10 「いいえ」

 そうして、そうしてわたくしは見てしまいました。知ってしまいました。

 ノエ様が『お土産』だと、そう言って教えてくれた時間と場所で。


 アレク様が、わたくしを陥れるところを。

 わたくしが『悪役』に仕立て上げられるところを。


 わたくしは、アレク様に気づかれないようにそっとその場を後にして。そのあとのことはほとんど覚えていません。執事が「お嬢様、お手紙は確かにお送りしましたよ」とそう言って、ようやく自分が今家にいて、鷹家に手紙を出したことをぼんやりと思い出しました。

 よくよく考えれば、あり得ないほどひどい手紙を出しました。上位の貴族令嬢がするような手紙ではなく、平民の子供の方がまともな手紙を書けるだろうと、そう思えるほど。けれど、それを後悔するよりも先に、手紙の返事が返ってきたというのです。受け取り次第すぐに筆を執ってくださったのか、ローゼ様の字が少し崩れていました。

 何度も何度も、彼の行動が頭をよぎる。考えないように考えないようにと思えば思うほど、彼の表情が脳裏に焼き付く。悲しくて、悲しくて。惨めで、惨めで。

 短く、浅い睡眠を何度も何度も繰り返しました。


「ようこそ、ユリア嬢。それでお答えを頂けると思ってよいでしょうか」

「……ごあいさつ、もうしあげます……」


 一年よりも長い一日を、永遠とも思える日常をなんとかやり過ごして過ごして、週末に鷹家を訪ねます。前と同じくだらしなく笑うノエ様に、挨拶をしなければ、と思考の纏まらない頭で考えて。いえ、挨拶は先程して……? した、かしら? 椅子を勧められたのかもわからず、椅子に座りこむ。いけない、これでは失礼に当たる。そう思うのにもう立ち上がる気力も湧きません。慌てた様子の黒い塊が、こちらに駆け寄る。ぼんやりと映る姿に嗚咽が漏れました。

 ろーぜさま。のえさま。どうして。どうして、あれくさまが。どうして、殿下が。わたくしの。どうして。ご存じだったのですか。

 ローゼ様が人を下がらせる声がして、人の気配がどこかへ立ち去ります。


「いいえ。俺は占い師ではありませんから」


 はっきりとした言葉が、突き刺さる。どうして、どうして。どうして。

 何が『どうして』なのかもわからないまま、どうして、と繰り返します。言葉として口にできたものがいくつあったのか、わたくしは数えることもできませんでした。


「あなたの知りたいことだったでしょう」


 ……わたくしの、しりたいこと。

 どうして、誰が、何の為に、わたくしを陥れようとしたのか。

 そう、確かにわたくしはそれが知りたかったのです。わたくしを陥れて、アレク様に嘘を吹き込んだのは誰だったのか、知りたかったのです。そうすればきっとアレク様もわたくしの無実を信じてくださると。わたくしの言葉に耳を貸してくださると。

 それなのに。

 無慈悲なほど、淡々と。当然のように、平然と。返された言葉に、歯を食いしばることしかできませんでした。涙が溢れそうになります。喉が震えて、呼吸がうまくできない。指の先が冷えていって、その感覚を手放していく。けれど、あんな酷い事実をわたくしに突きつけた黒い目から目を離さない。


「どうして――!」


 わかっています。ノエ様は何も悪くはない。わたくしを陥れたわけではない。

 けれど、もう何もわからない。

 どうして、どうして。どうして。どうしてこうなってしまったの。どこで何を誤ったの。どうしてアレク様があんなことをなさったの。どうして、わたくしはアレク様にあそこまで陥れられなければならなかったの。わたくしは、アレク様にとってただの邪魔者でしかなかったの。

 答えをくれる人間はこの場にいない。問いかけに返される言葉はない。漏れそうになる嗚咽を、必死で喉の奥に押し込みます。こんな『悲鳴』を、貴族は他人に聞かせてはならないのですから。何事もないように、何事も起こってなどいないように、悠然と微笑んで、弱みなど見せてはいけない。いけないの。


「泣いて引き下がるなら今ですよ」


 ………………慰めにも似た、言葉が耳を打つ。

 それは甘い誘惑に違いありませんでした。だって本当はもう何もしたくない。婚約者の立場もいらないと投げ捨てたい。そのあとわたくしが二度と社交界に顔を出せなくなってもどうだっていい。アレク様の楽しそうな顔がずっと頭に張り付いているのです。わたくしに対する非難の声がずっと耳に鳴り響いているのです。

 どうして、どうして。わたくしは何もしていないのに。けれど、誰もその言葉を信じてなんてくれない。だって、わたくしは王族ではなく、公爵家ではなく、ただの侯爵の娘だから。王族の言葉も公爵家の者の言葉も翻す力はないから。だから、わたくしは黙って生贄になる、しか、


 ――どうしてわたくしが引き下がらなければならないのでしょう。


 なる、しか。


「いいえ」


 気が付けば首を振っていました。両の手でドレスの裾を握りしめる。震える唇が、それでも言葉を吐き出します。

 いいえ、いいえ、いいえいいえ……! アレク様の歪んだ顔。非難する声。わたくしをなじる誰かの言葉。

 ここで泣いて引き下がって、わたくしがすべての罪を背負って、潰されてしまうなんて。してもいない罪を認めて、指を差されて生きるだなんて。そんなことあってはならない。わたくしの言葉が、わたくしにそんなことを許さない。だってわたくしがここで諦めたとして、誰もその後の責任を取ってはくれないのです。慰めて道を用意してはくれないのです。わたくしだけではなく、家族まで指を差されるなんてあってはならないのです。わたくしは、アレク様が好きに使っていい存在ものではないのですから。飽きたら捨てる玩具ではないのですから。アレク殿下に嘲笑われて、お父様が頭を下げて謝るなんてそんなこと、恐ろしすぎます。だって、わたくしの無実を、わたくしだけは知っている。


 ――助けてほしい?


 顔を上げて、まっすぐに相手を見る。指先から、足の先から、小さな勇気プライドをかき集める。矜持プライドなど投げ捨てて、零れてしまった涙は、気づかなかったふりをして。


 助けてほしい。たすけて。

 

 それはとてもみっともない姿だったに違いありません。頭を下げて、懇願する様子は貴族の子女のものではなかったに違いありません。けれどそれでも構いません。その言葉が真実であれ、罠であれ、わたくしはその言葉を信じます。だって、わたくしの言葉など何の役にも立たないのです。誰も信じてはくれないのです。王家にも、公爵家にも、わたくしが敵うことなどないでしょう。お父様でさえ貶められて終わるでしょう。だから、わたくしはその言葉を信じます。伸ばされたその手を掴みます。

 泣いて引き下がって、蹲っても得るものは何もないのですから。


「最高の悪役令嬢に仕立ててやるよ」


 わたくしの訴えに、ノエ様が答えます。もう、涙で前もよく見えないけれど、笑っているようでした。今まで見たことがない、優しげな雰囲気で。


「ありがとう、ございます……」


 そうして、わたくしは改めてノエ様に頭を下げました。


   *


「このままユリア嬢の噂を過熱させたい」


 評判をさらに下げることになる、と前置きされたそれをわたくしは頷きました。どのみちわたくしの評判は転落する一方で、アレク様に陥れられても同じことが起きるのですから拒絶する理由はありません。その理由や最終的に行きつく先については教えてもらえなかったけれど。

 そして、そこからの動きはとても速いものでした。


「泣いて過ごすつもりはないんだろう?」


 そう茶化すノエ様に連れられて翌日には蛇家のロジェ様にお目通りし、さっさと約束を取り付けてしまうし、週明けには「これ読んで適当に恋文ラブレター書いて。もちろん送ったものは燃やすこと。あ。できるだけ情熱的にな!」とシルヴァン殿下の数日分の行動が送られて来たのですから。分単位で何をしていたか書かれたそれに少し……いえ、だいぶぞっとしました。……するでしょう!?

 また、日々アカデミーでロジェ様はわたくしを気に掛けるように頻繁に声をかけてくださるようになりましたし、ノエ様はわたくしのいる場所を把握しているかのように姿を見かけるようになりました。代わる代わる、わたくしが孤立しないように、“誰かといた”という証拠が残るように気を使ってくださっているのがわかります。ノエ様については毎回毎回餌付けでもするようにお菓子を出してくるのはどうかと思いますけれど。


「誰もいないときはどうしましょう」

女子トイレ化粧室にでも閉じこもれば?」

「そっ! なっ!?……ノエ様、それは、あまりに……!」


 風の精霊から情報を集めた、なんて眉唾物の話はいまだに信じられませんが、それでもそれを差し引いてもノエ様は動きが早い。ローゼ様とノエ様の前で醜態をさらしたあの日からまだ一月経ったくらいなのにわたくしが遊び歩いているという噂がアカデミー中で囁かれているのです。ロジェ様は勿論、ノエ様も公爵家の人間だから余計に目立つというのもあるでしょうが。


「ユリア嬢。もしよろしければ、貴女の時間を頂いても?」

「ええ。ありがとうございます、ロジェ様」

「いいえ、とんでもないことですよ」

「……」

「良い天気ですね。貴女の瞳の色のような美しい空です」

「…………あの、こんな茶番に巻き込んでしまい申し訳ありません……」

「いいえ、仕事ですから」


 そして噂が広がるにつれ、アレク様からの嫌がらせはほとんどなくなりました。ノエ様曰く「そりゃ、シュリー嬢の私物をユリア嬢の鞄に紛れ込ませなくてもユリア嬢がどうしようもない女だって噂がすでにあるんだから、積極的に危険を冒さなくてもいいだろ。良くも悪くも注目されてるってことは見られてるってことなんだから」とのこと。その口ぶりに頭が悪い享楽主義者という像に、少しずれを感じてしまいます。いいえ、アカデミーでわたくしに声をかけるノエ様は確かに頭が空っぽそうなのですが。


「シルヴァン殿下に頂いたのかしら……?」


 何度目かの恋文依頼に、わたくしは自室の机の上で息を吐きます。

 こんなもの一体どこで手に入るの? 今この状態を人に見られれば、わたくしは立派な犯罪者ストーカーに認定されてしまうに違いありません。シルヴァン殿下の行動スケジュールに沿って、内容が合うようにお手紙をしたためる。アレク様にですらこんなに情熱的な手紙を書いたことがないのに……。自分が書く内容があまりにも熱に浮かされた品のない文章で、読み直すのが恥ずかし過ぎました。

 誤字や脱字、失礼がないことをもう一度確認して封を押します。封筒も中身にも宛名や差出人の名前は書かない。封筒も特別なものではなく、できるかぎり安い量産品を。封蝋もいつも使っているものや家紋の入ったものではない新品を使い、香水や匂いがつくものは添えない。ノエ様の指示を反芻し、間違っていないことにほっとする。

 婚約の件はしばらく保留にしてほしい。こちらから破棄など申し上げれば角が立つ、と説得したのでお父様が王家に乗り込むということは起こらないはず。

 ……お父様もお母様も声にはしないけれど、わたくしの『噂』を聞いたようで、ひどく心配そうな顔をしてくださっている。結婚前の娘が蛇家と鷹家、それに第一王子と噂になっているなんてそんな酷い話はなかなかない。わたくしだって、それがどれだけはしたないことなのかわからないわけがない。お父様にもお母様にもすでに迷惑をかけてしまっている。心苦しくて、たまらない。けれど、それでも。わたくしはノエ様からの封筒を暖炉の火にくべます。

 ぱちぱちと爆ぜる火の粉が、きらめいて消えました。


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