交差点を渡るモノ
流行りの曲に合わせて、ハンドルを指で叩いて節を取る。深夜の、他の車が一台もいない道路。ヘッドライトが茫洋とアスファルトを照らす。
残業して、同僚と軽く飯を食べ、片道一時間超の帰路をようやく終えるところだった。日付が変わりそうな時刻表示に目をやって、ため息をつく。
職場と比べると、この辺りはいかにも田舎だ。まばらな街灯、時折出てくるガソリンスタンド、そして道端の大半を占める真っ暗な畑。休日の昼間にもドライブすることがあるが、夜の景色は影が濃く、どことなく不気味だ。
行く手はほとんどが暗闇に沈んでいる。その中で、信号だけが輝いていた。高い位置で光る緑の円は、どことなく巨大な怪物の目のようにも見える。
車がさしかかったところで、怪物の目は黄色に変わり、そして赤く光った。頭上から落ちてくるその光で、車内は僅かに赤を帯びる。
夜闇の中で、辺り一面に投げかけられる赤い光は、一際不吉に見える。そもそも人へ警告するためのものなのだから、役目は果たしているのだろうが。
信号は、この先へ進むな、とこちらへ語る。従順に車を停めると、目を逸らし、カーオーディオに連携しているスマホに触れる。
自動再生の曲が、聞いたこともないものになりつつあった。何十曲も流しているとどうしてもこうなってしまう。自分の好きな曲を探して、再生ボタンを押して、再び視線を上げる。
相変わらず赤信号だ。
アップテンポな音楽に軽く頭を揺らしながら、背もたれに体を深く預ける。一日分の疲労を感じる。あまり長く停まっていると眠気が来てしまいそうだ。
信号はまだ変わらない。
片手をハンドルに置いたまま、通知欄を確かめる。誰からも何も連絡はなし。
信号はずっと変わらない。
信号はまだ変わらない。いくらなんでも遅すぎる。
五分ほどの曲が終わり、次の曲が始まるまでの僅かな空白の時間に、ようやくそう気付いた。
不具合でも起きているのか。いくらなんでも、こうも変わらないのはおかしい。
交差点を見回して、さらに妙な点に気付く。
青になっているのは、歩行者用信号だった。
この交差点は押しボタン式だ。誰かがボタンを押さなければ、歩行者用信号は青にならない。だが、車がここに停まってから、誰かが歩いている様子はなかった。
ヘッドライトが照らしだすのは、亡霊じみた白いガードレールと、赤い文字の書かれた看板だけだ。「目撃者等を探しています」。最近事故があったらしいが、こんな看板があることには気付かなかった。なんとなく薄気味悪いものを感じて、軽く身震いする。
何にせよ、交差点にあるのは無機質な存在だけ。歩行者はどこにもいない。
どうせ夜中なのだから。誰も見ていないし、事故に遭うはずもないのだから、このまま発進してしまえばいい。
そんな考えが頭をよぎったが、もう何分も待っているのに、今更信号無視するのも躊躇われた。一度待ったからには最後まで待たねば、とそんな妙な義務感に囚われたままハンドルを握り、ただ待つ。
信号は赤のままだ。怪物の目が、相も変わらずこちらを睨んでいる。
流れていた二曲目が、ちょうどサビにさしかかろうとしたところで、不意に音が消えた。
「あ?」
通信の不調だろうか。スマホに手を伸ばしたところで、代わりに小さな音が耳に飛び込んできた。
しゃん、しゃん、と、たくさんの鈴を鳴らす、五月雨めいた音。
それを聞いた瞬間、全ての神経が耳に集まったようだった。ウィンドウ越しの微かな音を、全身全霊で聞き取ろうと努める。
しゃん、しゃん、しゃん。無数の鈴が揺れ、互いにぶつかり、音が重なる。
あり得ない音。だが何故か懐かしく、それが当たり前だと感じている己がいた。
しゃん、しゃん、しゃん。
鈴の音は、交差点の右側、山の方から、ゆっくりとやってきた。次第に近づいてくるのを感じながら、ただひたすら息を殺す。
無意識に、ハンドルに額を押しつけて身を竦めていた。何かに見つかるまいとするかのように。あるいは、ぬかずくかのように。それが正しい振る舞いなのだと、何故か分かっていた。
しゃんしゃんしゃん。こつ、こつ、こつ。
無数に重なる鈴の音。それに混じって、杖を突くような硬質な音。いくつも入り乱れている。それが聞こえるほど近づいてきたのだ。
何かが――何十もの何かの行列が、今、車の前を通っている。
杖を突き、鈴を鳴らす行列。一様に白い衣に身を包み、垂れ布で顔を隠した何か。その中央には大きな輿――
顔は伏せたまま、景色は見てもいない。輿の音など欠片もしないのに、脳裏にはその景色がくっきりと浮かんでいた。その絢爛な細工すら見て取れた。
全身に鳥肌が立つ。手足が凍えたかのように冷え切っている。輿の中の存在を、人の本能が畏れている。
しゃんしゃんしゃん。こつ、こつ、こつ。
しゃんしゃんしゃん。こつ、こつ、こつ。
しゃんしゃんしゃん。こつ、こつ、こつ。
しゃんしゃんしゃん。こつ、こつ、こつ。
しゃん。
行列が半ばまで行きすぎたところで、不意に鈴の音が止んだ。
一瞬訪れる、耳が痛いほどの静寂。直後、それを埋め合わせようとでもいうかのように、蛙の声が湧き上がった。
聞いたこともないほど多くの蛙が、全く調子を揃えて、高らかに讃歌を歌い上げる。異様で、荘厳ですらある調べ。
それに混じって、ぼそぼそと金属の軋むような音が聞こえた。少し遅れて、それは声――少なくとも、人間の声に似た何かなのだと気付く。そして、それが向けられているのは己なのだと。
「ひのこ」
「よゆえ」
「いまは」
「いぬる」
「えでな」
「……なわぐな」
輿の中から声がして、それきり声は止んだ。
しばらくして、しゃんしゃん、と鈴が鳴り始める。
しゃんしゃんしゃん。こつ、こつ、こつ。
しゃんしゃんしゃん。こつ、こつ、こつ。
しゃんしゃんしゃん。こつ、こつ、こつ。
しゃん、しゃん、しゃん。
しゃん、しゃん、しゃん。
しゃん、しゃん、しゃん。
やがて鈴の音は去って行った。
鈴の最後の響きが、空気から消え去った。蛙の合唱はとうに終わっていた。カーオーディオがぎこちなくポップスを流し始めた。視界の端で、信号から投げかけられていた赤い光が、緑へ変わった。
そうして初めて体が動いた。
顔を上げると、青信号に照らされた、ごく普通の田舎の交差点があった。何も変わらない、ただの交差点。
アクセルを踏み込み、車を飛ばして帰宅した。布団を被ると、耳の奥に残った鈴の音が、いつまでも鳴り続けた。
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