第八章 旧友(4)

 圭介が絹笠村を訪れた日の夕方。星崎社長率いるシャインが動いた。来る六月の定時株主総会に向けて、会社側の取締役候補案を適時開示したのだ。

 未だ決算も発表できていない。その中で、会社独自の取締役候補の発表は「何としても、総会前に決算は発表する」という星崎の市場への意思表示と言えた。

 取締役九人のうち、星崎以外の八人が全て新任だった。

 わかば銀の鴨崎頭取やシャイン四天王の名前はない。圭介には、それが歩み寄ろうと近付いて来た旧創業家側への答えに感じられた。

 取締役候補は、星崎を含む東洋キャピタル出身の四人に加えて、新たな社外取締役四人に豊洲銀行副頭取のピーター・ベルナルドらを迎えるという盤石の布陣だった。

 しかし、一際、圭介の目を引いたのは、第五位の取締役候補の名前である。


 ⑤新任・角谷未来かどや・みき・取締役(四十一歳)→シャイン出身(商品開発部長)

 ※カッコ内は取締役承認後の役職。


「角谷さん、取締役候補への選出おめでとうございます。これで商品開発部長に復帰できるメドが立ちましたね」

 絹笠村を訪れた翌日。圭介はベーカリーカフェバー・シャイン近くの遊歩道のベンチで、ちょうどやって来た角谷を祝福する。

「ありがとう」

 が、言葉とは裏腹に角谷の表情は冴えない。

「事前に星崎さんから打診もなかったし、私も昨日の開示で初めて知ったから……」

 サプライズ人事は、角谷自身、全く予期していなかったものらしい。

「すみません、お忙しいのに、また、ここに呼び出してしまって」

「ううん。最近、深堀さんが来てくれていないから店も閑古鳥が鳴いているわ。こうやって店主がサボる時間があるほどにね」

 何とか笑みを作ったものの、角谷の声にはいつもの張りがなかった。

「電話でもお伝えしたように、今日はどうしてもお聞きしたいことがあって」

 圭介の言葉に角谷は頷き、話の先を促す。

「前回、角谷さんには、この場所で『魔法の粉』の秘密を教えてもらいました。その時、シャイン入社前は、静岡の焼津で小さなパン屋を経営していたとおっしゃっていましたよね。お聞きしたいのはそれ以前のお話です」

「それ以前?」

 角谷は首を傾げる。

 圭介は一度頷いてからスマホを取り出す。それから、昨日、ツネの家でスマホで撮影した白黒写真を見せた。

「これは今から四十年以上前、埼玉県立絹笠高校の卒業記念の写真です。ほら、ここに龍造さんと大川内さんが写っています。ですが、僕が目を奪われたのは……この方です」

 圭介は写真をズームする。

 直毛の髪が肩のところで切り揃えられている。当時で言う「おかっぱ」、今で言えば、「ボブ」に近い。さらに意志の強さを感じさせるくっきり二重と整った鼻梁も特徴的だ。

 圭介はその女性を知っている。いや、今、すぐ近くにいた。

「角谷さん、ここにあなたにそっくりな女性が写っているんですよ。当時の担任である元木さんによれば、この女性は水沢佳子さんという方だそうです」

「ミズサワ……カコ」

 角谷は目を見開き、その名前をかろうじて繰り返す。そのまま硬直した。

「龍造さんと佳子さんの二人は、この写真が撮られた夜、駆け落ち同然で絹笠村を出て行ったそうです。その後の消息は不明です。数十年後、龍造さんはシャインの社長として、故郷に知れ渡るほどの有名人になりました。一方、この佳子さんのその後は、村の誰も知りませんでした」

 角谷は静止したままだ。小刻みに瞳だけが揺れていた。

「水沢……佳子……は、私の母です」

 数秒の間を挟んでようやく言葉を発する。喉元で引っかかった言葉を無理やり絞り出すようだった。

 ──やはりそうだった。

「お母様は今、どこに?」

 角谷は唇を噛み締めて、ゆっくり頭を振る。

「二十年ほど前、乳がんで死にました」

 無念さを思い出すような表情だった。

 それから角谷は、何度か深呼吸をした。沈みゆく夕陽を見つめながら、自らの物語を話し始めた。

「私には物心ついた時から、父がいませんでした。一人っ子でしたし、寂しい思いもしましたよ。でも、いつも近くには母がいました。和歌山の海辺の街で、母は小さなパン屋を営んでいて、焼きたてのパンを私にくれました。本当にあの時は幸せだったなぁ」

 幼少期の幸せを噛み締めるように、角谷は目を細める。

「ほら、この間、深堀さんが食べていたミソパンあるでしょ? あれは、和歌山の金山寺味噌をふんだんに使っているんだけど、実は母が考案したパンなの」

 もっちりとした生地の食感の中で、甘いタレと濃厚な味噌が融合し、美味だった。

 ──あれは角谷さんの母の味だったのか。

「母の作るパンが本当に好きだった。母の背中を見ながら、私も将来はパン屋さんになりたいと思っていた。でも……」

 物語は悲劇へと転回していく。

「私が高校三年の春、母に乳がんが見つかった。末期で、もう手の施しようがなかった。そこからはあっという間だった。母はどんどん痩せ細っていって、その秋にあっけなくこの世を去った。母の生き甲斐だったパン屋も無くなり、私は一人になってしまった」

 圭介はベンチ横の角谷の表情をうかがう。夕陽に照らされた表情は哀愁をまとっていた。

「だけど、パン屋になりたいって、夢だけは諦めなかった。奨学金制度で、静岡の焼津にあったパンの専門学校に通った。そこで今の旦那と出会って学生結婚。母と同じように海辺の街で、小さなパン屋を開いたの」

 圭介が以前聞いた物語へと連結していく。

「そして数年後、龍造さんがふらりと焼津の店に現れたんですね?」

 角谷は深く頷く。

 前回の話によれば、龍造は複数のパンを購入した。それから、海が一望できる店のイートインスペースで一人で黙々と食べ、終いには、泣き始めたとのことだった。

 前回はパンのことになると熱くなる龍造という男の人情味あふれたエピソードの一つとして聞いていた。

 が、今は違う物語が見えてくる。

「あの、角谷さん。先ほど、物心がついた時から、お父様がいらっしゃらないとおっしゃっていました。もしかして、あなたのお父様は龍造さんではないでしょうか?」

 角谷に驚きはない。

「私が……龍造さんの娘だった?」

 話の展開から角谷も予期していたのだろう。

「だって角谷さん、龍造さんにも似ている部分がたくさんありますもん」

 圭介はまず角谷の耳に視線を移す。隅田川の対岸から吹く湿っぽい風が角谷のボブをなびかせ、特徴的な福耳を露わにしていた。

『圭ちゃん、初めて会う人は顔より耳を見た方が良いよ』

 翠玲のあの言葉が、こんな時にも役に立つ。

「いくつか龍造さんの写真を拝見しました。角谷さんの福耳はそっくりなんです。それに、似ているのは耳だけではありません」

 圭介はスマホを操作して、別の画像を示す。

 そこには親指が映っていた。

「これは、シャインの試食会の際の龍造さんの写真を拡大したものです。画面いっぱいに映っている親指は、龍造さんのものです」

 そう言って、角谷の眼前に画面を掲げる。

「見ての通り、親指の爪の形が特異です。極端に横に大きいんです。これは短肢症たんししょうの一種で、『マムシ指』と呼ばれます。そして角谷さん……あなたもマムシ指ですよね?」

 圭介は膝の上に置かれた角谷の指に目をやった。龍造と全く同じ形をしたマムシ指がそこにはあった。

「マムシ指は一万人に一人の割合で発症するらしいんですが、両親から遺伝する例が非常に多いんだそうです」

「じゃあ、本当に私は……」

 圭介は頷くことができない。なんせ、圭介自身、昨日、その可能性に気付いたばかりなのだ。DNA鑑定をした訳でもない。

 しばしの沈黙を挟んだ後、角谷がハッとするように目を大きくする。

「ちょっと待って。じゃあ、誠さんは私の弟なの? お母さんの子?」

「私もそれは考えました。でも、誠さんと角谷さんは十歳離れているんですよね? それに物心ついた時から、あなたはずっと一人だったと言っていました。少なくともお母様、の子ではないような気がします」

「じゃあ一体……」

 苦悶に満ちた表情で角谷は呻く。

「だからこそ、調べるべきだと思いませんか?」

 圭介はグイと角谷の方に上体を傾ける。

「調べる?」

「はい、お母様と龍造さんが故郷を離れる際に、それを手引きした人物がいます」

 角谷が「あっ」と口を開く。

 圭介はコクリと頷く。

「龍造さんとお母様の幼馴染である大川内さんです。もしかしたら、今回、星崎社長が取締役選任議案であなたを候補として選んだ理由も分かるかもしれません。大川内さんに会いに行きませんか?」

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