第九章 本当のユダ(6)

 梅雨を象徴するような天気が続き、この日も都心を小糠雨が覆っていた。

 六月下旬の平日。初めて行くその京懐石料理店は、密会のためだけに建てられたような造りだった。和を凝縮した佇まい。竹林が適度に生い茂り、町屋風の母屋の横には蔵もある。敷地全体をぐるりと瓦塀かわらべいが囲んでおり、外からの視線は一切気にしなくて良い。

 ランチだけでも最低一万円はする。その座敷席で今、圭介はある女の来訪を待っていた。

 約束の時間の十一時を五分過ぎていた。それは、どちらの立場が上かを示すようだった。

「お連れ様が御来店です」

 仲居の言葉と共に、ヒールのコツコツという音が近づいてくる。

 「失礼します」という仲居の言葉と共に襖が開き、その女は入ってきた。

「前の取材が延びてしまいまして。誠さん、お待たせしましたわ」

 ポニーテールに結った髪を揺らして、入ってきた女は硬直した。

 仲居が「どうぞどうぞ」と奥の席へと着座を促すが、反応できない。

「なんで……あんたが……ここに」

 その声はかろうじて聞き取れる声量だった。

「お久しぶりですね、遊田さん。さぁさぁ、せっかくのランチですし座ってください」

 圭介は笑みを取り繕って着座を促す。

 遊田は誠に会うためにここに来たはずだ。

 瞳を揺らして、この状況を懸命に理解しようとしていた。

「では、ごゆっくり」

 仲居が洗練された所作で襖を閉める。

 それと同時に圭介は種明かしする。

「実は先ほど、誠さんにお会いしたのですが、体調が優れない御様子で。ですので、私が代役としてここに来ました」

 ──嘘だ。

 五反田の輝川邸で対面した誠は、入院していたのが嘘のようにとても元気な様子だった。

 誠の協力を経て、この座敷席にまんまと遊田を呼び出したのが真相だ。

「代役? なら、私は帰ります。誠さんに会いに来たので。あなたには用がないので」

 頬を膨らませて、遊田はくるりと踵を返す。引き戸に手を伸ばしたその時だった。

「僕はあなたに用があるんですけどね」

 圭介はわざと大きくため息をする。

「では、あなたの問題行動について、しかるべきところに報告するしかないか……」

 やれやれと言った感じで告げる。

「問題行動ですって?」

 遊田が上半身だけ振り返る。眉をキッと吊り上げて、座敷席の圭介を睨め付けていた。

 圭介は懐から数枚の写真を取り出して、机上に荒々しく置いた。

 警戒するように遊田は目を細める。それから圭介を見てこれが何であるかを問うた。

「あなたが創業家側の会合に参加していた証拠写真ですよ」

 会合を終えて会場から出てきた写真だった。

 大鷲らシャイン四天王と握手を交わし、ハイヤーに乗り込むわかば銀頭取の鴨崎に、遊田が深く頭を下げている。

「どうです? 僕も三年間、記者をやっているだけあって、なかなか良い写真が撮れているでしょう。ウチの社が主催する写真コンテストにでも応募してみようかな」

 圭介はシニカルに笑う。

「記者は常に公平が求められる。なのに、あなたは創業家側の会合に参加していた。しかも、リリース作成を担っていましたよね?」

 無論、情報提供者は誠である。味方につくと、これほど心強い存在はない。

「リリース作成は記者が最もやっちゃいけないことでしょ? 公平性もあったもんじゃない。自ら発表資料を作って、自ら記事を書く。そりゃ、先行報道だってできるはずだ」

 圭介が言及したのは、あの「特オチ」騒動だ。あの時、兜倶楽部に誰もいなくて、毎経だけ報じるのが遅れた。一方、最も早く、しかも詳報したのはウィレットだった。

 しかし、蓋を開けてみれば何のことはない。創業家側の会合に出て、リリース作成したのは遊田本人だったのだ。

 ──それに……。あいつの暗躍で、こちらの情報はおそらく筒抜けだった。

 発表時間、場所、内容の全てが分かっている。まさに茶番だった。

「ウィレットや週刊誌、兜倶楽部の加盟各社にも情報提供させてもらいますね」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

 遊田は狼狽していた。上体しか向いていなかった体全体がこちらを向いている。

「誠さんとのメールのやり取りだってしっかり押さえています」

 圭介は念押しする。メールで証拠を残すこと自体、記者として三流だ。

「言い逃れできると思わないでくださいね」

 これまでの様々な辛酸が腹から迫り上がってきて、怒りを抑えきれなかった。

 あれだけ着座を拒んでいたのに、自ら遊田は圭介の前の席に座る。交渉の場についた。

 コンコン──。仲居が再びやってくる。

 「チッ」っと遊田があからさまな舌打ちをした。優雅さを気取ったいつもの姿はない。

 仲居は丁寧に今日のメニューを説明していく。全十種の産地やこだわりを説明していく。頷いて、質問までする圭介とは対照的に、遊田は落ち着きがない。

 何とも言えぬ部屋の空気を察したのか、仲居の後半の説明は駆け足になった。

「では、ごゆっくり」

 襖が閉まり、仲居が離れていくのを確認すると遊田は俯きながら発した。

「私はどうすれば……良いのですか」

 普段の高飛車な態度はどこへやら。歯を食いしばり、萎れている。

 ──やはり、こいつは記者として三流だ。自分の立場が何よりも可愛い。

「全て洗いざらい話してくれたら、今回の件は忘れましょう。写真のデータを今、ここで消します」

 遊田の瞳が揺れ、心の葛藤が垣間見えたが決断は早かった。

「分かりました……。お話しします」

 遊田は首を垂れる。

 ──この女は小物だ。やはり本物のユダは……。

 圭介はどこまでも冷静だった。

 コンコン──。そのタイミングを見計らったように、またも襖が開き、乾杯の飲み物と前菜が運ばれてくる。

「とりあえず、話は乾杯後にしましょう」

 ──何に乾杯するんだろう。

「乾杯」

 自分で発しながら圭介は苦笑する。

「まず……ウチの記者の小宮山翔子とはどういう関係なんです?」

 そんな問いを皮切りに、それから一時間、デザートが出てきた頃には、ほぼ情報を聞き出していた。無論、互いに食事を楽しむ心境ではない。箸も進まなかった。

 不思議だ。あれほど不気味で怖かった女も全てのカラクリが分かれば、全く怖くない。

「あの、私は全てをお話しました。だから、その……」

 遊田は懇願するような眼差しだった。

「はい……?」

 圭介はわざと惚ける。

「カメラのデータを……消去していただけないでしょうか?」

 遊田はまるでこめかみに銃口を突きつけられているかのような怯えた表情だった。

「ああ、失敬」

 普段使わなぬ言葉を返して目の前でデータを消去した。無論、バックアップデータが存在することは言わない。

「くれぐれも僕が今日、あなたと会ったことは言わないでくださいね。あれっ、いけない。録音機能がなぜか作動していましたよ」

 ここでの会話は全て記録しているぞ──。スマホ画面を掲げて、三文芝居を見せつける。

 その瞬間、遊田は生来の気の強さを思い出したかのように歯茎を剥き出す。が、結局、言葉は出てこなかった。

 ──卑怯なのはどっちだよ。

 圭介は膝頭にギュッと爪を立てる。ポンと膝を打ち、立ち上がる。机上の伝票に手を伸ばした。

「情報料として、ここは私が持ちます。どうかゆっくりしていってください。では」

 振り返ることもせず、何か言いたそうな遊田を置き去りにした。

 もはや同じ空間にすらいたくもなかった。嫌悪、いや軽蔑していた。

 支払いを済ませて店を出る。竹笹が風でなびき、シャーシャーと不快な音を立てている。

 圭介は今にも泣き出しそうな曇天の空を見上げる。

 ──どうして翠玲のような記者が倒れて、姑息な手段を使うああいう女が生き残る?

 この現実を呪う。

 それから最終決戦に向けて、決意を固めるように拳を握り、独りごちた。

「待ってろよ、本当のユダ」

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