第九章 本当のユダ(1)

 六月初旬。曇り空は今にも泣き出しそうだった。平日ということもあり、都内郊外にあるこの大病院の庭園も人はまばらだ。

 圭介はこちらに向かってくる車椅子の男の顔を視認すると声をかける。

「誠さん、お久しぶりです。毎経の深堀です」

 その瞬間、誠の虚な目が開く。車椅子を押していたのは、何度か会った誠の妻だった。

 誠からは最初に会った際の溢れるようなバイタリティを感じない。頬はこけて、大分痩せた。うねりのある前髪も何だか荒んだ心情を映しているようだった。病院着も相まって、凄く小さく見えた。

 罵声の一つでも浴びせられる覚悟でここに来たが、誠は口の端を上げる。それから乾いた唇の間から「ふっ」という空気だか、言葉だか分からないものを吐き出して言った。

「良くここが分かりましたね」

 先月、誠が救急搬送されたのは埼玉県の病院だった。その後、系列である都内の病院に転院していた。

 その情報をくれたのは大川内だった。

「一言、どうしてもお詫びしたくて、伺わせていただきました。本当に申し訳ございませんでした」

 圭介は踵を揃えて、誠に深々と頭を下げた。

「誠さんのことを何も知らず、私は魔法の粉の件についても、あのような発言を……」

 そこまで言った時、圭介の頭上で言葉が交錯する。

「少し話をしたい。深堀さんと二人にしてもらえないだろうか」

 そんな話を誠が妻にしていた。

 妻は両手を前で組み、一度、深く頭を下げると、その場を辞去した。

 庭園内のベンチに誠と座る。近くには木々が生い茂り、晴天なら、木陰と柔らかい風で心地よいだろう。

 しかし、圭介の視界には心情をそのまま映したような曇天が広がっていた。

 何から話そうかを悩んだ末、圭介は直球ストレートで切り出す。

「誠さん……。あなたは麦アレルギーだったんですね」

 誠から返答はない。正面を見つめたまま押し黙っていた。

「しかもアナフィラキシーショックを伴うかなり重度のアレルギーですね?」

 圭介は目を閉じる。脳内では先日、面会した大川内の話が蘇っていた。

『二年半前、誠君のシャインへの入社を記念して、私と龍、誠君の三人でささやかな酒席を設けたんだ。会は和やかに進んだ。三人とも適度な酔いに浸り、私は帝国ビバの厳選モルトウイスキーのボトルを開けた。『百%大麦麦芽の濃厚な味を堪能してほしい』との想いから、二人にストレートで振る舞った。だが……誠君は飲んでから、すぐに倒れた。激しい痙攣を起こして意識を失った。救急搬送されたんだ』

 圭介は目を開き、話を再開する。

「入社した二年半前、誠さんは酒席で倒れましたね? その後、病院での精密検査で明らかになったのは、突然変異型の重度の麦アレルギー。結果、誠さんは麦関連の食品の全てを口に入れることができなくなりました」

 それは皮肉という他なかった。

「パンは小麦が主原料です。麦を食べられないということは、パンも食べることができない。実際、あなたは米粉など小麦以外の原料のパンしか食べませんでした」

 パン企業の社員として、それがどんなに苦しいことか。

「思い返せば、初めてウチの本社でお会いした際、誠さんは会議室に用意されていた麦茶のペットボトルを見るなり顔色を変えました。『私は水が飲みたい』と発言して、四野宮さんに水を買わせに行きました」

 あの時はワガママな御曹司にしか思えなかった。が、誠は麦茶を飲めなかったのだ。

「私が新宿で尾行した際も誠さんは麦が原料のお酒を一切飲んでいなかった」

 歓楽街のバーに入った誠は、赤ワインを手始めに、その後は度数が五十度はあるアブサンを十杯以上ストレートで飲んでいた。

「誠さんは、酒席ではビールやウィスキーなどの麦が含まれる一切を飲まなかったと聞いています」

『社長として、誠君は麦アレルギーであるのを皆には何としても隠したかったのだろう』

 大川内は悲痛な表情で言っていた。

「『魔法の粉』を巡る角谷さんへの対応もそうですね。実際に食べて確かめるように迫った角谷さんの要請を物凄い剣幕で拒否した」

 圭介はグッと奥歯に力を入れる。

『角谷さんは再三に渡って、あなたにパンを食べるよう促した。そうすれば、小麦粉の質が明らかに低下しているのが分かるからです。なのに、あなたは感情のままにパンを食べることを拒否した』

 圭介は数週間前、新宿中央公園で誠をそう非難した。

「あなたの苦悩も知らずに僕は、あんなに酷いことを言ってしまいました」

 圭介は下唇を噛み締める。

 いつ降るかも分からぬ曇天の世界で、しばらく互いに口を開かなかった。 

「笑えるでしょう? パン会社の社長がパンを全く食べられないなんて……」

 誠は自嘲するような笑みでポツリと言った。

「僕の人生、ずっと空回りです」

 真っ直ぐ、曇天の空を見つめたまま、誠は言葉を紡いでいく。

「新卒で入行したのは、わかば銀でした。最初の配属から都内の大きな支店でした。シャイン創業者の息子として、特別扱いされているのは気付いていました。投信など戦略商品の販売ノルマを達成できなくても、誰も僕を詰めませんでした。窓口や外貨取引すら満足に出来ませんでした。なのに僕は飛ばされるどころか、五年目には本店のエリートが集まる経営企画部に栄転しました。どう考えてもおかしいでしょう?」

 口の端を無理やり上げた誠の笑みは悲哀に満ちていた。

「僕と対峙する時、みんな、同僚ではなく、メインバンクであるシャインの御曹司を見る目でした。お客様扱いです。僕にはそれが辛かった。五年前には母も死に僕の心はどんどん荒んでいきました。そんな時、父に『シャインに来ないか?』と誘われたんです」

 誠の顔に光が差す。

「本当に嬉しかったなぁ。『シャインでは皆から認められる存在になる』そんな決意を胸に秘めて、二年半前に入社したのに……」

「その祝いの席で誠さんは倒れてしまったのですね?」

 誠の苦悩を慮るような口調で圭介は問う。

「はい。突然体質が変わり麦アレルギーを発症しました。『アレルギーは一時的な可能性もある』という医者の言葉に、微かな希望を見い出していました。ですが、改善するどころか、どんどん悪化していきました」

 誠は大きく嘆息する。

「それを知った父は当初予定の商品開発部ではなく、店舗開発部に配属部署を変えました。父も私を慮ってのことだったのでしょう。それは分かっていました。でも、会う度にどこか落胆するような父の顔を見るのが辛かった。『このシャインでも僕はダメなのか……』そんな思いに、打ちひしがれました」

 誠の表情の陰が色濃くなる。

「さらに、僕が入社して一年後に、角谷未来さんが商品開発部長に就任しました。僕が行くはずだった商品開発部での飛躍です。角谷さんは数々の人気パンを開発していましたし、順当な人事だと思いました。ですけど、僕は角谷さんにお会いした際、何か違和感を覚えたんです。そうですね。言い表すならば、まるで父と対峙しているような時の感覚です」

 誠は何か恐ろしいものでも見たように、視線を地面に逸らす。

「そしてある日、気付きました。彼女もマムシ指だと。調べると、一万人に一人の割合で生まれて、遺伝が原因の場合が多いと……」

 誠は曇天の空を睨め付ける。

「僕はそれから気付いてしまったんです。父がふとした瞬間に角谷さんに向ける笑みは、一社員ではなく、娘を見るような温かさがあると。僕への同情を含んだ笑みとは違いました。その後、四野宮さんを介して、父が僕に会社を継がせる気が無いと言っていたのを知りました。父に見放された。そう感じるようになりました。そんな時です。父があの航空機事故で急死したのは」

 誠は入院着のズボンをギュッと握る。

「一年前のあの日……。父の遺体の一部として返ってきたのは、黒焦げの……親指でした。ですが、はっきりと形が分かるマムシ指だったんです」

 誠の瞳が大きく揺れる。

「僕は怖かった。父のマムシ指を見た瞬間……父が死してなお、自分に迫ってくるような感覚に襲われた。死の世界から『お前に会社を継がせる気は無い』と語りかけてきたように思えました」

 手も震え出し、体全体に震えは伝播した。

「〈まことみらいをたのむ〉というあのメールを見せられた時、正直、ゾッとしました。『誠、シャインの未来はお前に託すぞ』なんて、父は言うはずがありません。でも、あの時の僕は、都合の良いように解釈するしかありませんでした。だから、シャイン四天王の口車に乗って、僕は昨年六月下旬の総会で、社長に就任する決意を固めました」

 誠は当時の心境そのままに苦衷を滲ませる。

「そんな時です。五月初旬、商品開発部長の角谷さんが突然、私が使っていた社長室にやってきた。対峙した瞬間、戦慄しました。耳や親指に加えて、ふとした表情が父に良く似ていたんです。魔法の粉を食べろと言った角谷さんの真剣な表情は、父そのものでした。僕は怖かった。角谷さんに本社から消えて欲しかった。だから……商品開発部長職を解任して、本社からも追い出しました」

 その左遷先が圭介行きつけのベーカリーカフェーバー・シャインだったのだ。

「角谷さん以外にも、反対する者は社長権限でどんどん解任していきました。気付けば、周りはイエスマンばかり。そのイエスマンでさえ、結局は面従腹背の連中ばかりでした。社長とおだてられて、良いように利用されて、最後は全ての会計不祥事の責任を押し付けられて、お払い箱です。いまや父が与えてくれた株式さえ失おうとしている。結局のところ、星崎さんの行動は正しかったんですよ。僕はありもしない東南アジアでの冷凍パン事業の強化策を打ち出したり、社長としての資質に欠けていた。何一つ見抜けなかったんだから、解任されて当然ですよ」

 誠の顔は硬い笑みを浮かべていた。

「だからね、最期に確かめようと思いました。角谷さんが本当に父の娘なのかって。それで、父の故郷である絹笠村に行ってみました」

 『最期』という言葉に圭介は顔をしかめる。

「父の高校担任だったというおばあさんから卒業写真を見せてもらいました。そして、父が水沢佳子さんという女性と駆け落ち同然で村を飛び出したのだと明かされました。が、父は村の有力者の娘である母、越山清美と結婚した。村人の中には『あれは望まない結婚で本当に可哀想だった』と同情する人もいました。僕がまさか、その望まない結婚で生まれた望まない子であるとも知らずに……」

 誠の声が震え出した。

「僕は……父の望んでいた未来を奪った越山家の末裔だった。そんなことを考え出したら、目の前が真っ暗になって……」

「だからですか?」

 圭介の眉根が寄る。語気が強くなる。

「だから、あなたは自らの命を……」

 グッと拳を握る。その先の言葉は言えなかった。傍の誠は肩を震わせていた。

「あなたは重度の麦アレルギーだ。ビール缶を数本でも飲めば意識を失う。しかも、川辺で飲めば、倒れた後、確実に溺れる」

 そうなのだ。酒豪の誠が数本のビールで泥酔するはずがない。誠が搬送されたというニュースを見た時から胸にあった違和感の正体はそれだった。

 つまり、誠があの場所でビールを飲んだ本当の理由は──。

「僕は……本当は生まれてきちゃいけない人間だった」

 ──違う。

「父に愛されていなかったんだ」

 ──違う!

「だから……」

「違う‼︎」

 圭介は腹の底から叫んでいた。曇天を切り裂くような声量だった。庭園を散歩していた何人かが、圭介の方を見やる。

 そんなことも構わず圭介は声を張る。

「龍造さんはあなたを愛していた! この上ないほどに……あなたのことを想っていたんですよ!」

 最後の方は声が震える。それから、圭介が懐から取り出したのは、龍造の思いが詰まったとある数枚綴りの紙だった。

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