9 それでも、

 どうしてこんなことになったの。

 どうして、どうして。どうして――。

 その問いかけに応えはない。その疑問に回答は与えられない。


「初めまして。どうぞよろしくお願い致します。何かありましたら、ご相談くださいね」


 十か月ほど前、季節外れに転入してきた子爵令嬢に、確かにわたくしはそう言って挨拶をしました。栗毛の髪と、同じ色の瞳。幼げな容姿がとても可愛らしい方。庶子だとは言うけれど、そもそもアカデミーには平民も多い。わたくしが仲良くしていただいている友人の中にも貴族ではない人が少なからずいます。だから特に抵抗も蔑みもありませんでした。なかったはず。

 けれど、彼女は笑って「よろしくお願いします」と返して、それ以降向こうから話しかけてくることはなかったのです。元々庶子だったということを気にしているのかもしれなかったですし、わたくしの言い方が癪に障ったのかもしれません。他のクラスに良い友人がいらっしゃったのかも、貴族令嬢が憐れんで、なんて感じたのかもしれません。だからそれ以上必要以上に彼女に話しかけることはしていませんでした。アレク様だって最初はそうでした。そうだった、はずでした。

 けれど。


「四大精霊をすべて呼び出すなんて! 素晴らしい!!」


 二週間もたたないうちに彼女の評価は翻ったのです。きょろきょろと周りを物珍し気に見て回っていて、勉強は勿論、礼儀がわかっていない。ただ、急に環境が変わったのだから仕方ないだろう――、という評価が。

 精霊学の授業で、こともなげに四大精霊すべてを呼び出した彼女はあっという間にクラスの中心に持ち上げられました。それはそうでしょう。だって、アカデミーは貴族社会の縮図なのですから。アカデミーにいる者は貴族であれ平民であれすべからく平等に『生徒』である、というアカデミーの指針はつまりということ。その繋がりが、将来必ず役に立つと。その指針に従ってアカデミーにいる間にわたくしたちも『社交』をするのです。貴族であれば優秀な人材に唾を付けますし、優秀な平民は貴族のパトロンを作ります。下位の貴族が王族とのつながりを作れるのも唯一ここだけと言っても過言にはなりません。

 だから、四大精霊すべてを呼び出せる彼女をアレク様が気にかけ始めるのも当然だと思っていました。思っていた、のに。


 彼は彼女とよく話すようになりました。平民だった彼女に教えてもらうのだと、市井の視察に出かけるようになりました。しばらくすると公爵家の二人まで彼女を囲うようになって、四人で過ごす姿をよく見かけるようになりました。ころころと爛漫に笑う彼女の先にはいつも彼がいて、その笑顔に柔らかな表情を浮かべる彼はまるで恋人といるようでした。

 決して愛があって好意があって結ばれた婚約ではなかったけれど。それでもわたくしだって彼と長く過ごしたのです。燃えるような恋はしていないけれど、暖かな安堵はあったはずでした。はずだったのに。……胸が苦しくてたまりませんでした。


「あまり、異性と二人で出かけられるのは……。シュリー様の評判も悪くなってしまいます」


 苦言を呈しました。何度も、何度も。アレク様にも、シュリー様にも。

 婚約者がいるのに異性と出かけては誤解を招くと。過剰に異性の身体に触れてはならないと。言葉遣いを改めた方がよいと、一人の才能だけに入れ込むのは王族としてよくないと。何度も、何度も。どの言葉も彼に顔を顰められました。公爵家の二人に束縛し過ぎだと進言を諫められました。彼女にぽろぽろと泣かれて、そしてまた彼になじられました。


「シュリーの教科書がないんだ。ユリア、知らないか」


 困ったようにそう尋ねる彼に、存じ上げませんと答えました。本当に知らなかったのです。探すのを手伝いましょうと申し出ようとして、わたくしの鞄から彼女の教科書が見つかって。


 いいえいいえ、違います。わたくしではありません。


 そう、声を上げても誰も助けてはくれませんでした。

 彼女を守るように腕に抱いて怒りの籠った眼でわたくしを睨む王族かれに、王子かれの傍に立って彼と同じ眼でわたくしを見る公爵家の子息たちに、声を上げられるものは誰もいなかったからです。

 泣くわけにはいきませんでした。認めるわけにはいきませんでした。背筋を伸ばし、まっすぐに彼を見て、身に覚えがないことですとそう答えました。そうとしかできなかった。

 彼女のありとあらゆるものが無くなったり、壊されたりして。その証拠はすべてわたくしの持ち物から出てきて。噂が噂を呼び、わたくしの知らない『わたくし』の話が耳に届くようになって。

 何を間違ったのかもわからないまま、時間だけが過ぎて行って。過ぎていった時間の分だけ手遅れになって。もがけばもがくだけ、海底に沈んでいくようでした。


 何もかもが裏目に出て、身動きも取れなくなって、休学も考えていたころ。

 一通の手紙が届きました。真っ白な便箋に、鷲の羽根の封蝋。鷹公爵家からの招待状。どうしてわたくしに? 第二王子アレク殿下の婚約者として鷹公爵に挨拶をしたことはあったけれど、鷹公爵の子息は一つ学年が上で繋がりはないし、差出人であるローゼ様はさらに年齢が上でお会いしたことすらなかったのに。

 どうする? と尋ねるお父様に、わたくしは少し悩みました。

 侯爵の位で公爵の呼び出しを断るのは体面が悪い。けれど、そもそも鷹公爵家は他の公爵家と違って評判がすこぶる悪い。幻獣家は魔法の研究棟を、獅子家は軍部を、蛇家は内政を、とそれぞれこの国の起こりから国の要職に就いているのに鷹家だけはずっと閑職に就いているのです。現当主も道楽者と名高く、妙な品に大金を払ったこともあったそう。領民の税金を使ってそんな無駄な買い物をと囁かれ「良いものだと思ったんですがねぇ」と言い訳を繰り返していた、と。公爵家なのに男爵家にすら笑いものにされる。そんな名ばかり公爵家が鷹家でした。

 もう三大公爵にする方がよいのでは、なんてお父様の話を聞いたわたくしですら思ったのですからお父様はもっとそう思っているに違いありません。三百年前の鷹公爵はどれだけ立派な人だったのでしょう。子孫がこんなことになって、草葉の陰で泣いていらっしゃるかもしれません。

 そして、一学年上の子息についてもあまり良い噂を聞いたことがありませんでした。授業は寝ているか席にいないことの方が多く、魔法はからきし、精霊を呼び出すのも風の精霊がせいぜいで力も弱い。貼り出される成績は下から数えた方が早い。ふらふらと遊び回っている、ぬるま湯に浸かり切った貴族の息子。上から下まで真っ黒な、『愚鈍な鴉』。笑いものにされているのを気づく様子もない愚鈍さをそう揶揄されていて。

 ただ。差出人をもう一度見ます。鷹家のローゼ様だけは鷹家の中で唯一優秀だと評判が良いのです。父親である鷹公爵をサポートし、精力的に活動をされていらっしゃると聞きます。また、アカデミーと関わりのない方であることも大きい。ローゼ様なら何か良い案を提案してくださるかもしれないし、もしかすれば鷹家がほかの公爵家への緩衝材になってくれるかもしれない。それに、わたくしの評判はすでに地面に落ちている。鷹家を訪ねてこれ以上マイナスになることは多分、起こらない。

 そう、思ってお伺いするとお答えしました。


「ご機嫌いかがですか。ユリア嬢」


 へらへらと薄っぺらな笑顔を浮かべて迎え入れたのは差出人ではありませんでした。

 制服でもないのに、真っ黒な服を着ているので今日も髪から瞳からすべてが黒い。いると思っていなかった人物の迎えに、少しだけ思考が止まります。


「いえね、あなたの今後についてお話したくてお呼びしたんですよ」


 何の配慮も遠慮もない不躾な言葉。かっと頭に血が上るのがわかります。姉の名前を借りて人を侮辱するために呼んだの? ひとを馬鹿にしたような笑みは消えることがなく、椅子を勧める形のまま固まっていて。


「ノエ!」


 第一印象は悪いの一言。ローゼ様が来られなかったら、間違いなくその場で帰っていました。


「ユリア嬢、この場で姉と私に公爵家としての言葉を求めますか? ……それとも、俺に学友として助けてほしい?」


 にっこりと笑う黒い目に、言葉に詰まる。この場は公爵家と侯爵家の場ではなく、とそう言外に言うノエ様に思考を巡らせます。つまり、鷹家は公爵家としては介入しないということ。

 しばらく考えて出したわたくしの答えにノエ様はへぇ、と詰まらなさそうに目を細めました。一方、ローゼ様はわたくしに向かって微笑んではくださるけれど、先程から言葉は一つも発されない。そもそも。

 確かに何かしらか現状を改善することを望んでここに来たけれど。もっと直接的に“助けてほしい?”と言われるとは思ってもいなかった。この言葉が本当なのか、それならば目的は何なのでしょう。嘘だとするのならわたくしをさらに陥れるつもりかもしれません。アレク様達から何か言われて、わたくしをここに呼んだのかもしれません。

 目の前にいる人たちが敵か味方かもわからず、ここに来たことを後悔しました。そんなわたくしのことをわかってかわからなくてか、ノエ様は全く遠慮なく菓子を摘まみます。図太いというべきか、それとも図々しいというべきかしら。


「わたくしを助けてくださるのですか」


 仕方がない。そう心の中で覚悟を決めて、そう尋ねます。彼が先程“助けてほしい?”と聞いたからには何かしらかの手立てがあってのことのはず。わたくしを陥れようとしての言葉であればその先はまともな答えはないでしょうし、『愚鈍な鴉』と称される彼に騙されるなんてきっとない、……でしょう。わたくしの言葉にノエ様はあっさりと頷きました。


「一応今のところその予定だけど。いらないならそれでもいいぞ。俺としてはユリア嬢が“いいえ噂のようなことは一切ありません。第二王子が狂ってるだけです”って卒業まで言い続けてくれるならそれでいい」


 ……“いらないならそれでもいい”と言うからにはわたくしを手助けしようというのはただの手段で、目的は別ということ。公爵家が動くとすれば、王族アレク様が関わっているからだとしか思えませんけれど、それ以上はとりあえず頭の隅に置いておくだけとします。これ以上の理由はわかりようがありませんし、『なぜ』を尋ねるのは失礼にあたりますから。ただ、わたくしに断ってもいいと言うのであればアレク様の息がかかっているとは考えづらい。勿論、罠というのも考えられますけれど。

 少しだけ警戒心を緩めて思考を切り替え、ノエ様を見ると指の腹を舐めるのを見つけてしまいつい、少しだけ顔を顰めてしまう。けれど、ノエ様はわたくしの表情に気づくこともありませんでした。


第一王子の婚約者グレース=セルペンテを紹介するよ。グレースの誤解を解いてそっちを味方に付ければ、噂は消えてなくなるさ」


 グレース=セルペンテ様。第一王子、王太子の婚約者。蛇家の公爵令嬢。その影響力はすさまじい。ただ、わたくしから声をかけることは憚られましたし、向こうから声がかかったこともありません。学年が一つ下で機会もありませんでしたし、第一王子シルヴァン殿下との仲が噂されるようになってからはなお近づくことができませんでした。「わたくしは噂の被害者です。噂のようなことはありません」、そう訴えたとしてグレース様の反応がわからなかったからです。噂を信じていらっしゃったらわたくしの言葉は彼女の逆鱗に触れてしまう。そうなれば、ベイツ侯爵家そのものが取り潰しになってしまう可能性だってあったのです。そう考えれば下手に声をかけることもできませんでした。

 ただ、確かにノエ様のおっしゃる通り。グレース様の誤解が解けるならばこれほど心強い味方はない。今の噂を消すだけならば、確かにそれは最高の『助け』でした。

 けれど、それは。

 わたくしの言葉よりも先に、ノエ様が口を開きます。


 あくまでそれは現在の噂を消す効果しかないと。

 アレク殿下のシュリー様への恋慕をやめさせないとこれからも同様のことは続くと。

 ――つまり。アレク殿下を諦めてはどうかと。


 けれど、けれど。

 それは、わたくしに尻尾を巻いて逃げ出せということ。シュリー様にアレク殿下を譲って、わたくしが「おめでとうございます」と微笑んで、身を引いて。そうしたら皆幸せになれる、と? そう仰るの? わたくしだけが我慢すれば良い、と?

 わたくしは、何も悪いことはしていないのに!


「どうしてわたくしが、引き下がらなければならないのでしょう」


 泣きそうでした。そんなことを口に出して言わないといけない自分が、どうしようもなく惨めでした。唇を噛み、相手を睨む。そうしなければこの部屋から飛び出して逃げてしまいそうでした。心の狭い、狭量な女だとそう指を差されるのでしょうか。それでも、わたくしは。わたくしは間違っていません。自らの落ち度ではなく、正式な手順を踏むでもなく、押しのけるように割り込まれた闖入者に居場所を追いやられるなどあってはならないのです。

 ノエ様を睨みつける形になってしまったわたくしに、ノエ様は強く笑いました。先程までとは違う、へりくだるような、ふらふらと相手を躱すようなそんなどっちつかずの笑い方ではなく、もっと何か、悪いもののような。そんな笑み。


「もちろんだ。あなたが引き下がる必要はない」


 情報提供者ってところから始めませんか。そう手を伸ばす彼の手を、わたくしは取りました。


 そうして。

 そうして、わたくしは見てしまった。見て、しまった。

 誰もいない教室で、彼がシュリー様かのじょの私物を漁っているのを。

 誰もいない教室で、彼がシュリー様かのじょの私物をわたくしの机に入れたところを。

 誰もいない教室で、彼が口元楽しげに歪んでいたことを。

 どう、して……。

 どうして、どうして。どうして――!


 どうして、そんなことを。

 訳が分かりませんでした。だって彼はわたくしに怒りの籠った眼を向けたのです。だって彼はわたくしをなじったのです。だって彼はわたくしを責めたのです。だって彼はわたくしを批判したのです。

 お前が盗んだんだろう、と。お前が壊したのだろうと。お前が隠したのだろうと。

 なぜ、罪を認めないのかと。声高に。

 それなのに。それ、なのに。


 教室の隅で起こっている出来事はあまりに現実味がありませんでした。


 あれくさま。あれくさま。

 わたくしは、そんなにあなたのじゃまでしたか。

 あなたをいさめたわたくしは、そんなにひどいことをしましたか。

 家同士の結びつき。その為だけの愛のない婚約者。それでもわたくしはあなたをお慕いしていたのに。あなたを尊重して、生きていこうと決めていたのに。

 あなたはそうではなかったのですね。


 シュリー様のように、無邪気に笑って見せればよかったの?

 シュリー様のように、できないから代わりにして頂戴? とねだってみせればよかったの?

 わたくしはあなたの隣に立てるように、あなたに恥ずかしくないように、たくさんのことを学んだのに。何があっても動揺しないように、声を荒げないように、涙を流さないように、そう懸命に立っていたのに。あなたにとって、わたくしは陥れても良いただの道具でしかなかったのですか。

 ずっと苦しかった胸が、ついに悲鳴を上げることさえやめてしまいました。



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