第八章 旧友(5)

 都内有数の高級ホテルの全面ガラスを小糠雨こぬかあめが濡らしていた。

「未来ちゃん、久しぶりだね」

 土曜日の午後二時過ぎ。二階のカクテル&ティーラウンジで先に待っていた大川内は、角谷の来訪を視認するなり、片手を上げて目尻を下げる。

 しかし、角谷の後方の男、圭介の姿を確認した瞬間、表情が険しくなった。

「お前は……」

 眉根が上がる。特徴的な三白眼が獲物に照準を合わせるように圭介を射た。

 ここ数日、圭介は都内の大川内のヤサを訪ねていた。

 だが、大川内の拒絶は想像以上だった。全身から蒸気を出すような怒りで、名刺すらもらってくれなかった。

「大川内さん、申し訳ありません。今日の話には深堀さんが不可欠でして、私が同席をお願いしたんです」

 場の空気を察した角谷が慌てて仲裁に入る。

 大川内との件は、あらかじめ説明していた。が、両者の不和が予想以上だったようで角谷の表情は強張っていた。

「担当は米山さんのはずだがね」

 大川内は大きく嘆息する。

 仕方ないと言った感じで、圭介の同席を認めたものの納得した様子はなかった。

「今日はシャインの社外取ではなく、輝川龍造さんの旧友としてお話を窺いたく、ここに来ました」

 それから圭介は簡潔に補足する。

 ・四月からシャイン担当になったこと。

 ・一年前の社外取の四人のうち、星崎や黒須、榎本の三人には既に会っていること。

 ・絹笠村を訪ねて、元木ツネという高校担任に話を聞いたこと。

「角谷さんや誠さんのことを暴いて、面白おかしく書き立てるような真似はしません」

 そう強調したものの、大川内の表情は変わらない。

 ──やはり、あの件での怒りは相当らしい。

 「私が話を進めますね」と角谷が目配せしてくる。圭介は軽く頷く。

「メールでもお伝えしましたが、母の件で、大川内さんにお聞きしたい事があります。これ、深堀さんにいただいた高校の卒業写真なんですけどね……」

 アームチェア越しに、大川内にスマホ画面を見せる。

「ここには、龍造さんと大川内さん、そして……私の母、佳子が写っています。私、お二人が旧友だったなんて……母と接点があったなんて、知りませんでした」

 やれやれと言った表情で大川内は大きく嘆息する。

「未来ちゃん、黙っていて悪かったね。僕と龍、佳子ちゃんは、同じ絹笠村の出身だ」

 「未来ちゃん」という呼称が、大川内と角谷の親密さを物語っていた。

 角谷の事前情報によると、商品開発部長の時から、大川内は何かと目をかけてくれていたのだという。だから、社外取と一介の社員との関係にもかかわらず、定期的に連絡を取り合う仲だったのだという。

「私はずっと母・佳子から、父は死んだと聞かされていました。でも……」

 角谷は続く言葉を紡ぐ事ができない。

 ホテル内のクラシック音楽の旋律が、張り詰めたこの場を何とか繋いでいた。

 それから大川内は意を決するように明かす。

「そうだ。未来ちゃんの父親は龍だ」

 角谷は嬉しさと悲しさがない交ぜになったような表情だった。

「いつかは話さないとダメだと思っていた」

 大川内は何でもない虚空を見つめる。

 それから龍造と佳子の駆け落ち後の知られざる物語をゆっくり語り始めた。

「絹笠を出た後、龍と佳子ちゃんが最終的に辿り着いたのは、静岡の沼津だった」

「沼津⁉︎」

 角谷は意外だったようで目を見開く。

 和歌山で過ごした後、角谷自身も同じ静岡県に移住し、焼津でパン屋を開いている。

「二人とも埼玉の山奥で十八年間生きてきたからね。漠然と海への憧れがあったのかもしれない。とにかく沼津で暮らし始めたんだ」

 その後の二人の幸せを示唆するように、大川内の口元も緩む。

「ほとんど貯金もなかった。龍の奴、実は最初はパン屋を開く考えはこれっぽっちもなかった。沼津の自動車部品工場で働きながら、今後をどうするかを模索していたほどだ」

 意外だった。輝川龍造と言えば、「パンを作るために生まれてきた」として、外食業界では今も神様のように崇められる存在である。

「きっかけは、佳子ちゃんさ。彼女は当時、沼津の小さなパン屋でバイトをしていたんだ。それである日、佳子ちゃんが自宅でパンを焼いて、龍に食べさせたらしい。龍はその味に痛く感動してね。虜になってしまったんだ」

 大川内は呆れを多分に含んだ笑みを浮かべていた。

「ちょうど、その頃、佳子ちゃんが働いていたそのパン屋の後継者がいなくてね。経営していた老夫婦は廃業を決めた。それを聞いた龍の決断は早かった。老夫婦に頭を下げて、パン屋をそのまま譲ってもらったらしい。こうして十九歳の時、沼津の海辺で、二人は手作りパン工房『モグモグ』を開いたんだ」

 実は佳子の影響でパン屋を始めた。その事実は圭介にとっても意外だった。

「私はその頃、都内の大学に進学していた。龍とは密かに連絡を取っていたから、何度か店を訪れたよ。手作りパン工房という名前がピッタリな本当に良い店だった。眼前には駿河湾が広がり、晴れた日には富士山や南アルプスも望めたんだ」

 大川内は懐かしむように遠い目をする。その瞳にはおそらく、当時の光景が映っている。

「モグモグを開いた初日。夕日が映える大海原を見つめながら、佳子ちゃんは言ったらしい。『いつか、この海の向こうの人達にも私達のパンを食べてほしいな』ってね」

 その言葉で圭介は何となく察する。なぜシャインは東南アジアで冷凍パン事業を展開したのかを。

「さらにね、当時、大手ハンバーガチェーンが日本に進出して、フランチャイズ(FC)経営が注目を集めた時期でね。『パンでもFC経営を出来たら面白いね』って、佳子ちゃんが言い出したらしいんだ」

「FC経営を……母が言い出した?」

「うん。佳子ちゃんには、パンを作る才能だけでなく、経営の才能もあった。今でいうベンチャー起業家のようにビジネスの芽を探すのが本当にうまかった。佳子ちゃんの意見をベースにして、事業計画を作成した。少ないFC加盟金で、ベーカリーを経営できる今のシャインのFC制度は、佳子ちゃんが考案したものだったんだ」

 予想外の話の展開に、圭介は佳子の面影を色濃く残す角谷の顔を見つめていた。

「だが……運命は皮肉だよ」

 大川内は表情を曇らせる。

「沼津にモグモグを開いて五年目。既に法人化もして、FCも五店まで増やし事業は軌道に乗っていた。そんな最中、噂を聞きつけた龍の父、龍吉たつきちさんが店にやってきたんだ。龍が駆け落ち同然に絹笠を出て行ってから、ずっと行方を追っていたらしい。わざわざ、形だけのお見合い写真を持参して、越山清美こしやま・きよみさんと結婚するように迫った」

「コシヤマ……キヨミ?」

 新たな人物の登場に角谷は首を傾げる。圭介も動揺だった。

 大川内は角谷のスマホ画面に視線を戻す。

「実は先ほどの写真に、清美さんも写っているんだ。一番右端だ」

 圭介も慌てて、自分のスマホで写真を確認する。確かに右端には女が写っていた。水沢佳子ほどではないが、彼女も整った顔立ちをしていた。

「越山家は絹笠でも由緒正しき家系でね。彼女の父上は後に農協長になるほどの人物だった。龍吉さんに限らず、絹笠の人間は家柄を非常に気にするんだ。『結婚とは家同士の結びつき』との信仰が当時も強かった。だから、いくら絹笠を出て行ったと言っても、輝川家の一人息子である龍が、勝手に佳子ちゃんと結婚するのを龍吉さんは許さなかった」

「あの……ウチの母は、そんなにも低い身分の家だったんでしょうか?」

 恐る恐ると言った感じで問うた角谷に、慌てて大川内は否定する。

「とんでもない。決して低い身分ではない。俺は佳子ちゃんは龍に相応しいと思っていた。ただ、江戸時代まで遡るとね、輝川家も越山家も武士の階級だった。士農工商の昔ながらの階級同士が一緒になるのが当然という暗黙のルールが、あの村にはあったからね……」

 圭介は先日訪れた絹笠村の光景を思い出す。棚田や茅葺き屋根の家々など古き良き日本を体現するような田舎だった。が、確かに他者を寄せ付けぬような古さも感じた。

「龍吉さんは、清美さんとの結納の日取りまで決めていた。わざと、佳子さんのいる前で、父親がそんな話を切り出したことに、龍は憤慨していた。当然、龍は拒んださ。そういう古い考えが嫌で仕方なくて、故郷を飛び出したんだしね」

 そこで大川内は唇を噛み締める。

「だが、龍吉さんの方が一枚上手だった。まさか、あんな方法で外堀を埋めてくるとは」

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