第九章 本当のユダ(4)

 深夜一時過ぎ。圭介が社員証をかざして入室したのは本社十二階の書庫室だ。

 古本特有の匂いが静謐の暗闇を満たしていた。忍足で、そっと壁にあるスイッチに手を伸ばす。必要な箇所だけ蛍光灯をつけた。

 十二階フロアの半分を占める書庫室は、図書館さながらに本棚がずらりと並んでいた。

 圭介は今、その一角の社内報が陳列された本棚の前に立っている。が、想像していた以上に社内報は多い。本棚が大きな壁のように立ちはだかる感覚に苛まれていた。

 毎経新聞社は十七年四月に合併して誕生したため、それ以前の社内報は旧・毎朝と旧・東経の二種類がある。つまり、社内報は通常の新聞社の二倍ある。

 ──コミショウは合併後入社世代だ。まずは、そこから調べていくか。

 圭介は大きく深呼吸して気合いを入れると、二〇二〇年四月号の毎経社内報を取り出す。目的のページはすぐに見つかった。

〈小宮山翔子〉

 およそ七十人の新入社員の一人として紹介されている。

 白桜女子大文学部卒業。挨拶と抱負は至って普通。顔写真も清楚そのもので、現在のように濃い目のメイクではない。

 「バイブス、上げていきましょう」と鼓舞する陽キャさを微塵も感じなかった。

 スマホで写真に収めて社内報を閉じる。

 次は巻の入社時の社内報探しに移ったが、こちらはかなり難航した。

 巻は三十代半ばの毎朝出身。二〇一〇年前後に入社したとみて、毎朝の社内報を探したが、どこにもその名前はなかった。

『巻さんは毎朝の前は他紙にいたらしいよ』

 三十分ほど探した後、ふと翠玲のそんな昔話を思い出す。

 ──そうか。転職組か。

 圭介は四月号以外の他の社内報にも調査の網を広げる。

 結果、巻の名が記載されていたのは、二〇一六年一月の社内報だった。

 〈ようこそ毎朝へ〉という転職組を紹介する欄に名前があった。

 笑みを浮かべているが、特徴的な蛇のような細い目も相まって、何だか冷たい印象だ。

 しかし、挨拶と抱負の文言に目がいった瞬間、息が止まる。

〈前職は東北タイムスの記者でした。〉

 そんな文言で始まっていたからだ。

「巻さんも……東北タイムスだった?」

 圭介の呟きが誰もいない薄暗い部屋の床に積もっていく。

 ──遊田とも知り合いだった?

 驚きを唾と共に飲み込んで、スマホで写真に収める。巻の載っていた社内報も閉じた。

 次はキャップの米山を探す。

 巻の時よりはすんなり見つかる。毎朝の社内報の二〇〇六年四月号の新入社員を紹介するページに見つけた。

 今よりも短髪だが、包み込むような温和な雰囲気はこの頃から健在。並びの良い歯は白黒でも煌めいていた。出身大学は都内有数の国立大学だった。

〈市井の人々の声なき声を伝えられる記者になりたいです。〉

 愚直で真面目で、部下思いのキャップである現在の米山像を体現したような抱負が綴られていた。

 ピピピ──。ぼんやり眺めていた圭介の視界がその音で明瞭になる。スマホのアラーム音が午前三時を告げていた。もうこの書庫室に来て、二時間が経過していたらしい。

 ウィレットのHPに飛び、シャイン関連のニュースがないか警戒する。特になかった。

 軋んだ体をほぐすように全身を伸ばす。ギュッと目を閉じた先にはポニーテールを結び、切れ長の目で見つめる遊田の残像があった。

 ヒロの経歴調査で入社年次は分かっている。

 東経社内報の二〇一二年四月号を手に取って開く。〈田村江麻〉の名は確かにそこにあった。風貌も今とさほど変わらない。

 ──本人に間違いない。

〈女性初の社長を目指したいです。〉

 挨拶と抱負の部分にはなかなか野心的なことが書いてあった。が、ヒロの経歴調査によれば、この一年後に遊田は退職している。

 ──一体、なぜ辞めたのか?

 そんな疑問を胸に抱きつつもスマホに写真を収め、社内報をパタリと閉じた。

 そして青木を調べ始める。

 ──青木デスクはおそらく四十代半ばだ。

 圭介の脳裏には、眉間に皺を寄せて睨め付けるような表情の青木が浮かんでいた。

 数冊の空振りを経て、ようやく二〇〇〇年四月号で名前を発見する。五十音順だから、新入社員紹介ページの一番最初にいた。

〈青木俊一〉

 顔写真は意外にも好青年そのもの。

 ──銀縁眼鏡の奥の瞳はこんなにも澄んでいたのか。

 圭介は苦笑する。

 挨拶や抱負にも新人らしさが凝縮されたような健気さがあった。

「どうして若頭になんかなっちまったんだよ……」

 誰もいないのを良いことに毒づく。

 スマホで写真を撮って、社内報のページを閉じかけたその時だった。

 ──んっ?

 ある名前を視線が捉える。一瞬だった。が、確かによく知った名前だった。

 瞳が社内報の上下左右を彷徨い、その名前の上でピタリ止まった。

〈星崎直倫〉

 最後に調べようと思っていた名前がそこにはあった。

 ──嘘? つまりは……星崎社長と青木デスクは同期だった?

 その事実に思わず息を呑む。


 その後、圭介は近くの作業用机に移動した。取材ノートを開いて、そこに遊田の経歴を縦に箇条書きしていく。

 青木や米山、巻、コミショウ、星崎の五人の経歴も可能な限り記載していく。ネットで名前を検索すると署名記事が出てきて、五人の支局や担当などからおおよその経歴が分かった。

 その間、頭蓋では星崎が電話で言ったあの言葉がずっと反響していた。

『深堀記者。お前、このままじゃ、負け続けるぞ。お前はまだ、本当の敵を知らない』

 気付くと、空は白み、東の空から顔を覗かせた太陽が丸の内の高層ビル群のガラス張りの側面に反射していた。

 ──やっと終わった。

 圭介は今、眼下のノートに視線を戻す。達成感ではなく、落胆の方が大きかった。

 大きく嘆息してから呟く。

「本当のユダ……いや、本当の裏切り者はおそらくあいつか」

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