11 餌付けしようと思っています?
「ノエ様」
「や、ユリア嬢。ご一緒しても?」
ある日の昼休み。人を避けて中庭のベンチに座っていたわたくしに、聞きなれ始めた声がごそごぞと低木の垣根を跨いできます。わたくしはそれに微笑んで、頷き、隣を勧めました。制服に葉っぱが付いてますよ、ノエ様。
「ここがよくわかりましたね」
「すごいでしょう、もっと褒めて良いんですよ」
服に付いた葉やら埃やらを払いながらにへらと悪戯っ子のように笑うノエ様にわたくしは何と答えたらいいのかわからず曖昧に笑うしかありません。けれどこうやってロジェ様とノエ様がわたくしのことを気遣って――もちろん噂を広めるためなのですが――くださるのはとてもありがたいことでした。だって、そうでなければわたくしは一人で腫れ物以下の扱いに耐えるしかなかったでしょう。わたくしの鞄からシュリー様の私物が見つかった一件を機に友人たちも疎遠になってしまいましたから、誰もわたくしの味方をしてくれない中で、終わることのない悪口と陰口、冷たい視線を向けられながら、アレク様に醜い嫉妬だと憐みの目を向けられるのです。……考えるだけで、息ができなくなります。
「……なんか甘いもんでも食べるか?」
わたくしの変化に気づいたのか、ノエ様が少しだけ顔を顰めてそう尋ねます。今日もですが、「わたくしはどこどこにいます」と場所を示し合わせたことはありません。それでもノエ様はこうやってわたくしを見つけてくださるのですから、これほどの安堵はないでしょう。”狼狽えています”と言わんばかりのノエ様の表情に、少しだけ笑ってしまいました。もちろん、本当はとても不敬なことなのですが。
「いいえ。お気持ちだけで大丈夫です、ありがとうございます」
「まあそう言わずに」
「……もしかして、わたくしのことを餌付けしようと思っています?」
「なんだ、気づいていたのか。バレない自信があったのに」
「毎回お菓子を出してこられれば流石に気づきます」
ころころと。からからと。
穏やかな時間が流れていきます。もちろん、これはお芝居です。台本も何もないけれど、ただの。お芝居、なのです。
手のひらに転がされた金色の飴玉をそっと口に運ぶと、甘い味が舌を撫でていきました。
*
「きゃっ」
気を付けていた、つもりでした。アレク様に責められたものから全く身に覚えのないものまで。様々な噂があちらこちらで飛び交うようになり、わたくしに向けられる目は冷たいものに変わっていきましたから。だからわたくしから彼女に接触することはないようにしようと。それなのにうまく死角にいたようで、席を離れようとしたわたくしとシュリー様がぶつかってしまったのです。かわいらしい悲鳴の後、手元に持っていらっしゃった教科書と一緒に、ペンとインク瓶が転がり落ちて――――
「あ」
けたたましい音を立てて床に散らばる文具。からから、とインク瓶の蓋が転がっていく。けれど、それよりも。
べっとりと藍色のインクが服にかかったシュリー様が呆然と立ち尽くしていました。
「大丈夫ですか、瓶の蓋が開いていたのですね。お気をつけて」
ここで放っておくわけにはいかない。吃驚したまま固まっているらしいシュリー様に声をかけて、ハンカチを渡す。シミになってしまいます、早く洗った方が良いですよと言うとハッとした様子で服にハンカチを押し当てました。ああ、床の文具を拾って、それで床を掃除してもらわなけれ、
「シュリー!!!!」
身体をかがめようとした態勢で、その大声に身体が跳ねます。こちらには見向きもせずに一直線にシュリー様に向かっていったアレク様は、シュリー様を腕に抱きよせて、わたくしを睨みつけました。
「またか、ユリア」
呆れにも似た侮蔑を含む冷たい声。わたくしは、その声にゆっくりと身体を起こします。
「アレク様」
「ユリア、また君か! いったいどうしてシュリーにそんなことをする!? シュリーの何が気に食わない!?」
「あ、アレク、違うの。わたしが……!」
スカートの裾を摘まみ、礼を取る。けれど、それに対する答えはなく、わたくしは顔を上げました。アレク様から浴びせられる怒声に、泣きそうになる。違うのよ、そうじゃないの、と口で言いながらアレク様の口を塞ぐこともしないシュリー様に嫌悪を感じる。怒鳴り散らすアレク様に、周囲が囁き合いました。何があったんだ? ああ、またユリア様がシュリー様をいじめたらしい――。…………ええ。ええ、ええ! もうたくさん!
「ですから、わたくしはそのようなこと」
「ならどうしてシュリーのインクがすべてぶちまけられるんだ!」
あなたがしたことでしょう。
そうここで叫びたかった。あなたがわたくしの鞄にシュリー様の私物を紛れ込ませ、盗んだとそう仕立て上げたでしょう、と。
けれど、それはいけない。口が渇いて喉が鳴ります。だってわたくしがそんなこと叫んだって誰も信じてくれないのですから。この状況で、わたくしの言葉は真実にはならないのです。
だから、彼の言葉に淡々と返事を返します。わたくしは何もしていないと。彼女にぶつかってしまったけれど、それは謝罪したと。インク瓶の蓋は知らないと。
けれど、彼の言葉は止まりませんでした。わたくしを責めたてる声がナイフのように耳に突き刺さります。声高に叫ばれる憶測が、誰かに届いた瞬間に事実に挿げ替えられていくのです。……やめて、やめて。もうやめて。もうこんなところに居たくない。
と。
「……ノエ様!」
野次馬の隅に、ここ一月と少しで見慣れ始めた黒髪を見つけました。この場を立つ言い訳ができたことに、ノエ様が来てくださったことに、心の底から胸を撫でおろします。アレク様に挨拶をし、差し出された手に自分の手を重ねる。これでこの場を離れられる。そう、確信しました。
「エグル? ……ノエ=エグル! 鷹公爵家の子息ともあろうものが、王家を無視するのか?」
…………な……。
アレク様のとんでもない発言に、振り返ります。ノエ様は礼を取っていました。無視などしていません。それは言いがかりに他ならず、アカデミーでの上級生に対する言葉ではなく、けれど王族が言えば、無視などできない言葉。顔を見ればニヤニヤと、人を蔑む類の笑みが口元に浮かんでいました。……どうして。
失望に呆然とし、何か言い返さなければと思うよりも先にノエ様が一歩前に出て躊躇いもなく頭を下げます。
それでなくてもわたくしのせいで野次馬が集まっているこの場でその行為は
そうして彼はわたくしの代わりと言わんばかりに、ノエ様に罵倒を投げ続けました。
成績が振るわない。姉の出涸らし。鷹公爵も苦労されるな。鷹家ごときが。
唖然としました。アレク様から吐き出される言葉に、絶句しました。そして、それらのすべての言葉をノエ様はへりくだった笑いで誤魔化します。
……気分が、悪い。
「勉強をしているだけです」
思った以上に感情のない声が口から飛び出ました。心がすっと冷めていくのがわかりました。これが彼の本性だったのかと、そう理解しました。
アレク様が急に変わってしまったのだと、わたくしは今の今までそう思っていたのです。シュリー様が現れて、彼女に感化されて、彼女に恋をして、だから邪魔なわたくしを排除しようとしたのだろうと。
けれどきっと違うのです。そうではなかったのです。
アレク様は、己にとってどうでもいいものを“どうでもいい”と言ってしまえる方だったのです。自分から見て下の者を、陥れても許されると思っていらっしゃるのです。
そうでなければ、こんなことをできるはずがないのですから。
「やましいことはありません」
どうして。
アレク様の言葉に、わたくしはそう言い捨てて、立ち去ります。公の場では許される行為ではありませんが、ここは
「ユリア嬢」
かけられた声に、ようやくわたくしは足を止めます。どうしたんだと言わんばかりの声に、どうしようもなく腹が立ちました。
「のえさま」
どうして、どうして。
アレク様は見せしめのようなことをしたのに。あの方は、第二王子としてそんなことをしてはならないと知っているはずなのに。臣下を馬鹿にする行為が王を馬鹿にするものだと知っているはずなのに。知っていなければならないのに。
ノエ様、どうして。どうして。あんなに簡単に頭を。へらへらと笑って、謝る場面ではなかったはずなのに。そんなことはしなくてよかったはずなのに。愚鈍だから? 馬鹿にされたことにも気づかないから? いいえ、いいえ。そんなはずはない。本当に愚鈍であるならば、あの場を立ち去っても良かった。『愚鈍な鴉』の像が割れる。
「ユリア嬢に謝ってもらうことでもないし。別に気にしてない気にしてない」
謝るわたくしに、ノエ様はけらけらと苦笑いを浮かべて手を振りました。そして、手を差し出して。
黒い髪と黒い目と。真っ黒な制服を少しだけ着崩したノエ様の姿に少しだけ、自分の口元が綻ぶのがわかりました。
*
「デートなんてどうです?」
放課後の、図書館にて。
学期末の考査の期間が終わったからか人はいつもよりさらにまばらで、やわらかい西日のオレンジが部屋を暖めていました。わたくしもすぐに帰ろうと思っていたのですけれど、試験が終わった時にアレク様とユーベル様とマルク様がシュリー様をお茶に誘っているのを聞いてしまったのです。そんな状況に鉢合わせでもして因縁を掛けられてはたまらない。そう思ったわたくしは、就学時間が終わってすぐ、質問ついでに担任の先生と一緒に部屋を出て、そうして時間を潰しに図書館で宿題をしていて、今に至ります。
「……えっと」
大きな行商が来ているから、とは以前食堂でノエ様から聞いていましたし、誰かが遊びに行ったとの話も聞いていました。一緒に是非、とも確かに言われました。言われましたけれど。
本気で誘われるとは思っていなかったのに。だって、それは周りに聞かせるためだけの嘘だったはずなのですから。……でも、周りに聞かせるためならばこんな人のいない場所でする必要がない。
けれどノエ様はにやりと笑って、口を開きます。
「……の観察ツアーだけど」
「まあ。それは楽しそうですね。是非連れて行ってくださいませ」
ぱくぱくと口だけがバカと動く。アレク様のことに違いない。そんな、とんでもない……と思うけれど、それを窘めることはしませんでした。
少し口元が笑ってしまったのがバレたのか、ノエ様がじゃあと封筒を机の上に置きます。
「楽しみにしてるよ」
*
前日は風呂禁止。どうしても入りたい場合は湯で流すだけ。
香水、香油など匂いのあるものは禁止。化粧も最低限で。
服はできるだけ簡単なものを。
家紋の入った馬車で地図の通りのルートを選んでくること。
途中でクラスメートに会ってどこに行くかと聞かれたら笑って誤魔化しておくこと。
などなどなど。
当日。
馬車に揺られながら嫌味なほど細かに記入された指示を再度眺めて溜息をつきます。あっちへうろうろこっちへうろうろする道順を伝えたときの「なんですかそれは」という御者の顔が忘れられません。わたくしだって、わけがわかりません。
からりと音を立てて馬車が止まりました。随分と遠回りをしてようやく鷹公爵家に着いたようです。
馬車のドアが開けられて、まず華美な庭園が目に飛び込んできます。腕のいい職人が手塩をかけて育てたと思われる、けれど決して趣味がいいとは言いづらいそれらに目を奪われかけて、ドアを開けた人物の姿に絶句しました。
――――。
「ノエ、さま?」
「や。……もう少しバレないと思ったんだが。意外に早く見つかったな?」
汚れて皺のいったシャツにカーキ色のズボンが目に入る。靴もへたっていて、縫い紐がほつれ始めていた。ズボンは汚れが目立たない色をしているけれど、裾に泥が跳ねているし、本人の顔にも灰が被っている。一言でいうなら小汚い。ただ。
「似合うだろ」
「え、……ええ……」
にっ、と笑うノエ様につい頷いてハッと正気に戻ります。いいえ、いいえ! 違います。慌てるわたくしに、ノエ様はからかうように笑うだけ。
似合う、と言われれば――とても不敬だけれど――とても良く似合うのです。町の少年と混じればきっと誰も気づかないに違ない。煙突掃除の道具でも持てば、掃除夫にだって見えるでしょう。なんならドレスコードを着ているよりよっぽど似合っている……ええっと。公爵家の、息子ですよね、ノエ様。
「驚いた顔が見れたならよかった。姉の服があるから着替えてくれ。それと手持ちの荷物は全部うちに置いて行って。金も要らない」
テキパキとそう言い、御者に馬車を動かすよう指示を出します。鷹家の使用人たちはそんな様子を見慣れた顔で、わたくしを誘導していきました。
*
簡単な服をとは言われていたし、平民を装ったアレク殿下とシュリー様の逢引きを尾行するなら貴族の格好が頂けないのは勿論わかります。だから、持っている服で一番簡素なものを選んできましたし、髪飾りだって宝石のついていないものを選んでいます。それなのに。
……どうして、こんなことに。
三十分も経たないうちに、公爵家の侍女たちに見ぐるみを剝がされて、なんでもない色褪せたエメラルドグリーンのワンピースを着せられます。フリルやレースの類はなく、袖口と胸のボタンが唯一の装飾らしい装飾。袖口には何度も縫い直した跡が見られました。わたくしには少し大きいけれど、「ちょうどよさそうですね」と言われてしまうと、何も言えなくなります。そもそも公爵家が用意してくれたものにケチをつけるなんてとんでもないことですし。
「ああ、髪はいかがしましょうか。簡単に纏めるだけでよろしいでしょうか」
「ええ……」
もうどうとでもしてください。髪飾りまで外されて、代わりに結紐で髪を一つに纏められる。
「できましたよ」
そう言われて、鏡を覗く。鏡映る自分は、貴族というよりはまるで少し裕福な家の娘のよう。
「町娘には見えませんね……」
そう頬に手を当て残念そうに感想を言う一人に、頷いた。わたくしも、そう思います。
*
「よくお似合いで」
鷹家の裏でノエ様がそう楽し気に笑っていました。思ってもいないでしょう、とノエ様を少しだけ睨みます。ノエ様、わたくし説明が欲しいのですけれど。
「さあ、ほら。泣いて過ごしている場合はないんだろう? 笑った笑った」
けれど、わたくしの心の中の言葉は無視されて、ぽすりと茶色いキャスケット帽が被されて。そして、さあさと使用人が買い出しに使う馬車に押し込まれました。馬車というよりホロを被った荷台のようなそれに座らされ、使用人用の門が開く。貴族の使う大通りではない、裏道を馬車が駆けていきます。
「ノエ様」
がらんがらんがらん。酷い音を立てて馬車が道を行くので、大きな声を出さないと声が聞こえません。けれど、不思議と振動はほとんどなく、良く聞けばクッションに魔法がかかっているとのこと。わたくしも魔法は少し使えますし、魔法使いは数いますけれど、魔法のかかった道具はとても珍しい。なんでも永続的に魔法が機能し続けるようにすることが難しいのだとか。まあ、とよそ事に驚くわたくしに、ノエ様がにやりと笑います。
「なんだ、御者に座りたかったか?」
「違います」
その言葉に居住まいを正す。クッションに驚いているところではありません。
「ノエ様、説明してください。どちらに向かっているのですか」
「ん? ああ。まあ、まず今日の設定だ。ユリア嬢はちょっと裕福な町娘……がちょっと変装して街に遊び来たことで良い。本当なら町娘までなってくれればよかったんだが、まあ染みついた所作を経一日で直せってのも無理な話だし。いつもどおりでいてくれればいいよ。が、絶対に貴族だと主張しないこと。振舞わないこと。俺はどうとでもするしどうとでもなるから、離れないよーに」
「わかりました」
右手の人差し指を立ててそう仰るノエ様にわたくしは頷きます。
「目的は簡単。バカ王子の見学だ。アレク殿下とシュリー嬢が平民体験お忍びデートをするらしいから冷やかしにいこう。ユリア嬢には辛いかもしれないが、こう、バカを殴りつける怒りを溜める感じで、な。で、まず最初の目的地は王立劇場だ」
「はい」
右手の中指も立てて、わかった? と首を傾げるノエ様にもう一度頷きます。馬鹿を殴りつける感じですね。わかりました。人を殴ったことはないのですけれど、ぐーでよろしいでしょうか。
「ああそれと」
「はい?」
ノエ様がわたくしの姿を上から下まで眺めてから笑いました。
「俺のことは呼び捨てで。敬語も要らない」
「はい。……えっ?」
どっからどう見ても、俺の方が立場が下だからな、とノエ様はやけに楽しそうに言……。
そんな。………………そんな!!!!
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