第十章 輝かしい未来へ(1)
朝から霧雨が都心を覆っていた。本社十階の会議室の全面ガラスが白く曇っている。室内にもジメジメとした陰気な空気がまとわりついていた。
「えっ……」
午後一時半。最後に入ってきたコミショウは、部屋に居並ぶ顔ぶれに息を呑む。目を見開いて固まった後、そそくさと一礼して、圭介に促されるままに空いた席に着座した。
皆が入室の度、同じ表情をしていた。自分だけが呼ばれたと思っていたようだ。
「これで全員だよな?」
企業部長の谷がトレードマークの突き出た前歯を光らせて確認する。
「はい。全員です」
ぐるりと室内を圭介は見渡す。
まるで裁判のような配置だった。
裁判長席には、編集局長の堂本が鎮座する。威厳を示すように腕を組み、瞑目していた。その横には裁判官よろしく、子飼いの谷がいた。
『シャインのマル特を掴みました。明日の編集長の堂本局長にも是非説明したい』
そう圭介が谷にメールしたのは昨夜だ。すぐに電話があって、マル特の内容を聞き出そうとする谷に圭介は濁した。
「最終的な裏取りは明日になります。他部も追っていますし、くれぐれもご内密に」
セクショナリズムが激化した毎経社内では、「他社」以上に「他部」という文言に過敏になる者が多い。谷はまさにそうだった。
谷を巧みに誘惑し、堂本を異例ではあるが同席させるのに成功した。
圭介は会議室をぐるり見渡す。
堂本と谷から見て右手。裁判所で言えば、原告の位置には四人が座っていた。
圭介から見て右から青木、米山、巻、コミショウが座る。
もっともらしい理由を並べて、圭介が呼び出した。いや、誘き出したという表現が適切かもしれない。
腕組みして睨め付ける青木の視線がさっきから痛い。入室以来、一言も発していないが、圭介への嫌悪が滲んでいた。
「では、早速ですが始めたいと思います」
圭介が宣言したその時だった。
コンコン──。ノックの音が室内に響く。
──誰? もう全員揃っている。
全ての視線が会議室に一つしかない白いドアに集中する。
「いやぁ、遅れてすまないねぇ」
申し訳なさを全く感じさせぬ口調で、堂々と入ってきたのは恰幅の良い大男だった。
編集局副長の権座篤志こと「ゴンザレス」だ。編集局のナンバー2で、毎朝派閥の幹部でもある。
──なぜこの男がここに?
呆気に取られる皆の視線を気にせず、ゴンザレスは悠然と歩を進める。裁判長と化した堂本局長の左横にドカリと座る。
対立派閥の幹部の登場にも、堂本は瞑目したまま、微かに片眉をピクリと動かした。
「いやぁ、私は編集局副長である前に、取締役コンプライアンス担当でもあるからね。やはり、君の話を聞かなければと思ってね」
一番、コンプライアンスに問題ありそうな男の意味深な発言に、圭介は困惑する。
「さぁ深堀君、私のことなど気にせず始めてくれ」
──気にしない方が無理だ。
歯茎を見せて笑う姿は、風貌も相まって、どことなくピットブルを連想させた。
──誰が呼んだ? 毎朝派閥の人間か?
圭介は米山と巻を見たが、表情からは何も読み取れない。
──進めるしかない。
「では始めます。お足元の悪い中、本日、皆様にここにお越しいただいたのは……」
のっけからペースを乱され、冠婚葬祭の挨拶のようになる。が、何とか立て直す。
「他でもありません。シャインの件です」
誰からも反応はない。
しかし、「シャイン」と発言した瞬間、室内の緊張感が明らかに増した。
「皆様もご存知の通り、現在、シャインは粉飾疑惑が取り立たされております。本決算の発表を延期して、帝都監査法人が主体の特別調査チームが調査しています。私の取材によると、特に難航しているのは、二百億円もの損失が一体何だったかという点です」
それは知っている。テメェは一体、何が言いたい──。そんな表情で青木が睨んでいた。
「その損失の内容が分かりました」
その瞬間、皆が息を呑んだのが分かった。
「こちらをご覧ください」
圭介が立ち上がって皆に配り始めたのは、左隅をホチキス止めされた数枚の紙だ。
「わかば銀? デリバティブ?」
一枚目の紙を貪るように読み始めた谷が、問うような眼差しを圭介に向けていた。
「はい。これはシャインとわかば銀の間で、今からおよそ七年前、一五年秋に結ばれたデリバティブ契約です。シャインは円ドルクーポンスワップの四商品を契約しています」
「デリバティブって、ヘッジでもしようとしたのか」
渋面の青木がいつもの切れ味そのままに意味を咀嚼する。
「はい、その通りです。シャインは一五年当時、急激な円安による原料輸入コストの上昇に頭を悩ませていました。使用する小麦は国産だったものの、一部の原材料は輸入に頼っていました。『調達コストを抑えたい』との思いから、シャイン財務部は動きます。当時は七期連続で最終増益でした。社債の借り換えも迫り『増益をキープして、良い格付けを維持したい』との思いもあったかもしれません。わかば銀と相談した結果、同行の証券事業部とデリバティブ契約を結ぶことになったのですが……。次のページをご覧ください」
紙が荒々しく捲られる。
二ページ目に現れたのは、急峻な崖のようなチャートだった。
「これは円ドルの週足の推移です。ご覧の通り、デリバティブ契約を結んだ当時の一五年秋、為替市場では一ドル=百二十円を超え、円安が進行していました。シャイン財務部は著名なストラテジストや為替アナリストへの面会も実施して『円安基調は続く』と確信しました。が、ご覧の通り、その予想は大外れし、相場は急激な勢いで逆回転しました」
室内の多くの人間の眉間に皺が寄っていた。
物語は悪い方に転がっていく。
「わずか一年で一ドル=百円近くまで円高が進みました。おそらく、ここまでの円高を誰も予想していなかったでしょう。結果、シャインには計二百億円もの損失が発生しました」
「に、二百億円だと⁉︎」
そこで素っ頓狂な声を上げたのは谷だ。
「その通りです」
「ちょっと待ってよ、深堀君」
そこで会話に飛び込んできたのは米山だ。
「シャインがそんな多額の損失を被っていたなんて、過去の決算でも発表していないよ」
──流石、米山キャップだ。
「そうです。その通りです。財務部長であり、シャインの大番頭だった大鷲氏も焦ったことでしょう。営業外費用として、二百億円の損失を計上すれば、最終損益は大赤字間違いなしです。これが露見すれば、自分の地位も揺らぎかねない。だから……」
圭介は一呼吸置いてから発する。
「あるスキームを考え出したんです」
「ま、まさか、それって……」
コミショウが呻く。
皆も気付いたようだった。
「そうです。例の海外子会社の買収です。活動実態がないペーパーカンパニーを二百億円もの額で買収したんです。二十年かけて二百億円もののれんを償却して、証拠隠滅しようと画策したんです」
思わぬ話の展開に皆が息を呑む。
「しかし深堀。流石にそれは無理じゃないか。メインバンクや監査法人は、日々の資金の流れを追っている。普通、気付くだろう」
ネチネチとした口調で谷が問う。その指摘はごもっともだ。
「そうです。ですが谷部長、こう考えるとどうでしょう。もし、そのメインバンクと監査法人がグルだったら?」
「おいおい……」
谷が突き出た前歯を口に収めて、ゴクリと唾を飲む。
「実は七年前、わかば銀の証券事業部担当の取締役は現頭取の鴨崎氏でした。仮に二百億円もの焦げ付きが発覚すれば、行内でも大問題になります。いわばシャインと一蓮托生でした。だから、鴨崎氏も一計を案じたんです。長年、海外進出を夢見ていた龍造社長を口説き落とし、マニラ社の買収案件を提案した。その資金の大部分をわかば銀行が融資するという破格の内容でした」
圭介の網膜には嬉々とした表情で、マニラ社の買収を決断する龍造の姿が浮かんでいた。まさか騙されているとは知らずに……。
その光景を打ち消すように、一度瞼を閉じてから続ける。
「監査法人も鴨崎氏の息が掛かったロベリアに変更しました。業界では『駆け込み寺』との異名もある曰くつきの監査法人です。先日、審査会に処分勧告をされて記憶に新しいでしょう。ロベリアはマニラ社の買収のデューデリで、企業価値を割高に見積もるなど暗躍しました。シャイン財務部は、龍造氏がマニラに視察に行く時だけ、海外事業が存在しているかのような工作をしていたそうです」
圭介は誠に紹介された元財務部社員から、そんな情報を得ていた。
「深堀記者、このデリバティブ契約書の出所は?」
声の方に目をやる。ゴンザレスだった。
彫りの深い眼窩の奥の瞳からとめどない圧を放っている。
果たしてこの記者は信用に足るか?──。品定めするような鋭い目つきだった。
「元わかば銀出身者からの情報です。ネタ元の詳細は明かせませんが、このディールに疑問を持ち、手元に保管をしていたそうです」
『実は損失の件で、ちょっとお役に立ちそうな資料を持っていまして』
──ネタ元は絶対に言えない。
実は情報提供してくれたのは誠だ。
『当時、シャインの契約と聞いて、何だか気になってしまって……』
誠は本社勤務の経営企画部時代、懇意にしていた証券市場部の人間経由で、この契約書のコピーを入手していた。
銀行の職務規定に反する行為だが、数年後の今、ファインプレーとなった。遊田との会食前に立ち寄った際、圭介に託してくれた。
「この契約書には、役職者印もあります。これは鴨崎頭取が現在使っている頭取の役職印の名前の書体と全く同じです」
そこまで説明したものの、これではまだネタとして打つのは不十分なのだろう。ゴンザレスは納得した表情ではなかった。
「補足情報ですが、このデリバティブ契約の情報は、既に後任の帝都監査法人も把握しています」
誠が実名で送付したらしい。カメカンからも言質をとっている。
「海外子会社を巡る一連の不適切な資金の流れは調査報告書とともに必ず解明されるでしょう。この粉飾の詳細が明らかになれば、大問題になりますよ」
圭介は報道すべき意義を強調する。
「龍造社長は昨年四月、この海外子会社の存在を確かめるべく、マニラへと飛びました。抜き打ち視察でした。全ての真相を知ったことでしょう。ショックを受けたことでしょう。その帰路で不運にも航空機が太平洋沖に墜落し、龍造さんは帰らぬ人となりました」
無念さを慮るように圭介は俯く。
「次なるシャインのトップとして、シャイン四天王や鴨崎頭取は誠さんを祀りあげました。ですが、後任社長の星崎氏によって粉飾が暴かれそうになると、今度は輝川親子に全責任を転嫁しました」
失意の中で、死まで選ぼうとした誠の心中を考えると裏切り者たちが許せなかった。
「唯一の救いは星崎社長の存在です。彼は龍造社長の遺志にいち早く気付き、誠さんが不正に関わっていないのを突き止めました。その上で、不正を主導した鴨崎頭取やシャイン四天王と真っ向から戦っているんです」
ぐるりと室内を見渡して続ける。
「東経記者だった十年前のあの時と同じでね」
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