第十章 輝かしい未来へ(5)

 トクトクトク──。ボトルの芋焼酎が氷で満たされたロックグラスに注がれていく。ピキピキと氷が割れる音とアルコール特有の匂いが鼓膜と鼻腔をくすぐる。薄暗い自宅リビングで、巻はグラスに口をつける。

 ──何だかうまないな。

 そのまま、机上のグラスをじっと眺める時間が続いた。

 やがて視界がぼんやりと白み、自らの半生へと浮遊していった。

 生まれは大阪。転勤族の父の影響で、幼少期から全国各地を転々とした。

 根からの負けず嫌いの性格だった。それは小学校から始めたサッカーでも同じだった。

 ──自分は天才やない。ならば努力するまでや。

 物心ついた時から自らを客観視していた。

 結果、努力して自らの才能を開花させた。高校は鹿児島の名門サッカー部に進んだ。持ち前の粘り強さと根性でレギュラーを獲得。将来を嘱望されていた。

 しかし、高校三年の夏、遠征先で右膝靭帯損傷の大怪我を負う。夏の終わりとともに、巻の選手生命も終焉した。

 もっとも、名門校に入りスポーツで生きていく厳しさを知った。だから、周りほど巻に失意の念はなかった。

 ──上には上がおる。本当の天才はおる。

 キッパリとサッカーに見切りをつけて、高校卒業と同時に就職する道を選んだ。

 高卒採用で一番条件が良かった熊本県の自動車部品工場の内定は蹴った。

 二〇〇六年春、巻が入ったのは、地元の地域紙「鹿児島民報」だった。

 ──頑張れば、結果を出せる世界や。

 記者という職種に対して、そんな確信めいたものを感じていた。

 もっとも、地域紙は地域の広報紙のような側面が強い。抜きネタを報じるのが稀だし、他社が後追いするような特ダネを飾るまでには、巻をもってしても二年を要した。

「巻さん、ウチに来ませんか?」

 二〇一〇年。ようやく地元紙「鹿児島新聞」への転職の切符を掴んだ。

 ──認められた。

 そう思った。が、引き抜きの真相は、自分の考えていたものとは違った。ある夜、酩酊した支局長が行きつけの小料理屋で全てを教えてくれたのだ。

「地域紙にネタを抜かれ続けるなんて、恥でしかねぇんだよ。それで、編集幹部の連中が、巻君を引き抜けって命令した訳さ。それに、高卒記者に良い顔されるのが、みんな気に食わないんだろうよ」

 ──記者に高卒も大卒も関係ないやろ。

 自白薬でも盛られたかと思うほど支局長の口は滑らかだった。巻はカウンター席で、猪口をギュッと握って、日本酒を呷った。渇望した酔いは、ついに来なかった。

 確かに思い当たる節はあった。わざわざ引き抜いた割に、扱いが冷たかったからだ。

 配属されたのも、本社勤務ではなく、この離島の支局勤務だった。仕事も街ネタを追うばかりで、以前の地域紙時代の方が、よっぽど新聞記者らしい仕事をしていた。

 ──これじゃ飼い殺しや。この会社は正当に俺を評価してくれへん。

 次第にそんな思いが強くなる。マスコミ専用の転職サイトに登録するまで時間はかからなかった。

 ──自分のことを誰も知らない場所で一からやり直したい。

 思いは早々に結実する。ヘッドハンター経由で、ブロック紙の東北タイムスから声がかかったのだ。

 二〇一二年、仙台に本社がある東北タイムスの記者になった。奇しくも前年に東日本大震災があり、東北は復興道半ば。仙台本社社会部に配属されて、これまでの鬱屈とした日々を埋めるように、巻は被災地取材に奔走した。

 充実していた。プライベートもそうだ。後に妻となる恵理えりと出会ったのも東北タイムス時代だ。仙台本社のアルバイトとして働く女子大生だった。小麦色の肌。クリッとした目が特徴の凜とした女性だった。

 実家は「かごしま黒豚」を生産する養豚場で、鹿児島出身であることにも縁を感じた。

 そして一五年秋、運命の出会いを果たす。気仙沼の取材現場で声をかけられた。

「巻さん、是非、毎朝に来ませんか?」

 毎朝新聞東北総局のBB、米山だった。

 柔和な笑みが放つ温かさ。巻の記事をずっと読んでいたのが会話から伝わってきた。

 巻の決断は早かった。一六年四月、巻は毎朝新聞社に入社。東京経済部配属となり、上京した。

 地域紙→地方紙→ブロック紙→全国紙。

 わらしべ長者のような転職で、ついに全国紙の記者になったのだ。

 さらに一七年四月、毎朝は東経と合併し、発行部数日本一の新聞社が誕生した。あの時、社内は高揚感に満ちていた。

 この会社にいざなってくれた米山への感謝の思いは常に胸にあった。もっとも、米山は社会部で、企業部である巻との接点はなかった。

 一八年四月。整理部から企業部に転属してきた女性記者に巻は目を奪われる。容姿にではない。ネタを引いてくる力にだ。入社以来ずっと整理部だったことを晴らすかの如く、その記者はネタを抜きまくった。

 記者の才に愛された正真正銘の天才。後に「毎経のクノイチ」と社内外で称されるその女こそ、常木翠玲だった。

 ──おかしな話だと思う。

 自分よりも五つも下の後輩に憧れていた。

 女として、好きだとかそういう感情ではない。あくまでも記者としての才にだ。

 煌々としたオーラをまとう彼女を目の端でいつも追っていた。

 だから、翠玲が深堀圭介と密かに交際していると知った時の衝撃は大きかった。圭介は企業部内でも底辺の存在だ。

 ──常木ほどの記者が、何故そんな男と? 男の趣味が悪すぎるやろ。

 翠玲と連載企画などの会議で顔を合わせる度に、そんな思いに駆られる。

 デスクから詰められる圭介を見る度、内心ではほくそ笑んでいた。

 ──常木は人の価値を判断できへん。

 天才への尊崇の念は徐々に薄れていった。

 まさにそんな時だ。二一年春、社会部から企業部に転属してきた米山と再会した。

 第七グループの外食担当となった巻に対して、米山は同グループのキャップになった。直属の上司になったのだ。

 当時は不思議な縁だと思っていた。が、後に人事も含めて全てが仕組まれていたと知る。

「派閥なんてホントにくだらないよ」

 気仙沼であった際と変わらぬ柔和な笑みを浮かべ、いつもそう言っていた。

 翠玲への失望の念を埋めるかのように、巻は自然と米山へと傾倒していった。

「シャイン内が不穏です。輝川誠社長が一部の社外役員と対立しているようです」

 二一年夏、巻はキャップの米山にそう報告した。記者として、巻もいくつもの修羅場を越えてきた。

 ──この会社、なんか変や。

 実は誠社長から打ち明けられる前から、シャイン内部の混乱の臭気を感じ取っていた。

「巻君、しばらく様子を見ようか」

 しかし、それからの米山は何だか煮え切らない態度だった。

 そして三月上旬のあの日。

「シャインの輝川誠社長が解任されます。社外取の星崎氏が動いています。生え抜き派への根回しもしており、もはや、解任は避けられません。このネタ、打たせてください」

 都内某所の薄暗いバーで、そう米山に打診した。その傍には何故か社会部長の三島が同席していた。毎朝派閥の編集幹部である。

 米山は歪な笑みを浮かべていた。目を細めて、唇を白ワインで湿らしてから言った。

「良いかい巻君。今回のシャインの件、君は何も知らない。それで行こう」

 ──何を……言っとる?

「えっと……」

 巻は困惑気味に米山と三島の双方を見る。

 三月中にこの件を報じて、四月からの後任である圭介にネタのバトンを繋ぎたかった。

 圭介には負の感情があるものの、仕事は仕事だ。完璧に引き継ぐつもりでいた。

「巻君、大丈夫だよ。シャインの件は、後任の深堀君に全部任せようじゃないか」

 三島がニンマリと笑う。

「そんなことしたら……」

 ──導火線に火がついた爆弾を深堀君に渡すようなもんや。

 三島がグイと上体を乗り出す。

「巻君。君は確か社会部志望だったね? どうだね、社会部に来てみないか?」

 強面に不釣り合いな笑みで、三島は打診してきた。

 無論、この件を口外しないのが絶対条件だがね──。その表情は言っていた。

 傍の米山にも目を向ける。いつもの柔和な笑みはない。悪巧みする悪徳代官のような不敵な笑みを浮かべていた。

 ──そういうことか。

 その瞬間、全てが読めた。

 東経のお膝元の企業部で、この二人はとんでもない大爆発事故を起こそうとしている。

 ──俺は……結局、派閥抗争で利用されていただけやった?

「これまで企業部の東経の連中は君を正当に評価してくれたかい?」

 三島は「三文芝居」という言葉がピッタリな神妙な表情で言う。

 ──全てが方便や。

 そんなの分かっていた。

 しかし、谷の小狡いネズミ顔が浮かんだ後、残ったのは空虚感だった。

「僕は君のような記者ほど、もっと評価されるべきだと思う。社会部にはその未来が待っている」

 いつもの柔和な笑みに戻った米山が優しく諭す。

 何故かその時、ぼんやりと浮かんだのは翠玲の顔だった。やがて消えた。

 ──悪いのは俺やない。もう知るか。

「分かりました。口外しません」

 卓上の向こうの二人とがっしり握手した瞬間、巻は自分が本当の悪魔になったような気がした。

 そしてシャインの物語は、圭介が主人公となって、急速に転回していく。

 四月十四日、ウィレットが誠社長の解任報道を特ダネとして打つ。圭介の懐でシャインネタは大爆発した。

 経済紙が経済ネタを抜かれた。他社の経済部記者も一気に本丸に攻め込んできた。早々に圭介の担当解任論が出た。しかも、圭介が掴んだ情報はキャップの米山に筒抜けだ。

 これは奇襲だ。完全に圭介に勝ち目はないはずだった。なのに──。

 圭介は地べたを這いつくばるようにして取材を展開した。巻が思っていたよりも泥臭い男だった。台風の如く周りを巻き込んでいく。他人を惹きつけ、味方に変えていく力が彼にはあった。

 翠玲が交際した理由が皮肉にも分かってしまった。

 結果、圭介は特ダネを抜き返した。今日、シャイン報道の裏で暗躍していた裏切り者までも炙り出した。

 ──あの深堀君が……。正当に評価できなかったのは俺の方や。派閥抗争の駒として、暗躍して俺が得たものは……一体? 

 尊敬していた翠玲は倒れた。同じ第二グループの一員として、彼女が当に限界を超えていることくらい気付いていた。

 ──なのにサブキャップの俺は、常木を守れんかった……。

『なぁ、何で誰よりも記事書いていた常木が、休まなあかんねん。ろくな記事しか書かへん、あんたが常木をなんで、そんな風に批判できるねん?』

 翠玲が倒れた後、巻は企業部フロアで、第二グループキャップの野洲に吠えた。

『書いて、書いて、書きまくってこそ、記者ちゃうんかい。記者でもねぇ奴が、二度と常木のことを批判すんなや!』

 あの言葉は自分自身への戒めだった。

 東経と毎朝。派閥が二分する社内……。

 ──生き残るため、立身出世していくため、俺は記者魂を売った。俺は記者じゃなくなったんや。


 カラン──。ロックグラスの氷が芋焼酎の海へと溶ける。巻は今、リビングという現実世界に戻ってきていた。

〈企業部記者の巻和久はシャイン取材で重要なコンプライアンス違反を犯した〉

 ゴンザレスにそんな一文から始まる内部告発文書を送り、あの会議室へと誘った。自らを告発し、裁きを受けるために。

 ──深堀君は良い面構えになった。あれなら大丈夫や。

 真剣な眼差しで米山を追求する圭介の姿を思い出す。

 芋焼酎のロックを一気に呷る。

 ──美味い。

 今度は真っ当な味がした。

「あれ? かず君、起きてたの?」

 その声にハッとする。パジャマ姿の妻の恵理がリビングに立っていた。

「すまん、起こしちゃったか?」

 娘の百合を寝かしつけるため、二時間前に一緒に布団に入っていた。

「ううん。なんか今日は眠れなくて。私も一杯もらおうかな」

 氷入りのロックグラスを持ってくる。

 机上の芋焼酎ボトルを掴み、巻の前に着座しかけた恵理が不意に目を見開く。

「あれ、和君、なんかあった?」

 ──何か?

「いや、ここのところ、あまり笑っていなかったのに、今、笑っているからさ」

 ──俺は今、笑っていた?

「今日、会社で良いことでもあったのかなぁって」

 恵理は出会った頃より少しふくよかになった。が、小麦色の肌に屈託のない笑みを浮かべる愛嬌のある姿は変わらない。

 笑みを浮かべたまま巻は、恵理に告げる。

「ああ、そうや。今日はな、凄くええことがあったんや」

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