切れかけの蛍光灯



 アパートの階段を上る。灰色のコンクリートを踏むたびに足音が虚空に響く。足音が重なって、まるで他の誰かが一緒に登っているようだ。

 深夜の帰宅が私は苦手だった。



 築何十年か忘れたがこのアパートはかなり高齢化している。コンクリートの壁はまさしく老人の肌のようにかさついていて、雨の模様が染みついている。夜の暗がりでその染みを見ると、巨大な虫か人影のように見えてしまう。

 階段のひびが走った手すりや、虫の死骸が張り付いた磨りガラスは、それでもまだ耐えられる。何よりも苦手なのが、私が住む最上階の廊下だった。



 最奥の私の部屋まで十数メートルの直線を、切れかけの蛍光灯が照らしている。今にも息絶えそうな様子で、なんとか数秒間意識を保っては、ふと光を失って、慌ててまた意識を取り戻す。

 薄汚れた廊下が数秒おきに闇に沈むたび、誰もいないはずのそこに、人影が浮かび上がる。



 私は唇を噛んで、早足で歩き出す。息を止めて、ほとんど走るように急ぐ。

 真っ黒な影。暗がりの中で輪郭はぼやけて、体型も何も分からない。それでも、私にはその顔が想像できるような気がする。



 光が戻る。影が消える。さっきまで影が立っていた場所を駆け抜ける。奇妙な寒気が体表を撫でるけれど、振り向かず、自室の鍵を急いで開ける。手探りで照明のスイッチを押すと、LEDが眩しく光る。

 後ろ手に鍵を掛けると、私は思わずその場にしゃがみ込んだ。バクバクと鳴る心臓を押さえて、うずくまったまましばらく動かない。

 あれは、ただの幻覚だ。





 霊感があるとか、憑かれやすいとか、そういったことは全くない。むしろオカルトは馬鹿にしてきた方だ。だからその人影は、ただの目の錯覚か、私の頭がおかしくなっているのだと信じている。



 人影は、どこにでもついて回った。夜道を照らす街灯でも、大学構内の人気のない廊下でも、蛍光灯の光が途切れるたびにそこに現れる。光が戻ったときには消えていて、だからその姿ははっきりとは分からない。

 最近は、夜は出歩かないようにしている。それでもバイトやサークルで、否応なしに日が落ちてから帰宅することはあった。そのたびにそれを見た。



 他人に相談するわけにはいかなかった。私はきっと気が狂いつつあるのだけれど、友人にそう思われるのは避けたかった。それに、もし家族に相談したならば――

 頭を振って考えをふるい落とす。考えない方が良い。今は早く夕食をとって、風呂に入って寝てしまおう。

「よし」

 切り替えるようにそう言って立ち上がる。



 部屋の中の照明はすべてLEDだ。引っ越してきたその日に確認して取り替えた。あの幻覚は、蛍光灯の下でだけ現れる。

 もし家の中であれを見ていれば、私はとっくに壊れているだろう。

 引っ越しの手続きの時に、廊下の照明に気がついていれば良かった。大家に連絡したけれど、一向に取り替えられる気配はない。しゃがれた声を電話越しに聞いただけの大家に、そもそもアパートを管理する気があるのかも分からなかった。



 不意にスマホがけたたましく鳴り始めた。慌ててポケットから引っ張り出すと、画面には母という字が表示されている。

『あんた、夏は帰ってくるよね?』

 母は前置きも何もなくそう切り出した。



「……まあ、お盆には帰るよ」

『法事には出てね』

 あの家には戻りたくなかった。それでも、帰らない訳にはいかないだろう。実兄の一周忌だ。

 母は何でもないように言った。それは努力してそう振る舞っているのだと知っている。



 母は日常に戻ろうと努力した。私は家から逃げ出した。父は仕事に打ち込んでいる。誰も決して、兄の死とは向き合っていない。兄に申し訳ないと心の片隅で思いながら、目を逸らして生きている。

 そんなだから、気が狂ってしまったのだろう。





 兄が死んだのは、夏のさなかだった。

 友達と肝試しへ行く、と日が暮れてから出発して、十時頃まではLINEが来ていた。肝試しと言っても、近所の神社を夜中に歩き回るだけのことだ。別に問題ないでしょう、と母は言ったし、父も渋い顔だったけれど結局了承した。

 連絡が途絶えて、いい加減警察を呼ばないと、と父が立ち上がったとき、ドアが開く音がした。慌てて三人で玄関に駆けつけると、蒼白な顔の兄がそこに倒れていた。



 熱に浮かされながら見てる、見てる、と呟く兄の姿はあまりにも不気味だった。話しかけてもろくに返事がなかった。兄の友人がどうなっているのかも分からず、私たちは警察に電話して救急外来に駆け込んだ。

 医者は高熱の原因がさっぱり分からない様子で、翌朝きちんと検査します、と首をひねりつつ言った。



 その朝が来る前に兄は息絶えた。切れかけの蛍光灯の下で。



 兄の友人二人は行方不明で、葬儀にはその家族が参加した。互いにどう話すべきか分からず、儀礼的な挨拶だけですぐに別れた。

 私はオカルトは信じていない。だから、蛍光灯の点滅とともに現れる人影は、兄の亡霊ではない。彼を忘れようとしている私に、苛むような目を向けるあれは、私の頭の中の妄想に過ぎない。





 朝、部屋を出る。昇りかけの太陽が真正面から目を刺す。

 新鮮な日光の下では、廊下は浄化されたように輝いて見えた。

 昨日影が現れた場所を通り抜ける。日差しで微かに肌がぬくもる。

 急がなければ授業に遅刻してしまう。足早に階段を下って、大学に向けて歩き出す。街は陽光に照らされて煌めいて見える。



 永久にこの朝が続いて欲しい。夜が来るたび、暗がりに足を踏み入れるたび、夢を見るたび、兄の姿が蘇る。記憶に焼き付いて離れなくなる。


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