一番怖いのは



「ホラーでありがちじゃないですか、これを読んだら呪いが伝染るってオチ」

 夜の公園。ベンチに腰掛けたまま、砂を蹴飛ばして青年は言った。



「まあ、正直多いですよね」

 私は苦笑いで答える。

「どんでん返しですよって体で出してきますけど、正直僕は怖いと思ったことがないんですよ」

 青年の顔は大半が闇に沈んで、眼鏡だけが街灯を受けて光る。



「私も割とそうですよ。フィクションって割り切って読んでますから」

「そう、結局は作り話だから、で納得できちゃいますからね」

 公園のどこかから、鳥なのか、ホーホーと声がする。人間はとうに寝静まっている時間だが、夜を根城にする生き物たちは、ひっそりと蠢いているようだった。



 頭上の街灯が落とす、生気に欠ける白々とした光。その中からは、わだかまる闇が一層濃く見えた。都会に人工的に作られた、植民地めいた雑木林であっても、その暗闇には得体の知れない手触りがある。

 けれど、私は知っている。そこに幽霊はいないし、怪物も潜んでいない。いるとすればせいぜい不審者くらいで――それはまあ、恐れるに足るかも知れないが。



「ホラーが好きだけれど、それが実際には起こりえないと知っている。そういう人が実際には大半でしょう」

 青年は淡々と語った。

「呪いが伝染るぞ! なんて言われても、そんな非科学的なもの存在しないって、分かっているから怖くもない。それなら何故読者を巻き込むのがあれほど擦られているのか、正直僕には分かりません」

 私は彼の言葉に同意しながらも、内心で首を傾げていた。ネット上の知り合いに過ぎなかった彼と、こうして顔を合わせることになったのは、彼の奇妙な言葉がきっかけだったからだ。



 一生消えない呪いのかけ方を知ってますよ。そんなことを言われて興味が湧いた。元々互いにホラー好きだと知ってはいたが、現実とは一線を引くタイプだと思っていたから、なおさら。

 彼の言葉は、やはり事前の印象に合致したものだったから、彼の言う「呪い」とやらが謎だった。



 私の視線に目敏く気付いたか、彼は軽く笑った。真面目そうな外見にそぐわない、唇の端だけをめくり上げた、どこか気味の悪い笑い方だった。

「……僕の呪いは、そういう人ほど消せないものなんですよ」

 私の背筋を、ひやりとしたものが這い上る。まるで彼の言葉が、それ自体質量と力を持って私を捕らえようとしているかのように感じた。それは気の迷いに過ぎないのだが。



 青年が立ち上がり、眼鏡を押し上げる。

「お願いしたとおり、懐中電灯は持ってきましたか」

「……はい」

 ポーチから小型の懐中電灯を取り出してみせると、彼は頷く。

「それで構いません。それでは、行きましょうか」



「どこへ?」

「そう遠くはありませんよ」

 ふと風が吹き、ざわざわと木々が揺れた。葉の擦れる曖昧な音は、私たちを見張る暗闇の囁きのように感じられた。

 彼はすっと手を上げ、その囁き交わす木々を指さす。

「この林の中へ、ほんの少し入るだけです」



 街灯の無機質な光を受け、死んだような色を反射している木々が、誘いに答えるように揺れた。

 その奥には、きっと同じように木々が連なっているはずだが、何も見えない。ただ見えないというよりも、闇という確固たる存在が、その前に立ちはだかっているかのようだ。

 昼間に見れば、都会の中で飼い慣らされた自然に過ぎないだろう木立は、月も出ない夜では随分と陰鬱だった。



 私は無意識に生唾を飲み下して、迷い無く歩き出した青年の後を追う。

 このための懐中電灯だったのか。彼も自分用のものを持ってきていたようで、二筋の細い光が土を照らす。



 地面から時折突き出した木の根を避けるため、頼りない光と視線を全て足下に注ぐ。

 闇は圧倒的に巨大だった。たった二つの懐中電灯では、その爪先ほどしか照らせない。



 歩くうち、自然と五感が研ぎ澄まされていくのを感じた。土の匂い、僅かな生物の息遣い、肌を撫でる生温い風。

 否、呼吸が聞こえるほどの距離に動物がいるはずがないのだから、それは何かの聞き間違いだろう。だが私の脳裏には、ひたひたと足音を忍ばせて背後に迫る捕食者の像が浮かんでいた。

 あり得ない想像。私はその馬鹿馬鹿しさに唇を歪める。



「……一つ、ありふれた怪談をします」

 不意に青年が口を開いた。突然のことに、私はええ、とだけ答えた。



「僕が大学一年生の時……サークルに入り、オカルトに興味がある人とつるむようになって、しばらく経った頃でした」

 彼のぼそぼそとした声は、それでも林の静謐なざわめきを上回っていた。私の意識は、自然とその声に引き寄せられる。



「オカルトは結局実在しないのに、よく考えれば何が怖いのか……と僕が言うと、とある先輩が言ったんです。『じゃあ、一生消えない呪いをかけてやろうか』って」

 彼女の車で連れて行かれたのは、幽霊が出ると有名なスポットでした。



「森の中に、ぽつんと一軒だけ廃墟が立っているんです。そこで昔一家心中があったとか、ありがちな噂がありました。でも、そこはサークルの肝試しで、既に行ったことがあるんです」

 その時は十人ほどで酒も入っていたから、わいわいと騒ぎながら廃墟の周りを歩き回り、時に無遠慮に割れた窓を覗き込んだ。

 少し懐かしげに語った青年は、気を取り直すように続ける。



「『前は何もなかったじゃないですか』と言うと、彼女は笑って、廃墟の前に立つよう促してきました」

 懐中電灯は、二本。そのうち一つを先輩が消しました。

 手のひらほどの小さな光で、僕の視線の先だけが照らされています。

「そこで彼女は、光を消せ、と言いました。僕は言われるがまま消しました。その場は暗闇に閉ざされました」



 あの夜も月がなかった、と彼は呟いて足を止めた。私は否応なしに、彼のすぐ後ろで止まる。

 いつの間にか、街の明かりは何一つ見えなくなっていた。街灯や遠方の夜景も、全て木々に阻まれている。これほど暗い場所が、町中の公園にあるとは知らなかった。

 不定形の闇が、ずるずると私の周りを這いずっているような気がした。生温い風が、無体な錯覚をもたらしていた。

 振り向いた青年の懐中電灯が、私を照らす。互いを照らす光だけが、唯一現実を確かなものにする。



「暗闇。その中で、先輩が遠ざかる足音が聞こえたんです。思わず先輩を呼びましたが、返事はありませんでした」

 先輩が帰ってしまったのなら、何も見えない暗闇で、僕一人。……何も起きるはずがないと分かっているのに、自然と体が震え出しました。

「分かったんです。理性じゃ否定できない、僕の本能が、勝手に畏れているんだと」



 僅かな星の光に目を慣らして、次第に、廃屋の輪郭が捉えられるようになりました。――そして、木々の向こうに立つ、ぼんやりと白い影が見えました

「思わず悲鳴を上げかけて、懐中電灯をつけました。そこには何もいませんでした。すぐに戻ってきた先輩も、何も見なかったといいます。大慌てで帰り、先輩に泣きついてファミレスで徹夜しましたが、その晩もそれ以降も、何も霊障のようなものはありませんでした」

 記憶を噛みしめるような口調だった。



「けれど、僕は見たんです。 それは人のようでした。でも人にしては背が高く、そして頭が異常に大きかった。顔らしき場所ははっきりとは見えませんでしたが、何故かそれは笑顔のように感じられました」

 その口ぶりが不意に変わった。まるで、今見えているものをそのまま描写しているような。

「それは、確かにあそこにいました」

 僅かな沈黙。



「……それ以来、夜目を閉じるたび、暗闇に身を置くたび、あの輪郭が瞼に浮かびます。あの笑顔は、時間が経つにつれ、僕に近づいているような気がします。これは一生、瞼の裏に付きまとうのです」

 この話はこれでおしまいです、と言って、青年は懐中電灯を切った。



 幕引きの合図のようなカチリ、という小さな音とともに、周囲は一瞬の静寂に包まれた。一拍遅れて、ざわざわ、ざわざわと葉擦れが耳に届く。まるで私たちを取り囲む闇が、語り部をねぎらっているかのように。

 得体の知れない連想を、かぶりを振って払い落とす。一筋だけになった頼りない光を青年に向けると、彼は肩をすくめた。



「つまらない話でしょう。肝試しスポットに行って、幽霊だか怪物だかに出くわして、呪いを受けて帰ってきた。この程度の体験談、ネットを漁ればいくらでも出てくるでしょうね」

 懐中電灯の光の中で、彼の微笑は、生気を欠いていた。



「……でも、超自然的な呪いも、笑顔の白い怪物も、存在しないんです」

 彼の意図を掴み損ねて、私ははあ、と呟く。感情の読めない眼鏡越しの顔。



「存在しないはずのものが見えてしまったから、怖い、ということですか。常識が覆されてしまった、みたいな」

「まさか。それこそありふれた怪談でしょう」

 にべもない答えに鼻白む。



「それは存在しないんです。そう思ってる、じゃない。そう知っている。科学は万能じゃない、なんてレトリックで誤魔化せるものではなくて、確かにオカルトは存在しない。そして、僕はそれを知っていたはずでした」



 彼は私の反応に気を遣うでもなく、ぼそぼそと一点を見つめて呟く。異様な様子に、手足が冷えていくのを感じた。

 いくらネットでは旧来の知人といっても、会うのは危険な相手だっただろうか。私を取り囲む夜闇が檻のようで、逃げようにも逃げられない。



「でも、じゃあ、僕は何故闇を前にしただけで体が竦んだのでしょうか。僕は何故あの白い人影を見たんでしょうか。僕は何故毎晩、震えながら目を覚ますんでしょうか。実在するから、という逃げ道がないなら、答えは一つだけだ」

 彼が私を見ようとした。そう感じた。私はとっさに、彼の表情を見なくてすむよう、懐中電灯を下げた。同時に視線も下げると、彼の履き古したスニーカーが目に入る。

「僕自身がそれを見せているんです」



 彼の言葉を賞賛するように、木々のざわめきが高まった。森が生きているかのようだった。そんなことはあり得ないと知っているのに。

「僕の脳が、日頃どれだけ現実を信じていても、あり得ないものをこうして映し出す。僕はそれが存在していると、感じてしまう。実在しないと知っていて、なお、僕の体は勝手に竦む」

「……」



「呪いを生み出しているのは、僕自身です。それは、僕がどれほど理性で否定しようとしても――むしろすればするほど、消えない。絶対に消えない。そして、だとすれば――この呪いから逃れるすべは、ないんです」

 彼の口調はどこか恍惚としているようだった。私は口を挟めなかったが、彼の言わんとすることは次第に理解し始めていた。



「何かが呪いの原因だとすれば、ただそれから逃げればいい。けれど自分からは逃れられない。僕に現実としか思えない錯覚をもたらすのが自分なら、僕は一生この幻想から逃れられない。僕を捕らえている恐怖は僕自身から生まれた鎖です」

 その幻覚を見るたび背筋が粟立って、体が竦む。一歩一歩近づいてくる怪物を前に、ただ震えて立ち尽くすことしかできない。いずれ死ぬ、と直感しながら、ただ怪物を待つ。

「……そんなものはないと知っていても、僕の体は、感覚は、違うと訴え続けるんです。狂った警報器が鳴り続けて、僕を内側から壊そうとしている」



 人間が一番怖い――そんな安っぽい警句は、半分だけ正しい。

「この世で、オカルトなんて存在しないこの世界で一番怖ろしいのは、自分です。僕の中にあって、僕を支配している、意識や理性では絶対に手が届かない、この真っ暗な部分。僕の体の、大脳新皮質以外の全て」

 彼は首元を引っ掻く。己の内側から、それを掻き出そうとしているようだった。それがどれほど無益な行為か、私には分かっていた。



「僕を支配するこの闇に光を当てられないなら、僕たちが『自我』だの『自分』だのと崇めているものは、いかに惨めでちっぽけでしょうか」

 一生消えない呪いの意味が分かったでしょう、と彼は上機嫌に囁いた。



「悪霊がもたらした呪いなら、除霊でもすればいい。けれど、僕たち自身に宿る、僕たちの自我を押し潰す怪物の存在は――そして、その存在に気付いてしまったという事実は、どう足掻いても消えないんです。知識は、消えないんです」



 青年が、ゆっくりと歩いて私の後ろへ回り込んだ。

「呪いは、二つ。死ぬまで消えない幻覚と……」

 私は手足の先まで全く動かせず、ただ息を半ば詰まらせて、彼の動きを皮膚で感じていた。



 彼が目の前から消えた。代わりに見えるのは、懐中電灯の一筋の光。

 それが消えれば、真の暗闇が訪れる。それを想像しただけで、体の芯が震え始めた。



「……呪われたければ、懐中電灯を消してください」

 彼が不気味に掠れた声で囁く。



 今光を消せば、きっと見えてはならないものを見ると、彼の言う呪いがかかると、私は直感していた。指先は動かなかった。


 けれど、呪いのもう一方は、一生拭い去れないそれは、既に私の脳に植え付けられていた。



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