5 精霊講義をしに来たわけじゃないんだが

 ユリア嬢に会った翌々日。授業を一つバックレてぶらぶらと中庭に出かける。悲しかな、不真面目に生きているせいで授業の一つ二つ抜けたところで誰も探してはくれない。というか探しに来てくれる友人に思い当たる節がない。…………さて。

 二学年の時間割は把握している。今の時間は男女別で、男子が剣術で、女子が一般教養。そして二学年のカリキュラムについていけないシュリー嬢はこの時間が空きコマになる。代わりに放課後に補講があるそうだが、それより重要なのは週にこの一時間だけは誰の邪魔も入らないということだ。新芽を茂らせた低木の垣根、その合間をがさがさと縫って、目的地にたどり着く。


「……あ」


 小さな声に、。いかにも純朴そうな栗色の大きな目と、同じ色のウェーブのかかった髪。二学年を示す青色の紐リボン。制服に着崩した様子はなく、設置されたベンチに荷物を広げてお行儀よく本を読んでいた。


「え……。え、あっ! 申し訳ありません! この時間にどなたかがいらっしゃると思いませんでした」


 慌てた声でそう叫んで、自前の黒髪をわさわさと目に掛けて勢い良く頭を下げる。別に何か特別な変装をしているとかそんなことは何もない。そんな技術はないし、手間もかけられない。用意したものと言えばせいぜい眼鏡と一年前に自分が付けていた二学年の紐リボンくらいで、なんなら彼女が俺が誰か言い当てるのならそれはそれで構わない、という程度。『ノエ=エグル』はシュリー=ロット嬢に公式で会ったことがないので、彼女は俺を知らないはずだが、知っているならそれはそれで路線を変えればいいだけ。ただ、十人並みの平凡顔でよかったと思うのは、人の印象に残りづらいことだ。黒髪黒目も平民にこそ多い色で、同じことを例えばロジェがするなら認識阻害の魔法をかけるか髪を染めるか、大道芸人よろしく変装してもらわにゃならん。まあ、ロジェに限らず他の公爵家の誰もこんなことしないだろうけどもさ。いかにも野暮ったい黒縁の瓶底眼鏡が頭を下げた拍子にずるりとずり落ちる。


「わ、あ」


 慌ててそれを掴み、代わりに手に持っていた文具を丸ごと落とす。慌ててそれをかき集め、そのうち一つを拾ってくれた彼女に礼を言う。


「ありがとうございます、ロット様。お邪魔をしてしまい申し訳ありません。すぐ立ち去ります」

「わたしを知っているの?」


 こてん、とシュリー嬢の首が傾く。懐っこい高級猫みたいな仕草をするんだな。できるだけ猫背になり、目を合わせるのが恐れ多いと、目を隠すように髪を触る。

 下位の貴族に上位の貴族がへりくだることなどない。平民のフリをすることなどない。そんな常識だろうと先入観だろうと価値観だろうとなんだって利用できるものは利用すればいいのだ。


「……同じ学年ですので。それに、数十年ぶりに四大精霊に認められた方でしょう。存じ上げないはずがありません」


 去年自分が付けていた青色のリボンをいじる。それを認めたシュリー嬢が嬉しそうにぱんと手を打った。


「ほんとね! クラスが違うのかしら。名前は?」

「……え。いえ、あの。お許しください、私は平民です。お邪魔をするつもりはなかったのです」

「何か関係があるの? だって、アカデミーではみんな平等なんでしょ? アレクだってそう言っていたわ! あら、でも今は授業中じゃない?」


 アカデミーでは学年の上下はあっても、同学年の中で上下はない。。特待生の平民だろうと、富裕層の子息だろうと、王族だろうと学びの前では等しく『生徒』であると。なので、彼女の言っていることは一応正しい。ただ、残念ながらそこまで単純に、清く美しく世界は回っていない。規則上の罰則は何もないとしても許可なく王族に馴れ馴れしく喋る貴族も平民もなかなかいないだろう。そんなことをしようものなら、アカデミーで干される。

 の俺はできる限り俯き、肩を震わせてぼそぼそと答える。


「……ロット様は貴族でしょう。私に馴れ馴れしく話をする立場はありません。授業は、その。身体が弱く、免除されております」


 男子の剣術の授業は理由があれば免除される。平民については特に。嗜みとしての剣術を習う必要がほとんどないからだ。そして、逆に言えば高位の貴族はそうそう免除されない。アレク殿下も今頃必死に汗をかいていることだろう。ご苦労様です。

 そう答えると、シュリー嬢はなおさら嬉しそうにこちらに声をかける。


「そうなの! ねえ、隣に座って! お喋りしましょ!」

「い、いいえいいえ! とんでもないことです。お許しください」


 明るい声が弾む。この展開を期待はしていた、していたけどさ。人の話を全く聞く様子がない。ぐいぐい俺を引きずって椅子に座らせる。この押しの強さは立派に貴族だ。……実は俺が誰か気づいてる? いや、気づいてたらそれはそれで問題の行動なので気づいてないと思いたい。これ、天然でやってる。


「今ね、宿題をしていたの。いつもはアレクたちが教えてくれるんだけど、自分でもできるようになる方がいいでしょ? 精霊学のレポートが終わらないの。終わった?」

「え? はい。一応……」


 そのレポート、俺の知る限り提出期限は一昨日のはずだが。


「ほんと? 四大精霊のそれぞれの特徴を述べよってそんなに書くことがある?」

「……? ロット様はすべての精霊を呼び出せるのでよくご存じなのではないですか?」


 ぷっくりと頬を膨らませてむくれるシュリー嬢に、少し悩むが答える。実はかなりきわどい。本当の平民はここで絶対に貴族の言葉を否定しない。“わかってんのになんで書けないの?”を言外に言うなんざありえない。頭と胴が仲良くしていたかったらその言葉は心の中に留めとくのが正解だ。

 が、シュリー嬢は気にしなかったようだ。ぱっと顔を明るくして答える。


「ええそうなの! でも風の精霊も火の精霊も土の精霊も水の精霊もみんな同じ呼びかけで応えてくれるんだもの。姿の特徴は書けるけど、それぞれの特性の魔法を使ってくれること以外に何かできることがあるの?」


 かなり大雑把に言えば、風の精霊であれば風を吹かせることが、火の精霊であれば火を灯すことが、水の精霊であれば水を湧かせることが、土の精霊であれば土を起こすことができる。これがシュリー嬢の言う『それぞれの特性の魔法』だろう。細かい話を言えば精霊の使う不可思議の行使は厳密には人間の使う『魔法』とは区別されるんだが、その辺はまあ、ここでどうこう言う話ではない。

 平民として、問われたことに答えるだけだ。俯いたまま、少し首を振る。


「そ、うですね……。本で調べたことですが、四大精霊には人好きの度合いが異なるそうです。風の精霊が一番呼び出せる人間が多く、土の精霊が一番呼び出せる人間が少ないそうです」

「そうなのね! 風の次は何?」


 ……ついさっき自分でしないとって言ってなかったか?


「次は。次は火です。ただ風とはほぼ誤差ですので本によっては火の精霊が一番人間を愛しているとしているものもありました。人間が文明を得たのは火の精霊のおかげであるとされていますから、そのあたりの話も絡めればいかがでしょうか」


 ふんふんと大きく首を振るシュリー嬢。図書館で少し調べればわかる話でこんなに頷いてくれる人はなかなかいない。


「他には?」


 …………HO・KA・NI・HA!?


「……先程ロット様がそれぞれの特性の魔法のことをおっしゃっていましたが、もう少し掘り下げができます。ご存じのお話かもしれませんが、例えば水の精霊は水を操りますが、加えて他の精霊に比べも癒しの力も強く持っています。魔法における回復魔法に類するものですね。同じく火は浄化――解呪に近いものですね――を、土は阻害を得意とします。……そういえば、ロット様は常に精霊が見えていらっしゃって、声が聞こえるのですか?」


 別にこんな話をするつもりはなかったのだが、ついでに聞けそうなので確認しておく。一応調べた限りそういう感じではなさそうだったんだが。というか、もしそうならだろうし。


「ううん。呼んだら応えてくれるけど。……それがどうかしたの?」

「いいえ、そういうことができる方もいるようですのでそのことも書かれては、と。ただ、かなり特殊な例だそうですが。あとは初代王の逸話も混ぜれば面白いかと」


 四大精霊を従え、この国を興した王はこの手の逸話に事欠かない。去年の自分がほとんどそれで埋めた覚えがある。こちらの話した話を懸命にメモする令嬢が顔を上げる。新緑の緑が風に揺れてさわさわと音を立てた。


「そうなのね。知らなかったわ!」


 花が咲くようにパッと笑う無邪気な顔に、お役に立てて何よりですと照れて見せる。……そうなのね、じゃねえんだわ。いたいけな平民から情報をタダで貪るんじゃない。


「それで初代王のお話って?」


 きょとん。その擬音語が正しいだろう表情に余計なことを言いそうになる。胴と頭には仲良くしていてほしいので喉を通りかけたそれを唾と一緒に飲み込み、少し考えてから答える。このままでは一時間精霊講義で終わってしまう。眼鏡の蔓を押し上げ、少し無理矢理だが軌道修正を試みた。


「……例えば、この国の城は一夜にして初代王のために土の精霊が建てたそうです。土の精霊の阻害という特性のために王城では精霊の力も使えず、魔法さえも阻害され使うことができないとか。ただ、こう言ったお話は第二王子殿下の方がお詳しいでしょう。四大精霊と言えば王家ですから」


 暗に王子に聞け、と言うと彼女はあっさりそれに頷いた。ふわふわと髪が揺れる。


「そうね! アレクに聞いてみるわ!」

「第二王子と本当に仲が良いのですね」


 そう言うとシュリー嬢は嬉しそうに指を組む。恍惚とした表情は夢見る少女だとでも言えばいいのだろうか。


「ええ、ええそうなの! わたし、途中で編入したでしょ? だからお友達もいなくって。そしたらアレクが声をかけてくれたのよ。マルクもユーベルもわたしに良くしてくれるの」


 みんなお友達なのよ、と無邪気に笑う彼女に愛想笑いで返す。


「みんなわたしに良くしてくれて、お友達なのに、それなのにユリアさまはわたしのことがお嫌いみたいなの」

「ベイツ様が、ですか……?」


 こちらから出そうかと思ったが、自分からユリア嬢の名前を出してくれた。相槌を打ち、続きを促す。


「ええ! だって、アレクには自分という婚約者がいるからアレクの傍にいないでって言うの。男友達なだけって何回も言ったのに、呼び捨てにするのもダメって。アレクたちがいいって言ってくれたのよ? それなのに……」


 ユリア嬢の言うことは当然だと思うが。だいたい婚約者のいない男ならまだしも『ただの友達』を夜会のパートナーにはなかなかしない。ぐちぐちと続く不平不満をおとなしく聞いてやり、そうですねそうなんですねと望む相槌を打ってやる。ユリアさまがアレクを縛り過ぎだとアレクが言っていたとか、親同士が勝手に決めた縁談で自分たちの意志はどうでもいいのかと嘆いていただとかユリアさまが私物をどうこうしたとか云々。授業終了のチャイムが鳴るまで、よくそんなに話すことがあるなと思うほど彼女はよく喋った。途中で「それ喋ったらいけないやつじゃね?」と何回か言いかけたのをぐっと堪えた自分は偉いと思う。鳴った鐘にシュリー嬢は次移動教室だから、と荷物をまとめ始める。


「あ、そうだ!」

「はい」


 荷物をまとめ、立ち去りかけた彼女がくるりとこちらを振り返る。なんでしょうか、と問う自分にシュリー嬢は一欠片の悪意もなく笑う。


「課題教えてくれてありがとう! そういえば、風は特性魔法以外に何があるの?」


 それだけ言わなかったでしょう、と頬を膨らませる彼女に俺は微笑んだ。


「風は『伝令』です、ロット様」


   *


 シュリー嬢を見送って、青色の紐リボンを解く。黒縁の眼鏡をはずし、前髪を適当に払った。伸びをして、ベンチに腰を下ろす。


「お友達、ねえ……」


 男女の友情を否定はしないが、さて。目を潤ませて頬を赤く染める少女を思い出して溜息をつく。

 恋愛小説の主人公じゃああるまいし。


   *


 その日の夕方、ロジェに呼び出されて空き教室に引き込まれた。

 なんだよもう、と顔を顰め、


「……げ」

「友人の顔を見るなりその嫌そうな顔はないだろう、ノエ」


 癖のある黒髪と海のような青い目。浅黒い肌の色は、この国ではとても珍しい。しかも俺を『友人』と呼ぶ人間は特に。ロジェ=セルペンテを傍に、第一王子殿下シルヴァンが座っていた。夕焼け色の西日に染まる教室が、どうにも居心地が悪い。


「……あー……。お呼びですか、殿下」


 一応、無駄だと知りつつ目を逸らして”なんで呼ばれたかわかりません”みたいな顔をしてみる。睨むようなロジェの視線が痛い。睨まれる覚えはない。俺は何も悪くないぞ。

 にこにこ笑ったままのシルヴァンが、机に両肘をついて、問う。


「今日の二、三限どこにいっていたんだい?」


 俺とクラスが違うのに、どうしてシルヴァンが俺のさぼりを知っているのか。つまりバックレたあの授業、今日はクラス合同だったのだろう。あー、なるほど。ロジェの視線がとても痛い。ごめんって、俺が悪かった。でもあの時間しか空いてなかったんだ。


「さぼりですけど?」


 何一つ嘘はない。何一つ嘘はないので、シルヴァンの目をまっすぐ見て答えた。キラキラした目で答えてやった。


「そんなことは知ってるよ」


 まあ時間稼ぎにもならないわけだが。

 ロジェの緑色の目をできるだけ視界に入れないようにする。ああ、ああ。お前の言いたいことはわかっている。“シルヴァンをこんなつまらない騒動に巻き込むな”だ。蛇家の忠義心には頭が下がる。ただまあ。鷹家としては、


「別に俺が二、三時間消えるのなんて珍しくもないでしょう。何がそんなに殿下の関心を引いたんです?」

「なんとなくだよ。ノエが単純にさぼるときはもう少しダラダラしてるからね」

「失礼すぎる」


 ふっと失笑するシルヴァンに言葉を崩す。ロジェが咎めるように少し前のめりになるが、シルヴァンが制止を掛けた。公の場以外で言葉を崩すことはシルヴァンが許したことだ。


「……ちょっと野暮用で出てたんだよ」

「野暮用の中身は教えてくれないのかな」


 む。少し悩んで肩をすくませる。ロジェの面子もあるので、全部話す気はないが、鷹家は蛇家と違って、真っ白な玉座に座る無邪気な王に用はない。汚れ役をすべて引き受けて、一つの汚れもなく王座に座らせることを蛇が求めても、それを鷹は許さない。


「話せば協力してくれるわけだ?」

「――!」

「もちろん」


 そんな愚王の、目にも耳にもなってはやらない。

 ロジェの声にならない制止を無視し即答する友人に、息を吐いた。


「……まだ方針が決まってないからなんとも。だから必要なら勝手に利用するし、それが嫌なら自分で気づいて動いてくれ」

「なるほど?」


 虚を突かれたような顔をするシルヴァンにこちらも笑う。ロジェに目配せするとすごい嫌そうな顔をされた。被害は最小限に抑えたはずなのにその顔はひどくね?

 まあ、シルヴァンの性格を知っているので、これは巻き込みますと宣言したようなもんなんだが。でも、はぐらかせばはぐらかすだけ、今度は吐くまで詰問されるだろうし。それならシルヴァンが自分で探ってくれる方がよっぽど時間は稼げるだろう。

 軽く両手を上げる。


「明日の授業は全部出るよ」

「そもそも授業に出るのは当然だ」

「そうだよ、ノエ」


 口を開いたロジェがちくりと余計なことを言う。しかもそれにうんうんと頷くシルヴァン。まあまあそう言ってくれるな。学年一位二位を争う優等生たちと中の下、下の上あたりをうろうろする成績の俺を比べてくれるんじゃない。怖くて泣いてしまう。耳を塞いで顔を背ける。


「…………頑張りまーす」


 まあ、そこそこ。テキトーに。

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