証明写真機
バイトの面接の前夜になって、履歴書用の顔写真がないことに気がついた。
男は寝る準備を整えていたが、ため息をついてベッドから起き上がる。朝になってから撮りに行くのは、いくらなんでも忙しない。
襟付きの、多少ちゃんとした服に袖を通して、彼は家を出た。
玄関の扉を開けた瞬間、むわりと湿った熱気が顔に当たる。日付がそろそろ変わる時間帯だが、気温は一向に下がらない。時折そよぐ微風だけが、その不快さを僅かに吹き払うが、それもすぐに戻ってしまう。
いつの間に降ったのか、アスファルトは黒々と湿っていて、暑苦しい匂いを立ちこめさせていた。濡れた路面は、まばらな街灯の光を受けて、奇妙なほどぎらぎらと光り、周囲の闇を一層際立たせている。
光に惹かれる羽虫のように、街灯から街灯へ渡り歩き、彼は最寄りのコンビニを目指した。
夜の町は死んだように静まりかえっていた。明かりを消した家々は、人を拒絶する気配を放っている。高い植え込みは、生ぬるい微風を受けてひそひそとざわめく。彼は、距離を取るように、車道の中央へさまよい出る。
街灯の乏しい光と、それ以外の全てを塗り潰す暗闇。闇の中は生ぬるく、有機的で、何かの息遣いが聞こえるようだった。不快な質感を伴う熱が体を包む。
汗の滴が首筋を伝い落ちる。不快な感触に首をすくめながら足を速める。無機質な白い光の輪に入るたび、彼は息継ぎのように酸素を吸った。
写真機が設置されているコンビニはそう遠くない。だが、夜道は昼間歩くそれよりも長い。
国道沿いに白々と輝く建物が見えてきたとき、彼は既に全身に汗をかいていた。
虫がたかるガラス窓から光が漏れる。その光の輪から僅かに外れ、影に沈み込んだ壁際に、証明写真ボックスが座している。
等身大の箱の内側には、眩い照明が満ちているはずだ。だが、今はカーテンが閉じられ、その光のほとんどが遮られている。床と椅子だけが白の中に浮かび上がっていた。
彼が近づいたとき、機械的な案内音声が漏れ聞こえた。
先客がいるらしい。しばらくコンビニで暇を潰すか。
冷房が効いた室内を想像すると、それだけで気温が下がったように感じる。きびすを返した彼の背後で、コトンと小さな音がした。
写真が吐き出されたようだった。受け口から白い紙が覗く。すぐに先客も出てくるだろう。
足を止めた彼は、写真機を見つめる。
いつになっても、そのカーテンは開かなかった。
怪訝に思った彼は、ボックスに近づく。カーテンの下部、光が漏れる隙間へ目をやる。
灰色の床。黒い椅子の脚。白い壁。
そこには、ひどく単調なコントラストしかなかった。あるべきはずの、人の脚がなかった。
冷たい汗が背筋を流れ落ちる。先ほどまでの暑苦しさが嘘のように、脳髄が痺れるような冷たさに襲われる。
微かな耳鳴りに襲われながら、彼はよろめくように写真機へ近づいた。カーテンに手をかける。磁石で留められているカーテンは、鉛のように重い。
ボックスの中には、誰もいなかった。
先客がいる、というのは勘違いだったのだろうか。そう思い至って、ふと安心する。肌を蝕むような暑さが再び戻ってきた。
案内音声は何かの聞き間違いだったのだろう。受け口にあるのは、誰かが忘れていったものかも知れない。そう説明を見つけた途端、奇妙に勢いづいて、彼は受け口から写真を取り出した。
青を背景に、こちらを見つめる八つの同じ顔。口を大きく開けて、同じくらい目を見開いた不自然ほどの笑顔は、彼自身のものだった。
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