第八章 旧友(6)

「外堀を埋めた?」

 怪訝な表情で角谷が問う。

「龍が借入していた太平銀行に貸し剥がしをさせようとしたんだ」

「貸し剥がし⁉︎」

 思わず叫んだのは圭介だった。

 ──そんなことできるのか?

「FC事業の開始に当たって、相応の銀行借入をしていた。太平銀は佳子ちゃんが作った事業計画に深く共感してくれてね。それで支店長決済で全額融資してくれたんだ」

 内容とは裏腹に、大川内の表情は冴えない。

「龍吉さんは村長という事もあり、政治家とも深いパイプがあった。懇意にしていた埼玉県選出の代議士が、旧友である太平銀の創業家に貸し剥がしするよう働きかけたんだ」

「そんなの……弱い者いじめじゃないか」

 圭介の内心が棘のある言葉となって出る。

「二十四歳の龍は、このピンチを打開しようと奔走した。太平銀の代わりとなるメインバンクを探した。しかし……」

 大川内の瞳が白く濁る。

 メインバンクの変更を画策すれば、他行は「何かあったのでは?」と当然、警戒する。手を差し伸べる銀行は皆無だろう。

「龍は悩んだ。違う土地に逃げて、一から佳子ちゃんとやり直そうとも考えた。が、どこまでも龍吉さんは追ってくるだろう。そもそも借金を背負った自分はやり直すことができるのか? 当時の龍は悩み、やつれていった。時間だけが流れた。そして、そんなある日、佳子ちゃんが消えたんだ」

 物語は悲話へと一気に傾いていく。

「『佳子が置き手紙を残して、いなくなった』と、狼狽した龍から電話があった。置き手紙には『どうか越山さんとの縁談を進めてください。モグモグの成長を陰ながら応援しています。私を探さないでください』というような事が書かれていたらしい」

 自己犠牲によって龍造を救おうとしたのは明らかだ。

「佳子ちゃんは抜かりなかった。龍吉さんにも自身が龍と別れた旨の手紙を送った。その結果、越山清美さんとの縁談は円滑に進み、二十五歳の時、龍は結婚した。その対価として、太平銀の貸し剥がしはなくなった。知っての通り、その後、太平銀は合併を繰り返して、今ではわかば銀となっている」

 圭介と角谷の顔には、驚きがベッタリと張り付いていた。

「『俺はモグモグを続けたかったんじゃない。佳子と一緒にいたかっただけなんだ』あの時、私に泣きながら放った言葉は今も忘れられぬ。それからだ。龍が取り憑かれるように仕事に没頭したのは。FC加盟店を探すため全国を行脚した。しかし、もしかすると消えた佳子ちゃんをずっと探していたのかもしれんな」

 旧友でありながら、龍造を救えなかったことへの後悔の念が、大川内の表情の多くを占めていた。

「意外に思うかもしれんが、政略結婚だった清美さんとの夫婦生活はうまくいっていたんだ。清美さん自身、申し訳なさを常に感じていたと思う。家の都合によって運命を決められたという点では、彼女も被害者だったからね。龍もその苦悩を理解していた」

「あの……その清美さんが、つまりは誠さんのお母様だったんですか?」

 角谷が恐る恐ると言った感じで問う。

 回答までしばしの時間を要した。

「そうだ。龍と清美さんの間に生まれたのが誠君だ」

 やはり、角谷と誠は腹違いの姉弟だった。

「待望の長男誕生。『いつか会社を継がせたい』と漏らすほど誠君を溺愛していた」

 ──あれ? 『誠にシャインを継がせる気はない』と漏らしていたはずでは?

「誠君が生まれた翌年、モグモグは飛躍する。龍はモグモグの運営会社をシャインベーカリーという名称に変えて、株式上場を果たした。FC事業は順調に拡大し、加盟店は全国に広がった。しかし、十年ほど前、ふらりと焼津のパン屋を訪れた事が龍の運命を変えた」

 大川内は角谷に目をやった。

「海辺の街で、佳子ちゃんの生き写しのような未来ちゃんに会った。彼はあの夜、泣きながら私に電話をしてきた。『佳子は既に亡くなっていた。だけど焼津に娘がいたんだ。彼女は間違いなく俺の娘だ』そう言って誓った。『今度こそ守る』ってね」

 角谷が圭介に明かした話に、大川内が新たな事実をまぶしていく。

「五年前、清美さんが膵臓癌で亡くなった。そのタイミングで、龍は佳子ちゃんとの夢を果たすように海外事業を始めた。三年前には未来ちゃんをシャインに入社させ、半年後には誠君も入社させた。輝かしい未来に向けて、全てが順調に見えていたが……」

 一難去って、また一難である。

「マニラの会社を巨額買収したことで業績が急速に悪化したんだ。会社の傾きに呼応するようにシャイン生え抜き派との軋轢も生じ始めた。資金を借り入れたメインバンクのわかば銀の鴨崎頭取の発言も強まっていき、龍は対応に苦慮していた」

 ──対応に苦慮?

 それはワンマン経営者たる、輝川龍造の像とかなりかけ離れていた。

「だから一計を案じた。まず保有していたシャイン株の一部を信頼できる企業再生ファンドに売却したんだ。そう。それが東洋キャピタルだ。さらに二年前には我ら社外取四人衆を招いた。外部の目を活用したんだ」

 まさに圭介が知りたいと渇望したシャインで何が起きていたかという話だった。

「議論は活発になった。特に海外事業を巡りシャインは二分された。『海外事業を存続すべき』と主張する生え抜き派と『清算も検討すべき』と訴える社外役員の間で、意見が真っ向から対立したんだ。最終的に龍は海外事業の実態を確かめるため、マニラに抜き打ち視察に出かけた。そして、その帰路で……」

 大川内はスッと目を閉じる。への字に閉じられた口元には悔恨の念が滲んでいた。

 クラシック音楽もコーヒーも安らぎを与えてくれない。圭介は意を決して尋ねる。

「龍造氏は墜落直前の機内から〈まことみらいをたのむ〉と取締役宛てにメールを送っていますね?」

 その瞬間、大川内の閉じられていた目がカッと見開かれる。三白眼の圧に屈しそうになりながらも圭介は続ける。

「『龍の遺志は確かに受け取った』と、あなたが発言されていたとの証言も得ています。一体、龍造氏はあのメッセージで何を伝えたかったのでしょう?」

 大川内はギュッと口を結ぶ。再び目を閉じ、独特の間を挟んでからゆっくりと言葉を紡ぐ。

「『誠、シャインの未来はお前に託すぞ』と生え抜き派の連中は言っているらしいな。だが、それは全く違う」

 暗号めいたあのメッセージの真相を大川内は知っている。圭介は確信する。

「揺れる機内で、龍は本当はこう打ちたかったんだ。『まこととみらいをたのむ』と」

 大川内の視線は角谷の方に向いていた。正確には角谷が膝に置いた手だ。

「未来ちゃん、君の親指もマムシ指だね。スマホで文字入力する際、トグル入力を使っているんじゃないか?」

 ──いきなり何を尋ねる?

 圭介は会話の成り行きを横から傍観する。

「トグル入力?」

 案の定、角谷は「トグル入力」が何か分からず首を傾げた。

 一般的とされる「フリック入力」は、キーを押してスワイプで文字入力する方法だ。

 一方、「トグル入力」とはキーを何度もタップして文字入力する方法らしい。

 大川内は実演しながら解説した。

「そうです。私、親指が人よりも短いので、キーをスワイプしても届かないんですよ。だから、その『トグル入力』と言うんですか? キーをタップして文字入力しています」

 角谷は苦笑いを浮かべつつ返す。

 確かに珍しい打ち方をすると、圭介もずっと思っていた。

「知っての通り、龍もマムシ指だった。そして、実はトグル入力で文字を打っていた」

「龍造さんも?」

 角谷は目を見開く。

 が、驚きはすぐに疑問へと変質する。圭介も角谷と同じ疑問を胸に抱いていた。

 ──トグル入力が、あの謎めいたメッセージとどう繋がる?

「ここからは、あくまでも私の想像だ」

 そう前置きした上で、大川内は続ける。

「さっきも言ったように、龍は本当は『まこととみらいをたのむ』と打ちたかった。トグル入力の場合、『た』を五回押して、『と』を打つ。さらに続けて『と』を打つには、一定時間待たなくてはならない。だが、ジェットコースターのように揺れる機内の中で、二回連続で『と』を打つのは、かなり難しかったんじゃないだろうか? おそらく龍は、うまく打てず『まことみらいをたのむ』と文字を紡ぐのが精一杯だった」

 圭介は驚きのあまり言葉を失う。

 網膜には激しく揺れる墜落直前の機内で、龍造が必死に文字を紡ぐ姿が浮かんでいた。

「『まこととみらいをたのむ』のひらがなを変換すれば、分かるね? 『誠と未来みきを頼む』となる」

「誠と未来を頼む……」

 角谷は繰り返すが、その意味までは浸透してこないらしい。現に大川内に問うような眼差しを向けていた。

「このメッセージは、取締役、いや私に向けて、『誠と未来を頼む』と託したんだ。実は龍はあの事故の数日前、私に言っていた。『誠にシャインを継がせる気はない』と」

 ──大川内さんにも言っていた?

「『本当は未来と手を取り合い、シャインを発展させて欲しかったが、あいつには無理だ』と。『大政奉還したい』と」

「大政奉還?」

「そうだ。さっきも説明したように、パン屋も、FCビジネスも佳子ちゃんの考案だったんだ。『元々は全て佳子が作ったものだ。だから大政奉還したい。未来ならきっと、佳子の作りたかった世界の続きを見せてくれる』と、笑っていたよ」

「だから取締役候補に……私は選ばれた?」

 そう問うた角谷は、全然嬉しそうではなかった。

「星崎社長も龍のメッセージの真意に気付いた。龍の遺志を尊重すべく汚れ役を買って出て、自ら社長になった。全てはシャインの次世代を担う後継者に安全にバトンを渡すためだったんだ」

 どうか理解してほしい──。そんな思いが滲んだ口調だった。

「私……分かりません」

 明らかに角谷は動揺していた。顔には困惑がべったりと張り付いたままだ。

「だったら、何で星崎社長は誠さんを……排除したんです?」

 角谷の語気が強くなる。

 大川内はゆっくり首を横に振った。

「それは違う。排除したんじゃない。龍の遺志を尊重し、星崎社長は誠君を救ったんだ」

「社長の座から引きづり下ろすことが救うことだっていうんですか⁉︎ そのせいで……そのせいで誠さんは苦しんで、あんなことに……」

「全ては誠君のためを思ってのことだったんだ。どうか理解して欲しい」

 大川内には似合わぬ懊悩ぶりだった。

「実は誠君は……」

 それから明かした誠の秘密に、圭介と角谷の顎が落ちる。ともに口をあんぐりと開けたまま、しばし呆然としていた。

 誠と接する度に抱いていた違和感──。圭介の中にあった消化しきれなかった無数の点は今、実線となって全て繋がった。

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