2 面倒事を持ってくる趣味でもあるんですか

 忘れもしない、三か月前。春の陽気も近くなってきた夕暮れ時に机に突っ伏して安眠していたら本の角で殴られた。


「あがあぁっ!」


 激痛に辺りを見回すが、放課後の教室に人影はなく。あるのはただ、本を持った幼馴染の姿だけ。……犯人はお前か! まあ、そもそも悪評高いくせに身分も高い俺に対してそういうことができる人間は数えるほどしかいないんだが。


「……何か用?」


 金色にも近い栗色の髪に、丸眼鏡の奥には緑色の目。「知的ですわ!」なんて令嬢たちの黄色い声が飛び交う容姿の幼馴染。蛇公爵家、ロジェ=セルペンテその人だ。

 くわあっとあくびを一噛み。伸びを一つ。そんな俺にロジェの眉がピクリと動く。まあまあ、俺とお前の仲だろ。許してほしい。代わりにさっき本の角で人の頭をぶん殴った件については口外しないでやるから。

 ごそごそと鞄を漁り、菓子の入った袋を取り出す。市井で新たに見つけたその菓子は素朴な甘さがちょうどいい。棒状のそれを一つ咥え、友人へ袋を寄せる。

 はあ、と。溜息が一つ降ってきて、ガタガタとロジェが椅子を引く。夕暮れ時の放課後に、野郎二人っきりというほど悲しいことはないだろうに。


「シェリー=ロット子爵令嬢を知っているか?」


 ぽりぽりと二人で菓子を齧る。なんてむさくるしい。ロジェの言いたいことが分かった俺は、ゆっくりと口の中のものを飲み込んでから答えた。


「九、八か月くらい前に一つ下の学年に編入してきた子爵令嬢だろ。ロット子爵の愛人の子で、正妻が子に恵まれなかったから引き取られてきた。成績はあまりよくないが、精霊学で満点を取ったことで一気に人の注目を浴びるようになっているな。火、水、土、風すべての精霊を同時に呼び出して満点を取っている。そのあとやんややんやと持ち上げられて、今は第二アレク王子の傍にべったりだ」


 第二王子が傍にべったりだ、という方が正しい気もするが。

 俺の回答に満足したらしい、友人が少しだけ顔を曇らせる。ああ、良い良い。そこから先も知っている。だいたい第一王子シルヴァンにべったりの蛇公爵の跡取り息子が第二王子の身分違いの恋の話なんて噂しに来るわけがないのだ。


「んで、それからしばらくしてアレク殿下の婚約者の話が流れ始めた。曰く、“婚約者のユリア=ベイツ侯爵令嬢が、シェリー=ロット子爵令嬢に嫉妬して、悪質ないじめを繰り返している”ってやつだ。根も葉もないことだし、ベイツ侯爵令嬢が窘める程度のことは当然だと思うけどもな。ただ、残念ながらゴシップ好きの貴族子息どもにこういう話は嘘でも本当でもどうでもいい」


 さらに一本菓子を摘まむ。身分違いの恋の話! 健気な子爵令嬢をいじめる高位の令嬢! 暇な令嬢子息たちにこんな噂は飴玉よりも甘い菓子だ。彼らからすれば流行りの観劇を見ているようなもんだろう。


「そして、つい最近の話だ。もう一つ噂が流れ始めた。ロジェはこの話をしに来たんだろ。曰く、


 とんでもないことだ。とんでもない醜聞で、だからこそ。話が話で、下手をすると不敬罪に問われかねないため大っぴらに語られることはないが、残念なことに人の口に戸は立てられない。

 じろりと、緑色が蛇のようにこちらを睨む。


「……そこまでわかっていて、なぜ何も手を打たない?」

「それ、お前にも言える話じゃね?」


 菓子を口に咥えたまま、ロジェを指差す。もちろん、すぐにロジェの持つ本で弾かれたが。なあ、その辞書みたいな太いぶっとい本、一体何なの? 俺を攻撃するためだけに持ってきたの?


「そういうのはお前の仕事だろう、鷲の家」

「……いやいや、別に蛇がやってもよくないか?」


 だいたい、そもそも。俺は背もたれに腕を預け、体を崩す。


「そもそも、だ。そもそも、何か現状手を出す必要があるか? だ。ユリア嬢にとっては否定すればいい話だし、なんなら無視してもいい。侯爵令嬢とは言え、第二王子の婚約者の地位にいる人間を大っぴらに嘲笑ったりできないんだから。第一王子シルヴァンにとっては言わずもがな、だ」


 この話は王だって、アカデミーに通う令嬢子息の親御たちだってもちろん知っている話だろう。もちろん知っていて、けれど沈黙している。ベイツ侯爵家を嘲笑することはなく、ロット子爵家に媚びを売り始めるわけでもない。誰も動いていないのだ。なぜならだからだ。たとえ、第二王子が婚約者をないがしろにして別の令嬢を連れて夜会に何度行こうとも。それでもこれはアカデミーの中だけの可愛い御伽話。卒業してしまえば、過去の笑い話にしかならない。

 逆に言えばだからこそ、こんな不敬罪ぎりぎりの噂が流れるわけだが。


「幻獣公の息子と獅子公の息子も一緒になってベイツ侯爵令嬢を叩いている」


 憎々し気に言うロジェに、下の学年の公爵家二人を思い出す。アレク王子は側妃の息子だが、その側妃は一代前の幻獣公爵の娘だ。つまり幻獣家を継いだ兄現公爵の妹。お察しのとおり第二王子の後見は幻獣家で、真っ先に幻獣家に王の後見の地位が転がり込んでくる。奇しくもいとこ同士が同い年になった関係もあり、この二人は仲が良い。

 ユーベル=リコルヌ。魔法と神秘の一族の例に漏れず、魔法学でトップを走る優等生。切れ長な目がキツイ印象を与えるが、どうやらシュリー嬢には鼻の下を伸ばしているらしい。別に醜態をさらすのは好きにすればいいのだが。

 そしてもう一人。獅子公爵家の息子、マルク=レーベもどちらかと言えば第二王子支持派だ。第二王子やユーベルと同学年なこともあるが、三百年前の因縁をまだ引きずっている影響か、獅子家はどちらかと言えば蛇や鷹よりは幻獣と手を組みがちで、それは別に今回だけの話ではない。要は敵の敵は味方ということなのだろう。いつまで神話時代の話を持ち出すつもりかよくわからないが、知性の部分を丸ごと他家に任せるのはどうかと思う。ちなみにこちらもシュリー嬢に骨抜きらしい。国防を司る家の息子がハニートラップに引っかかってどうする。

 第二王子の側近気取りの二人がそろって第二王子の婚約者を糾弾している。ああ、そう。


「だから?」


 

 すっと目を細めてこちらを威嚇するロジェに、やれやれと両手を上げる。


「四大公爵のうち二つが王子と一緒に侯爵家の令嬢を攻撃している。ああ、言わんとすることはわかってる。噂に鑑定書を付けるようなもんだ。暴徒に石を渡すようなもんだ。ただ、ロジェ。言わせてもらうが、それでも、だ。それでも、だからどうしたんだ。王家も貴族連中も公爵家だって動かないし、動いていないぞ。なぜならそれは無視できる話だからだ。そう言われても“ただの根も葉もない噂でそんなことはあり得ない”“違う”と言い張って堂々としていろと、その素質が量られているからだ。第二王子の妃として、未来の大公家の女主人として、“これくらいは治めてみろ”と、そう言外に言われているんだぞこれは」


 そんなことがわからないお前ではないだろう?

 頬杖をつき、空いた手をひらひらと追い払うように振る。ぐっ、と言い詰まる友人はしばし視線を彷徨わせ、


「妹が、な」


 つい、と視線を逸らした。

 妹。その言葉に口の中に渋い味が広がる。グレース=セルペンテ。ロジェの妹で、第一王子の婚約者だ。俺の数少ない友人の一人でもある。

 王妃の持ち回りの話を覚えているだろうか。今の王妃……に本来なるはずだったのが幻獣家で、次の持ち回りが蛇家なのだ。ちなみに幻獣のひとつ前、つまり今の王の母親に当たる方は鷹家うちから出ているし、次々代の王太子殿下の婚約者には獅子家の娘がなる予定だ。


「シルヴァン殿下とユリア嬢の話が出てから、グレースも巻き込まれる形になっている」

「グレースがその程度の噂で揺らぐとは思ってない」


 遵従と献身の一族。蛇公爵の別名は飾りではない。かの公爵家は王家に対する絶対的な服従を誇りにする。“道を外れた王は刺し違えても正す”という過激派……いいや忠臣だ。怖すぎて涙が出る。そして、ロジェも、グレースもその名を汚すことなどありえない。

 そしてやはり、ロジェは首を振った。


「人の話は最後まで聞け。グレースは噂そのものには気に留めていない」

「じゃあ」

「噂が周囲に与える影響の方が気になるとのことだ」


 公爵令嬢ともいえば、取り巻きも多いだろう。要は。


「“ご丁寧に“いついつにシルヴァンとユリア嬢が一緒にいたそうですよ”なんて告げ口してくるやつがいる”と」

「ああ」


 阿呆なのだろうか。


「阿呆なのか?」

「言ってやるな」


 つい、口に出てしまった。

 眉間を押えるロジェに俺も頭が痛くなってくる。公爵令嬢のご友人たちだぞ。この国で上から数えた方が早い貴族の令嬢たちだぞ。ゴシップの熱にうかされてアカデミーを治外法権の土地だと勘違いでもしているんじゃないか?

 。しかも、他家ならともかく遵従と献身の一族蛇家に、なんて。


「グレースが、その……」

「それ以上言うな」


 今までの話し方はどこへやら。急に口ごもるロジェに制止を掛ける。蛇公爵の者の前で、王家シルヴァンを侮辱するなどもってのほかだ。毒蛇に素足を差し出すようなものだ。下手をすれば十年後に上位の侯爵家と伯爵家が軒並み取り潰しになるぞ。

 彼女は礼儀を弁えている、場を乱すことが良しとされないことを知っている。だからその場ではそんなことを言った令嬢を窘めて、笑って収めただろう。ただ、彼女はその侮辱を忘れない。その不敬を許さない。


「誰か止めてやれよ……」

「まったくその通りだ。だが、裏を返せばそれほどまでに噂が過熱しているとも言える。噂が事実になり替わる寸前だ。第二王子がわざわざ公の場で名指しするそうだ」


 “ユリア、シュリーの教科書をどこにやったんだ”

 “ユリア、何を怒ることがあるんだ。シュリーは四大精霊に愛されたんだぞ。そんな彼女を王家としてないがしろになんてできるはずがないだろう”

 “ユリア、君がそんなに心の狭い女性だとは思わなかった”


「アレク王子様は帝王学を受けてなかったのか。それは存じ上げなかったな」


 ふざけてみるが、王家の者の言葉がどれほどの力を持つかわからないはずはないだろうに。それともわからないからそんなことを言ってしまうのか。……というよりここまで第二王子王家の人間を茶化してロジェが何も言わないのが恐ろしい。グレースの手前冷静な顔をしているが、そうとう頭にきてるなこれ。


「ふざけている場合か。ユリア嬢がいくら否定しようともうあの学年の誰も耳を貸さない。王家と公爵家の声が大きすぎる。“ユリア嬢とシルヴァン殿下がどこで逢引きした”なんて話が一体いくつあると思っている」

「大本は六つ。伝言ゲームで増えたバリエーションが十九」


 指折り答えてみるが、無視された。

 第一王子の地位は現時点で揺らぐことはないが、後ろ盾が国内にないのが欠点だ。つまり、第一王子に対する批判が出たときに睨みをきかせられる者積極的に動ける火消しがいない。本来なら蛇家が王家の従者として、婚約者として、この役割を担えるはずだが本人たちが噂の標的になっている状態で積極的に火消しに回るのは無理が出る。物語の関係者が“いいえそんな事実はありません”と言ったところで、有利な発言をしようとしているとしかとらえられない。。火消しというのは噂の外にいる人間かバカみたいな権力で押し潰すことができる人間がするからこそ機能するのだ。

 この醜聞がこのまま『事実』という形を取り始めれば、王として不適当であると断される可能性も出てくる。嘘や噂も、百人中九十九人が事実であると言えば『事実』となりえるのだから。


「シルヴァンの方は?」

「ノエ、殿下を呼び捨てするのは……。平然としていらっしゃる。何か聞かれても“そんなことはないよ”とだけ言ってそれで終わりだ。まあ、殿下がそういえばもう誰も追及はできないだろうが」


 なるほど。そっちはまあ、ロジェの言うとおり。

 海洋都市の性質なのか、シルヴァンは大らかで寛容な性格をしている。母親譲りの浅黒い肌と癖のある黒い髪、父親似の青い瞳は我が姉曰く「金髪碧眼の王子様像からは外れるけど、全然アリ」なんだそうだ。なんだそりゃ。人懐っこく、穏やか。頭も悪くはないし、人望もある。一方で本を読むよりは実践派。

 年に二度は母親の国を訪ね、母方の祖父母とも仲が良い。つまり特に理由もなく第一王子を廃嫡でもしようものなら、どこかの家どころか国を一つ敵に回す……というのに。

 そんなことがわからない人間がこんなに多いなんて思うわけがないだろ?


「ここまで過熱する前に、手を打つべきだった。そうだろう? ノエ」

「……」


 ロジェの言うことは尤もだ。言いたいことも、傍観し過ぎたことを責められているのもわかる、が。腕を組み、天井を仰ぐ。

 第一王子を廃嫡させれば王位に近づく幻獣リコルヌとは反対にセルペンテは絶対に第一王子を廃嫡させるわけにはいかない立場にある。その立場からしてこの噂はよろしくない。しかし一方で蛇家は、ロジェは大っぴらに動けない。ロジェが動けば、グレースが動くのとあまり変わらないからだ。兄が妹をかばった時点で、積極的に第一王子の噂を消しに回った時点で蛇公爵家は指を差される。“ああ、兄上が出てきて追い払うほど噂を強く否定するなんて。あの噂は根も葉もないなんてことはないにちがいない”、“公爵家の子息がそこまで言うなんて逆に怪しい! 第一王子はきっと本当に浮気をしているぞ!”と。噂が噂を呼び、陰口が力を持ち始める。そこまで行けばすでに相当過熱している噂に最後の一押しを与えるだけだ。それがもはや事実かどうかなんてどうだって良いところにまで話が転がってしまう。そうなってしまったら、もう手遅れだ。

 もちろん、シルヴァンが庇えばユリア嬢とグレースへの攻撃はなくなるだろうが、第一王子に頼んで動いてもらうというのは蛇公爵家臣下からすればあり得ない。

 さて。……ここで気になるだろう我が家の立ち位置だが。我が家、鷹公爵家はどちらかと言えば第一王子派にいる。いることはいるが、第一王子についている理由は特にない。個人的にはシルヴァンが王になればいいと思っているが、俺の意見は公爵家からすれば些事だ。公爵家の一角として第一王子を擁する理由をあえて答えるのならば“順当にいけば次の王が第一王子だから”で、“獅子公爵が第二王子につくならバランスを取った方がいいから”だ。

 勇猛な鷲の家紋に相応しくないほど、小心者で臆病者。一族一同、お気楽な楽観主義者で無能の集まり。場の空気に流されるだけの卑怯者の公爵家。偉大な四大公爵家の落ちこぼれ。今代の当主もまた『怠惰な鷹』であり、次代となる息子は『愚鈍な鴉』だと。

 我が家が鷲公爵ではなく鷹公爵というのはつまり、そういうわけなのだ。


「ノエ」

「……んー」


 ああ、そんな目で見ないでほしい。わかってる、わかった。

 菓子を舐めて、そっぽを向く。確かにこの騒動が今後『御伽話』になるには少し、熱狂が過ぎる。自らの婚約者を名指しで嘲笑する第二王子に『貴族』として黙認できても、『父親』としてベイツ侯爵がいつまで現状を静観できるかもわからない。

 緑柱石よろしく深い緑の目がこちらを射る。……蛇め。俺はせいぜい嫌そうな顔をして、言ってみる。


「……友人に対してもう少し素直に助けてくれって言えないか?」

「言う必要がない。これはお前の管轄で、お前の義務だ。そうだろう? ノエ=エグル」


 崩れることのないロジェの表情と即答される答えに、苦笑いを噛み潰し、溜息を一つ長く吐いた。そっかー、俺のせいかー。そっかー……俺だけのせいじゃないと思うけどなぁ……。

 ごそごそと菓子の袋を仕舞い、机を片付ける。夕日も沈むころだ、そろそろ帰ろう。


「グレースに言っておいてくれるか。少し酷くなるけど、どんな証拠も無視して今まで通り過ごしてほしいと」

「わかった」

「あとは……いや、まあおいおい連絡するよ」


 ひらひらと適当に手を振り、席を立つ。ロジェがこの後どうするのかなど知ったことじゃあない。

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