3 無能にこそ価値がある


 さて。家に帰って、晩餐後。

 父親の書斎の扉を叩く。


「ノエ君だよね、どうぞー」


 威厳のかけらもないお気楽な声に招かれて中に入ると、四十路の父親がニコニコ笑って手を振る。多分、大方の貴族の屋敷ではありえないような親子関係だが、まあ、我が家はそうなのだ。書斎の机に半分以上身体が埋もれているのは、背が低いからだ。ちなみに狸のような腹をしているせいで、余計に威厳という言葉からは遠ざかっている。父親の姿を見るたびに、太りたくない太りたくないと唱えている。


「珍しいねえ、ノエ君から話なんて。どうしたの?」


 顔に埋もれるような黒い目は――こういう言い方はどうかと思うが――円らで、人好きする顔だ。要は騙されやすそうだ。実際、いくつか妙な事業に出資したらしい。ただ、


「実は」

「ユリア=ベイツ侯爵令嬢を窮地から救ってあげたいって?」


 それは、父の仮面でしかない。

 王冠を中心に左側、角の生えた幻馬が、リコルヌ家。魔法と神秘の一族。

 王冠を中心に右側、雄々しき雄獅子は、レーベ家。力と戦の一族。

 王冠を中心に下部、地を這う大蛇が、セルペンテ家。遵従と献身の一族。

 王冠を中心に上部、翼を広げる鷲、エグル家。この家は何の一族か。


「……良いでしょうか」


 ――諜報と伝令の一族だ。


「理由は何なんだい? 納得できる理由が説明できるなら考えてあげなくもないよ」


 鷹公爵が諜報と伝令を司った一族であることなど、もはや王家と各公爵家くらいしか覚えていないだろう。それほどまでに我が家は『役立たず』であり続けたのだから。『怠惰な鷹』も、『愚鈍な鴉』も、我が家の誰も訂正しない。俺を指差し、「怠惰な鷹から愚鈍な鴉が生まれた」と嘲笑おうと俺はちっとも困らない。我が家に与えられたそれらの賤称は、望んでつけられたものだから。お気楽な道楽者、楽観主義者、場に流される卑怯者。地べたを這いずる小鳥。翼を失ったトンビ。どの言葉も別にどうってことはないのだ。

 そう見える方が、都合がいい。ただそれだけだ。


「第二王子は少しやり過ぎました」


 にこにこと笑う父親から目を逸らしてそう吐き出す。アカデミーの試験官を前にしてもこんなに胃の痛くなることはなかなかない。

 婚約が家と家との契約ならば、第一王子を王にすることは国と国との契約だ。第一王子が失脚すれば、第二王子に王位が転がり込んでくる……で、実際そこまで単純な話ではない。


「シルヴァン殿下には響かないでしょ。放っておいていいじゃない」


 ロジェに説明した自分の言葉がそのまま父親から返ってくる。全面的に同意したい、が。


「直接被害にあっているユリア=ベイツ侯爵嬢が問題です。その素養が求められているというのも理解しますが、第二王子と公爵家の子息がよってたかって言い続けるものではないでしょう。また、それで令嬢たちが潰れてしまったときに、殿下の立場も微妙なものになります」


 例えばユリア嬢が糾弾に耐えかねて休学でもすれば、「授業に出てこれなくなるなんてあれらの噂は事実であったのだろう」と言われてしまう。本当のことなどどうでもいい、いつの世も面白い方の噂の方が流布しやすいのだ。なので第一王子に妙な汚点を付けないためにはユリア嬢にこの騒動が続く限り現状維持のまま「そんな馬鹿げた噂を本気にしないでください」と言い続けてもらわなればいけない。婚約者にあからさまに指を差され、悪役にされ、夜会のパートナーにすらしてもらえないのに、だ。勝利条件がなかなか厳しい。

 ただ、もちろん。それでもこの父親を説得するには弱い。


「それで? ノエ君の言い分はわかったけど、それで今まで我が家が積み重ねてきた評価が崩れてもいいの?」


 諜報と伝令。『王の目、王の耳』と言えば聞こえはいいが、要は密告者だ。

 エグル家が『役立たず』であり続けたのは、警戒されないため。相手が無能である方がどうしても口は軽くなる。秘密の話はしやすくなる。金のあるうすのろであることが、中枢にまで食い込むための価値になる。

 我が家の姉は例外的に家の外での評価も高い人間だが、姉は元から優秀であることを隠さなかった。一方の俺はどちらかと言えば劣等生で、手札を明かせば「じゃあ今までのエグル家もまさか」という話になりかねない。ただ。


「……関係、ないでしょう?」


 ただ、それは。


「そうである方がやりやすい、というだけの話です。そう思い込まれていた方が動きやすいというだけの話です。隠れのみのがなくなったところで、父上は困りもしないでしょう」

「うん、まあそうだね」


 けろりと言う父親に、失笑する。


「まあ、あとは」

「あとは?」

蛇家ゆうじんにお前の怠慢だと怒られましたので。……現状がアカデミーの中だけでの火遊びだというのならそれが火遊びで終わるうちにちょっと、第二王子の鼻、へし折っておこうかなと」


 ロジェはお前のせいだと言わんばかりで、確かに諜報と伝令、つまり国内外のあらゆる情報を扱うべき公爵家としてはそうではあるんだろうけど。望まれれば火種を撒くのも火消しをするのも確かに我が家の仕事だけれどもさ。それでも俺も声を大にして言いたい。

 そもそも。そもそも、だ。第二王子が他の令嬢に惚れて、自分の婚約者を蔑ろにして、その上自分の行いを正当化するために婚約者を悪役に仕立てたのが、本当に、そもそも、悪いんじゃーーねーーかーーーー!!!!

 要は、私怨である。

 努めて明るくそう宣言する俺に、父親が驚いた様子で首を捻る。


「……ノエ君のモットーってなんだっけ?」

「天下泰平ですね」


 即答する。平和、平凡、安穏、安全。愛するべきは午睡ひるねと穏やかな陽気である。『愚鈍な鴉』は的確な称号だろう。俺はそれでもまったく構わないので、頼むから面倒ごとに巻き込まないでほしい。


「なのでそれを壊そうとするのなら、俺は手を打たないといけません」

「父親が言うのもどうかと思うけど。ノエ君、もうちょっとひねくれずに育たなかったの? かなり迂遠な思考回路してるけど」


 こんなにまっすぐ育った息子に何を言う。言っておくが、低身長の父親を持ったにしては身長も百六十八に届いたし、食事だって気を付けているので決して太り過ぎということもない。まったく心外にもほどがある。


「話はそれだけです。失礼してもよろしいでしょうか」

「はいはい。手札は明かし切らないようにね、ローゼ君の名前も借りるといいよ。自分で頼んでね」

「もちろんです」


 入ってきた時と同じように手を振る父親に一礼し、部屋を出る。

 扉が完全に閉まったことを確認して、周囲に誰もいないことを確認して、


「……姉貴、上……」


 息を吐こうとしたら、姉がいた。俺の足元にしゃがみ込んで、楽しそうにこちらを見上げている。父親に似た赤毛と母親に似た薄い茶色の目。父親と母親の黒い色素を全部もらってしまった俺と横に並ぶとあまりに姉弟に見えないと評判の優秀な姉。溌溂としている茶色の目は見るたびに、確かにあまりに似てないと納得してしまう。ローゼ=エグル。鷹が鷲を生んだと褒められる、鷹家わがや自慢の令嬢ひとりむすめだ。


「ノエ、貴方とっても面白そうなことするのね?」

「ドレスが汚れますよ。……聞き耳立てるのは行儀が悪いって学びませんでした?」

「我が家でそれ、何か意味がある?」

「ない」


 ふふふ、と楽しそうに笑う姉にげんなりする。我が家の家訓の一つは“漏れるような情報の方が悪い”だ。つまりこの話を聞かれた俺が悪い。ただ、行儀の悪い姉のおかげで説明する手間は省けた。


「そういうわけなので、姉上も手伝ってくださいますか」


 というより父親に話して姉の顔を見たらなんだか何もかもがすべて面倒になってきたので全部丸投げしてもいいならそうしたい。

 俺の言葉に姉は「んー」と考え込むようなそぶりを見せて、


「優しいお姉様だからなあ、仕方ないなあ」


 にんまり笑って立ち上がった。ドレスのシワを払い終わった姉は、細い指でくるりと白い封筒を取り出す。ちらりと見えた宛名は、ユリア=ベイツ侯爵令嬢。


「私の名前でお茶でもしませんかって我が家に呼んでるから。多分断らないでしょ。中身見てから封印して出してね」

「流石……。ありがとう」


 ふふん、とそのささやかな胸を張る姉から手紙を受け取る。今、ユリア嬢を男の名前で呼ぶのは外聞が悪すぎる。そのため姉の名前を借りたかったのだが……その意図を言われるまでも無く汲めるからこそこの姉は有能なのだ。


「他にもお願いするかもなんだけど」

「ヤダ。全部はヤダ。絶対ヤダ。だってノエの仕事でしょ」


 ちっ。こっちの台詞を先回りするんじゃない。


「とりあえず早く寝た方がいいよ? ……おやすみ。ノエ」

「おやすみ、姉上」


 余計な仕事を押し付けられる前にちゃっちゃと自分の部屋に消えていく姉の背中を見送ってから、封筒の中身を確認し、元に戻す。何の捻りもない花見の誘い。一刻も早く送りたいが、夜中に使いを出すような内容ではない。明日の朝送ればいいか。あくびを噛み殺し、伸びをする。


 ……あー……さて。寝れるうちに寝るに限る。

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