ノック
旅先で見つけた公衆トイレに入り、十分ほど腹痛に悩まされていた時のことだ。
便座の上で唸っていると、コンコンとノックの音がした。
「すみません」
高くて澄んだ声。小さい男の子だろうか。
「入ってます」
そう答えると、一瞬の静寂の後、ノックが鳴った。
「お父さんですか?」
そう尋ねられた。
自分の父親と取り違えているのか? 私には子供はいないから、見知らぬ子供にこう呼ばれる筋合いは全くない。
「えーと、違いますよ」
そう答えると、また一瞬の静寂、そしてノック。
「じゃあ、お兄ちゃんですか?」
さっきとほとんど同じ声のトーンでそう訊かれる。
「違いますよー。多分、きみの知り合いじゃなくて」
ノック。
「お祖父ちゃんですか?」
「だから、違うって……」
ノック。
「斉藤さんですか?」
「……違いますよ。あの、私まだかかりそうなんで」
ノック。
「西園さんですか?」
「ちが」
「大原さんですか?」
もはやノックは、間断なく扉を叩くだけに変わっていた。ダンダンと拳が打ち付けられる音は、扉を破ろうとしているかのように思えた。
「三村さんですか? 山下さんですか? 川本さんですか?」
自分の名字が出たとき、思わず肩が跳ねてしまった。このときには中腰で便所の奥の壁にできる限り身を寄せていた。
「川本さんなんですね?」
高くて澄んだ幼い声。トーンは変わらないまま、何故か愉悦が滲んでいる気がした。
「ゆうちゃんですか? さっくんですか? ひろくんですか?」
しらみつぶしに呼びかける声が何を狙っているのかは明白だった。
名前を知られてはならないと思った。ただ、どうすればいいのかは分からなかった。迫っているものを待ち受けるしかなかった。
「よっくんですか? いっちーですか? ……けんじですか?」
息を呑むと、それを感じ取ったように、ドア越しの声が笑んだ。
「そうなんですね。ここにいたんですね。探していたんです」
妙に大人びた話し方とともに、ノックが終わる。代わりに、鍵が自然と開いた。
扉が開いた。
そこには誰かいただろうか。
私には分からない。ドアが動いた瞬間、全力で駆け出したからだ。誰かにぶつかったりはしなかった気がするけれど、トイレを出る瞬間、笑い声が耳元で聞こえたような気がした。
それが何だったのか、今も分からない。ただそれ以来、トイレに扉を閉めて入ることができなくなった。
真面目な口調でそう話す部下を前に、私は困惑していた。冗談を言うタイプではないが、内容があまりに荒唐無稽だった。
「そうはいってもね、職場で扉を開けっぱなしでトイレを使うのは……」
そんな常識的な注意を再度口にしようとしたところで、会議室の扉がノックされた。二回。
「けんじ」
澄んだ子供の声がした。
部下はふらふらと扉に近寄り、開けた。そこには誰もいなかった。
「さがしていたんです」
「はい、私も探してたんです」
部下は誰かに手を引かれるように扉から出て行った。
それ以来彼が帰ってくることはなかった。私も部屋の扉を閉め切ることはできなくなった。
まだノックは訪れていない。
ホラー短編集 倉田日高 @kachi_kudahara
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