないことと、アレク様たちのデートで気づいたことは『どちらか』と並べられるものなのでしょうか。水分を失った口に葡萄酒を含む。アルコールがきついわりに、味が薄くて決しておいしいものではないけれど、水よりはまだ飲めました。一息ついたわたくしに、ノエ様は頬杖を突いたまま笑っています。目が、笑っていませんが。


「……いいえ」

「あれ、そう?」


 結局。結局わたくしはそう答えるしかありません。けれど予想以上にあっさりとしたノエ様の引き際に、どきりとします。このまま見捨てられるような。そんな怖気が背中を走りました。


「あっ、あの」

「お嬢様の教育係誰だっけ? ああ、大丈夫。誰も俺たちの話を聞いてないよ」


 何か言いかけたわたくしに、ノエ様は言葉を被せます。ええっと、と答えるとノエ様は息を吐きました。


「それ歴史の?」

「ええ」


 黒パンを難なく齧るノエ様が、ふーんと黒目を細めました。わたくしにも何人か教師がついていますけれど、主たると言えばアカデミーで歴史の教師もしている彼女になります。

 歴史を含む一般教養はあらかた彼女に教えていただきました。


「お嬢様に王家の紋章のこと教えなかったのもあの先生か。ふーん」


 俺嫌いなんだよなあと小さくつぶやく声が聞こえる。そうなのですか、と相槌を打とうとして、それよりも早くノエ様がこちらに姿勢を戻します。肘をついて、両手の指を合わせて、


「じゃあお嬢様。一般教養の授業だ。魔法の研究棟は幻獣家リコルヌの管轄、軍部は獅子家レーベが握っていて、国の財務は蛇家セルペンテ、じゃあ鷹家エグル家は?」

「? 郵便事業ですが」

「正解」


 鷹家もいくつか国の事業を担っているけれど、メインの事業といえば郵便になる。この国に住所と番地を付け、手紙などを運ぶ国家事業。ただ、貴族はそういうものを挟まずに侍女や執事を挟んで手紙をやり取りするし、平民の識字率はそこまで高くないので、言ってしまえば閑職。規模もほかの三家と比べるべくもないほど小さい。いいえ、そうではありません。え、ノエ様突然何を? けれどわたくしがその疑問を呈する前に、満足そうに笑ったノエ様がさらに問いかけてきます。


「じゃあ次。四大公爵家のうち、幻獣家と獅子家は敵対していた部族長たちだ。蛇家はもともと王の親衛隊。今じゃ獅子家に譲ってるけどな。まあ側仕えだ。じゃあ鷹家は?」

「旗持ちです」


 王の旗持ち。言ってしまえば、最下級の兵士。


「なら、旗持ちがどうして公爵家に?」

「ええっと」


 ノエ様の意図がわからない。意図がわからないけれど、問われれば答えるしかない。ただ。


「……鷹家を侮辱するつもりはありません」

「もちろん。学んだとおりに答えればいいよ」

「では。敵対していた部族長二人に対し、味方側から一人にだけにしか上位の地位を与えないのはおかしいとの意見があったのだろうと」


 つまり、数合わせのおこぼれで公爵家になったのだと。

 ノエ様は答えに満足したのかうんうんと楽しそうに頷く。えっと、ノエ様? 鷹家の人間ですよね?


「じゃあ、どうして服はちょうどだったんだ?」

「はい?」


 話が急に戻ってきてしまった。うろうろと視線を彷徨わせるわたくしに、ノエ様は苦笑を零します。


「裾が長いのは当たり前だ。きっちり採寸してもらった服なんて、貴族じゃなきゃ持ってない」

「…………」


 言葉を咀嚼して、嚥下する。そんな簡単なことにやたらと時間がかかります。


「……え?」


 そうして。そうして、わたくしが返せた言葉はたったのそれだけでした。

 そんなわたくしの言葉にノエ様が失笑します。


「どうした? 難しいことは何一つ言ってないぞ。誰かの採寸された服を直しながらどんどんお下がりするんだ。だから、特に子供は自分に合った服なんてなかなか着ていない。小さい服を無理に着ているか、大きな服を直して着ているかの二択だ」


 口の端を釣り上げてそう言うノエ様が大口を開けて黒パンを押し込む。わたくしはノエ様の言葉に何も返す言葉がありませんでした。愕然としたからです。

 それは。少し、ほんの少し考えればわかったはずなのに。わからなければならなかったはずなのに。


「……申し訳ありません」


 俯いて、そう答えるしかありませんでした。アカデミーの成績は自慢ではないけれど上位に入る。教養があると自負しているところはありました。あったはずなのに、こんな“当たり前”のことをわたくしはわからなかったのです。そんなことすらわからなかった自分に、気づけなかった自分にひどく失望しました。それは知らなければいけないことでした。わたくしが、貴族として知っておかねばならない事実でした。それをわたくしは知らなかったのです。気づいていなかったのです。それを知らずに他よりも賢いとそう思い込んで、平然と過ごしていたのです。こんな恥ずべきことはありません。

 ごくん、という嚥下音がわたくしの思考を止める。


「いいや? 俺に謝る必要はないぞ? 恥じ入ってる理由が自分の無知からくるなら上々だ。シルヴァンだって答えを出すのに少しかかったしな」


 シルヴァン? ……まさか第一王子シルヴァン様!? けれど、シルヴァン殿下は答えられたのです。答えられなければならない答えをきちんと出せたのです。それは王の資質。貴族の義務。わたくしは、それをわからなかった。こんなわたくしが大公妃になろうとしていた? 酷い冗談以外の何物でもありません。

 知らなければいけなかったのに。気づけたはずなのに。

 王立劇場で「追い出される」と言われた意味が、カフェにノエ様が入れなかった理由が、ようやくわかりました。色褪せて、袖口がほつれた服。『平民わたくし』は優遇されないのです。誰も『平民わたくし』のためにドレスを着せてくれません、ドアを開けてくれません、暖かい料理も持ってきてはくれないのです。『平民わたくし』は『貴族わたくし』のようにどの道を歩いても良いわけではないのです。


「い、いや。責めてるわけじゃなくてだな……」

「いいえ」


 恥ずかしい。こんなことさえわからなかった、知らなかった自分が恥ずかしい。

 あー、と困ったようなノエ様の声が耳を撫でました。


「意地が悪かった。俺が悪かった。……だから泣かないでくれ」


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