第九章 本当のユダ(5)

 他人を蹴落としてでも上へ──。

 そんな好戦的な人種が多い新聞社の中にあって、その男は異質だった。

 ──忘れもしない。

 翠玲が初めて、深堀圭介と話したのは今から三年前。二〇一九年の七月下旬の午後だ。

 江戸橋を抜けて昭和通りを左折し、歩道を進む。首都高の高架下を潜った先。目的地の東京証券取引所が見えたその時だった。

 パンパンッ──。からりと乾いた空気に小気味よいクラップ音がこだまする。翠玲は音がした方に目をやる。兜神社で一人の男が二礼二拍手一礼していた。その信心深さに、翠玲は視線を奪われて立ち尽くす。

 くるりと踵を返し、階段を降りて、鳥居をくぐってきたその男こそ圭介だった。

「君……深堀君だよね?」

 企業部の新人として先日配属されてきた。

「はい、深堀と申します。常木翠玲さんですよね?」

 屈託ない笑みで圭介は返す。

「何をお願いしていたの?」

 微笑みながら兜神社の方を見やる。商業の神様である倉稲魂命うかのみたまのみことを祀るとされる神社だ。

 ──野心めいたお願いでもしていた?

「いよいよ決算が始まります。だから、皆が訂正もなく無事に終わるように願っていました」

 ──皆が? 決算? 無事に? 商業の神様に?

 想像もしなかった斜め上の回答に、翠玲は思わず吹き出す。

「では、兜倶楽部で決算会見がもうすぐ始まるので。私は失礼します。これからも御指導御鞭撻をよろしくお願いします」

 深々とお辞儀をして圭介は去った。

 ──ウチの記者とは思えないな。

 不思議な空気をまとう新人の背中を翠玲はしばし見つめていた。


 それからというもの、定期的に会えば、会話をする仲になった。目の端で追うようにもなっていた。

 社内的にも圭介は度々、注目を浴びる記者だった。

 引きやすい記者──。この業界には、ネタを被弾しやすい記者というのがいる。

 圭介はまさにそのタイプ。今回のシャインの件も然りで、彼が担当を引き継いだ瞬間、担当企業でとんでもない事件が起こることは、実はこれまでもあった。

 上司から怒鳴られながらも、誰も思い付かぬ方法でピンチを切り抜けていく。その奮闘ぶりと逆転劇にいつしか魅了されていた。

『深堀君って、進学塾大手の冥王ゼミナールの担当だよね? 実は巨額の投資運用損失を不正会計で隠蔽しているみたいなの。もう全ての取材は済んでいるんだけど、冥王の社長のヤサだけが分からなくて……悪いんだけど、社長に明日の朝刊にマル特が載るって、今から伝えてもらえないかな?』

 だから、二年前の冬。そんな電話をかけて、学習塾担当だった圭介に手を差し伸べた。

 当時、圭介には春人事で左遷の噂があった。

 ──彼のプレーをもっと見たい。

 そんな思いが言葉となって出た。

 後に圭介と交際をするきっかけになった。

 毎経のクノイチ──。社内外でそう評される記者となった翠玲にとって、圭介は安らぎだった。

 ──期待に答えなくちゃ。

 精神と肉体がすり減らされる日々での止まり木だった。

 だが、ついに耐えられなくなった。

 救急搬送されて、病院のベッドで目を覚ましたあの夜。白い無機質な天井を見ながら私は……。

 ──笑っていた。もうこれ以上、戦わなくて良いって?


 その瞬間、回想がグニャリと歪む。ブクブクと水泡の粒が淡く光る水面に向かって上がっていく。

 深い眠りの世界から翠玲は現実世界に浮上していく。

 ──また同じ夢を見ていた。

 瞼が重い。かろうじて開けた目は、カーテンの隙間から差す朝陽を捉えていた。

 上体をゆっくり起こす。ベッド近くの壁掛け時計は午前八時過ぎだ。昨日は日付が変わる前には寝たから、かれこれ八時間以上は寝ていたことになる。

「おっ、翠玲、起きた?」

 その声にハッとする。開け放たれたドアの向こう。リビングに圭介が立っていた。

「あれ、圭ちゃん、来てたの⁉︎」

 驚いて言葉を発した瞬間、喉の奥に睡眠導入剤特有の苦味が広がる。まとわりつくような眠気が今日も酷い。

「合鍵使って、昨日の深夜に来ちゃった」

 圭介がニッと白い歯を見せる。

 パニック障害と診断されて自宅療養を始めて以来、圭介は定期的に翠玲宅を訪れていた。

「これ、翠玲のお口に合うか分からないけど、あとで食べて」

 リビングの机上を指す。卵焼きや焼き魚など和食中心のおかずが並べられていた。食欲のない翠玲のために、食事も軽めのものをいつも用意してくれる。

「ありがとう」

 ベッドに腰をつき、リビングの方へと一歩踏み出そうと立ち上がる。ぐらりと地面が回転し始める。

 ──まただ。

 処方薬の副作用は予想以上だった。パニック発作は無くなったものの、代わりに眠気やふらつき、吐き気に襲われる。

「大丈夫?」

 圭介がすぐに駆け寄ってくる。

「うん、大丈夫。ちょっとふらついただけだから」

 何とか笑みを作ったが、見上げた先の圭介の表情は堅かった。

『本当にごめん。俺がシャインの件で不甲斐なかったから、翠玲にも負担をかけた。俺の……せいだ』

 パニック障害と分かった時、圭介は涙を浮かべていた。今もあの時と同じ表情だ。

 ──違うよ、圭ちゃん……。圭ちゃんのせいじゃない。

 翠玲は首を左右に振る。

 ──むしろ、圭ちゃんのおかげで……。

 その瞬間、手に温もりを感じる。圭介がベッド横に膝立ちになり、がっしりと手を握っていた。

「翠玲のおかげで、十年前の遊田記者を巡る例の騒動に行き着いた。本当にありがとう」

 ──そうだった。

 パニック発作が怖くて、今の翠玲は電車にも、タクシーにも乗れない。だけど……。

 ──この家の中から出れなくても、まだ私にはできることがある。

 その思いを胸に、この数日間、翠玲はスマホで当事者を当たった。

 「毎経のクノイチ」の異名は伊達じゃない。外に出なくても情報は掴める。

 遊田記者こと田村江麻が、東経時代に起こしたとある騒動の詳細を掴んだ。昨夜、圭介に電話で全容を報告していた。

「どうしても直接、お礼を言いたくて。だから、ここに来たんだ」

 視線を同じ高さにして圭介は深く頷く。

「今から決着つけてくる。いってくるね」

 圭介は翠玲を軽く抱きしめてから、立ち上がる。それから、ショルダーバッグを背負うと玄関に向かった。

「翠玲が早く会社に復帰できるように俺も支えるから」

 玄関まで見送りに来た翠玲に向かって、圭介は誓う。

 翠玲が言い返そうとする前に、ドアはパタリと閉まった。

「違うよ、圭ちゃん……」

 翠玲は圭介が消えた先のドアに呟く。

「私は会社に復帰したいんじゃない……。ただ、あなたとずっと一緒にいたいだけなの」

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