第九章 本当のユダ(3)

「じゃあ何だ。龍造さんは誠さんを拒絶していたわけではなく、むしろ、ずっと救おうとしていたってわけか?」

 ヒロが白ワイングラス片手に問う。

 誠との面会から数日後。今、圭介は川崎駅近くの薄暗いワインバーの個室で、ヒロとカメカンと丸机を囲んでいた。まもなく二十三時を過ぎるが店内の人はまばらだ。

「うん。救おうとしていたのは龍造さんだけじゃない。星崎社長や大川内さん、榎本さんも龍造さんの遺志を汲み取って、取り巻き連中に良いように利用されていた誠さんを陰で守っていたんだ」

 ここ数日、調査した内容を圭介は思い返す。

「例えば、豊銀がシャイン株を五%取得してたのもそうだ」

 それがどう関係する?──。という表情でヒロが首を傾げる。

「誰が売ったのかずっと不思議に思ってたが分かったんだ。売ったのは三%保有していた帝国ビバ、二%保有していたカトレア珈琲だったんだ。つまりは、大川内さんと榎本さんが豊銀に時間外で売った」

「マジか? 一体、何のために」

「星崎社長の要請に応じたんだと思う。前も言ったと思うが、星崎社長は今、頻繁に豊銀幹部と会っている。俺の憶測ではあるんだが、おそらくはメインをわかば銀から豊銀に変更しようとしているんじゃないかな」

「メインバンク変更? マジかよ」

 ヒロが白ワイングラスを机上に置く。

「うん。豊銀が五%の株式を保有したのは将来的なメインバンク交代の布石だと思う。いや、星崎社長のことだ。さらに先を見据えた資本政策なのかもしれない」

「それにしてもよ、わかば銀ってのはメインを下ろされるくらいヤバい銀行なのか?」

 ヒロの問いを引き取ったのは、圭介ではなくカメカンだった。

「そうかもしれないぜ。知っての通り、俺は今、決算特別調査チームの一員として、シャインの過去の粉飾を調べている。だが、ここに来て、わかば銀もきな臭くなっている」

 ペロリと下唇をカメカンは舐める。

「きな臭い?」

「ああ。非協力的すぎないかと帝都内でも話題になっている。シャイン財務部が提出した資料について、わかば銀に提示を求めているんだが、ことごとく非協力的だ。『取引先のプライバシーに関わる重要情報は共有できない』の一点張りさ」

 カメカンは赤ワインを呷る。

「粉飾してる可能性がある会社にプライバシーもクソもあるか。メインなら普通、進んで財務資料を提示するだろ。何かを隠そうとしている感すらある」

 それは新たな可能性を示唆していた。

「実は二百億円規模とされる損失の内容もまだ分からねぇんだ」

「二百億もの損失がか? おい、マジかよ」

 ヒロが息を呑む。

「大番頭の大鷲さんは俺らが踏み込むずいぶん前から、対策していたらしい。デジタルフォレンジックで見つかるのを恐れていたのか、重要資料のほとんどは紙で保存してた。そして、ことごとく行方不明さ」

「何だよそれ。ホントに上場企業かよ……」

 ヒロが舌打ちする。

「監査を担当していた前任のロベリアに尋ねようにも、担当会計士は絶賛、雲隠れ中だ」

 カメカンは苦笑する。

 ロベリア監査法人は審査会の金融庁への行政処分勧告以降、業務停止処分となった。シャインの担当会計士は皆、雲隠れしている。

「頼みのメインバンクまで消極的ときたら、もう考えられるのは一つしかない」

「わかば銀もシャインの粉飾に関与してたってことか?」

 圭介は嘆息混じりに問う。

「関与どころか主犯の可能性だってある。大鷲、わかば銀の鴨崎頭取、ロベリアの鉄のトライアングルだな。隠蔽することを前提に、数年かけて、準備していたに違いない」

「まさに、誠さんは人身御供だったわけだ。なぁ圭介、お前、どうやって損失内容を炙り出す気だ」

 ヒロの問いに、圭介は瞬時に反応できない。

「何とかするさ」

 圭介は赤ワインを口に運びながら考えるが、喉元に渋みが広がるだけで、明確な答えは見つからなかった。

「ところでだ、圭介。例の遊田の経歴の件、サファイアの後輩からもらってきたぞ」

 重い場の空気を変えるようにヒロが切り出す。先日、ヒロに調査を依頼していた遊田の経歴情報がもう分かったらしい。

「本当か⁉︎」

 圭介の目に輝きが戻る。

「結構苦労したんだからな。今日は奢れよ」

 ヒロはニッと笑う。それからグイと体を丸机に傾けて、声を絞って説明し始める。

「遊田について、何点か面白いことが分かったぞ」

 机上の中心に首を伸ばしヒロは声を絞る。

「まず、遊田・クリスティーン・江麻というイカした名前になったのはごく最近だ。元々の名前は、田村江麻たむら・えまだ」

「タムラ……エマか」

 圭介は舌の上で転がすように繰り返す。

 ヒロは一枚の紙を机上に出していた。経歴調査をまとめた紙だ。

「田村江麻って、至って普通の名前だな」

 カメカンの一言には圭介も同意見だった。

「ああ。生まれは長崎だ。熱心なカトリック教徒の家に生まれて『クリスティーン』というミドルネームは幼少期から持っていたらしい。もっとも使い始めたのは最近らしいが」

 ──「遊田・クリスティーン・江麻」で検索しても過去記事が出ないはずだ。

 圭介は苦笑する。

「田村江麻は大学進学を機に上京。その後のキャリアには、俺も驚いちまったよ。なんと、十年前、旧・東都経済新聞社に入社したんだからよぉ」

「ウチに遊田がいた⁉︎」

 圭介の声が上擦る。

「ああ、一二年に新卒で東経に入社している。だが、何故か分からんが一年で辞めている」

 ヒロは机上の紙の経歴欄をコツコツと指しながら明かす。

「一年で……退職か」

 ──そこにはどんな物語があったのか?

「その後は東北タイムスに転職している」

 東北タイムスは仙台に本社があるブロック紙だ。

「一七年には、その東北タイムスも辞めた。辞めた理由は独立行政法人勤務の夫が、カナダのトロントに転勤するため着いて行ったらしい。二一年に日本に帰国後、ウィレットに転職している」

「何とまぁ、華やかなご経歴なこと」

 カメカンは興味なさそうに呟く。

 謎の女でしかなかった遊田の輪郭が、ぼんやりとだが見えてきた。

 圭介はスマホを取り出すと〈田村江麻〉で過去記事を検索してみる。東経時代に書いた計二十二の署名記事がヒットした。

 新人、しかも一年しかいなかったことを加味すると上出来だ。

 ──んっ?

 その時、圭介はスマホを操作していた親指を止める。田村の署名記事の中によく知っている人物の名前を確認したからだ。

 さらに調べる。田村とその人物の連名の署名記事は実に十八件もあった。

 ──まさか……?

 ある可能性が圭介の脳内で線香花火のようにチリチリと迸る。

「そういや、圭介、遊田の出身大学の白桜女子大にこの間、行ったって言っていたよな」

 ヒロは紙の経歴欄を指し示していた。

 確かに遊田の経歴書には白桜女子大との記載があった。

 まさかの可能性に鼻の付け根の皺が寄る 

 圭介はスマホを取り出す。

 〈白桜女子大 田村江麻〉で検索をかける。

 何個かヒットした。検索に並んだリンク先をまるでドアを蹴破るように、一つ一つクリックしていく。とあるページで、圭介の動きが止まった。

〈今日はゼミの先生の退職記念パーティーでした〉

 それは有名なSNSへの投稿でパーティーの記念写真が複数掲載されていた。

 投稿者は知らない人物だった。

 さすが女子大である。中央で花束を持つ七十代くらいの男性教授を囲むように、三十人ほどの女性が笑顔で写真に映っていた。何人かの顔はほんのり赤く、写真からもパーティーの盛況ぶりが伝わってきた。

 写真を軽くタップしてみる。教授の近くで笑みを浮かべる女には〈田村江麻〉のタグが付けられている。間違いなく遊田本人だ。

 ──んっ?

 何となしに写真を見ていた圭介は違和感を覚える。視線がぐるりと浮遊して、違和感の正体に行き当たる。

 遊田の左隣に映る女性に圭介は目を奪われていた。毎日のように会話している。震える手で、写真を軽くタップし名前を確認する。

〈小宮山翔子〉

 ──どうして、コミショウが遊田と並んで映っているんだ?

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