第八章 旧友(3)
腰は大きく曲がっているが、歩行はしっかりしている。玄関にて、圭介をまるで孫と久方ぶりに再会したかのような笑みで、出迎えてくれたところだ。
「よく、おいでなすって。さぁさぁ、お上がりなしゃい」
名前だけでなく、細い目も相まって本当に「元キツネ」なのではと圭介は思った。
長瀞から北西。群馬との県境近くに、その
「失礼します」
深々と頭を下げて玄関に入り、上り框に腰を置く。新調したスニーカーは、つま先や踵などの汚れが目立っていた。それが圭介のここ数日間の苦闘の日々を雄弁に語っていた。
先週月曜日、輝川誠が救急搬送されたというニュースに圭介は愕然とした。その後、容体は回復したらしい。
〈泥酔して川遊びをした間抜けな御曹司〉として、面白おかしく書き立てたゴシップ誌もあったが、違和感が胸でくすぶっていた。
新宿で誠が泥酔していた姿と重なったが、すぐにビル群を見上げるあの物悲しい背中にかき消された。
龍造の出身地である長瀞近くで倒れたのも胸で引っかかっていた。
──一体、誠はなぜ長瀞を訪れたのか?
その答えを探すため、翌日から暇を見ては長瀞まで足を運んだ。
「この人を見ませんでしたか?」
誠の顔写真を見せては、探偵さながらに圭介は聞き回った。
が、長瀞は一大観光地である。今の時期は特に人通りが多い。結果、誠の姿を見た者はなかなか見つからなかった。
「私も手伝わせてください」
土日にはコミショウも参戦。すぐにでも川下りやフォレストアドベンチャーに参加できる服装だったが、聞き込みを手伝ってくれた。
それでも、誠の目撃情報は得られなかった。
無情にも時は流れ、日曜日の夕方。気付けば夕日が山々の稜線を茜色に染め上げていた。憎らしげに睨め付けた圭介の鼓膜をコミショウの声が突く。
「圭介さん、私、お腹ペコペコです。腹ごしらえしながら、作戦会議しませんか?」
──三十分前にパフェを食べてなかった?
「デザートは別腹ですから」
圭介の思考を見透かすようにコミショウがニッと笑う。
こうして、やってきたのは豚味噌が名物の人気店だった。
「せっかくの休日を奪ってしまったし、俺がここは奢るよ」
「やったぁ!」
コミショウは子供みたいに喜んで、豚味噌定食の大盛りを注文した。
圭介は普通盛りを注文した。豚の甘みと濃厚な味噌が疲れ果てた圭介の体にも沁みた。
明日月曜日は都内で取材がある。だから、今日中に戻らなければならない。一週間探しても誠がいた理由は分からなかった。
──そろそろ、この遠征取材の旅も終わらせるべきかもしれない。
そんなことを思いつつレジへと向かう。五十代くらいの女店員に形式的にスマホの写真を見せる。
「一週間前、この写真の人を見ませんでしたか?」
諦めつつの問いだったが妙な間ができる。
──おや?
眉がピクリと上がったのは、女がスマホ画面から顔を上げて、圭介の顔をまっすぐ見つめていたからだ。
「あの……失礼ですが、どちら様ですか? 警察関係者ですか?」
──この人、何か知っている。
圭介の勘がそう告げていた。慌てて名刺を差し出す。
しかし、新聞記者の名刺は今の時代、プラチナチケットではない。現に女の眉間に急速に皺が寄る。警戒が広がっただけだった。
「私はゴシップネタを探して、取材しているのではありません。これまで何度も輝川誠さんに取材をしてきました。そんな彼がどうしてこの地を訪れたのか? 倒れていたのか? 私はただ、それが知りたいだけなんです」
言葉に熱がこもる。圭介は頭を下げていた。
「お願いします! 何でも良いから教えてください!」
外に出ていたはずのコミショウまでもが戻ってきて、頭を下げていた。客の何人かが振り向く気配があった。
女店員は言うか言うまいか、しばし思案する。それから根負けするように嘆息した。
「警察の方には報告したんだけどね……」
そんな前置きから始まった説明は、想像以上の内容だった。
・誠は倒れて発見される二時間前に、実はこの店で食事を取っていた。
・覚えていたのは、目が虚で、何となく危うい雰囲気をまとっていたからだという。
・顔写真付きのニュース映像をたまたま見て、客が誠だったと気付いたのだという。
さらに女は最後に驚くべきことを発した。
「彼って、あの輝川龍造さんの息子さんなんですよね。実はね、私も龍造さんが生まれた村の出身なのよ」
「あ、あの、その村って、何て村ですか?」
圭介は慌てて問う。
「絹笠村です」
女店員は場所も含めて丁寧に教えてくれた。
ようやく手がかりを掴んだ。いや、かなりの有力情報と言って良い。
──誠もおそらくは、その絹笠村を訪れたのではないか? とにかく行ってみよう。
明日は取材が入っているから、一度、東京に戻る。翌火曜日に圭介は単身で絹笠村を訪ねることに決めた。
そして今日火曜日の午後、ようやくこの絹笠村にたどり着いた。
地元民の間では現在も「村」と呼ばれているものの、平成の大合併で、実は近隣の市の一部らしい。
百人ほどがこの集落で今も暮らしている。古来日本の趣を残した美しい田舎だが、明らかな限界集落だった。
村人以外の人間は目立つらしい。実際、圭介が青いレンタカーで、村に入った瞬間、村中の視線が集まるのを感じた。
門番の如く、近づいてきた農協の帽子を被った軽トラ男に圭介は尋ねる。
「この人を見ませんでしたか?」
圭介の差し出したスマホを一瞬見た男は笑った。
「知っているも何も龍造さんの息子さんやないか。誠君だったら一週間前にここを尋ねてきた。ツネばぁのところに寄ったって言っていたから、訪ねてみるといいっぺ」
元木ツネなる人物を紹介してくれた。
今までの苦労が嘘のように、あっさりと道が拓けていく。
ということで今、圭介は茶の間にて、元木ツネと向き合っている。
鴨居には遺影がずらりと並ぶ。何だか監視されているようで落ち着かなかった。
出された煎茶を啜りながら、ジャブと言わんばかりに、まず切り出したのは龍造と大川内の昔話だ。
「あのぉ、元木さんは、かつて、輝川龍造さんと大川内稔哉さんの高校の担任とお聞きしたのですが……」
「んだ。もう四十年以上も前のことじゃが、高校三年間、ずーっとワシが担任じゃった。狭い村じゃから、リュウ坊とトシ坊がこんな小さい時から知っちょりますわ」
手のひらを畳から数十センチくらいまで下げて、笑みを浮かべる。
龍造は「リュウ坊」、大川内は「トシ坊」と呼ばれていたらしい。
「リュウ坊は運動、トシ坊は勉強が誰よりも出来てのぉ」
ツネは懐かしむように目を瞑る。
圭介はツネに対して年齢的な不安を感じていたが、受け答えはかなりしっかりしていた。
「東京さ行って、大きな会社作って、我が村の誇り。スターじゃった。なのにリュウ坊は……」
その瞳には圭介同様、太平洋上で大炎上する航空機の残骸が映っているように思えた。
「大変、残念に思っています」
父が急死する苦しみを圭介自身も知っている。だから、心からの哀悼の言葉だった。
しばしの沈黙を挟んで、本題を切り出す。
「それで、あのぉ、龍造さんの御子息の誠さんが先週こちらを訪れたとのことですが」
その瞬間、ツネの顔がパァッと明るくなる。
「そうなんじゃ、そうなんじゃ。若い頃のリュウ坊にそっくりでのぉ。名乗らずとも、ワシにはすぐに分かった」
「あの、誠さんはここに何を聞きに来たのでしょうか?」
「そりゃあ、リュウ坊の若い時のことじゃ。あっ、それとな……ちょっと待っとれ」
そう言って、ツネは茶の間を出ていく。
すぐに戻ってきた。海苔でも入っていたらしいアルミ製の長方形の箱を抱いていた。箱を開けて取り出したのは、白黒の写真数枚だった。
──これは?
目で問うた圭介に、ツネは告げる。
「高校の卒業写真じゃ。卒業当日に校舎の前で撮ったんさぁ。ワシの宝じゃ」
ツネは顔を綻ばせた。
古いが写りは鮮明だった。木造校舎の前で、卒業生と見られる五人が並んでいる。
校長や教頭を挟んで一番端に立つ女性が、どうやらツネのようだ。
「ワシもべっぴんじゃろ?」
ツネの笑い皺が一層深くなる。
「まるで女優のようですね」
圭介も話を合わせて持ち上げる。ツネは美しいというよりも田舎の肝っ玉母ちゃんと言った風貌だった。
龍造も大川内も坊主だが面影がある。肩を組んでピースをして、写真からも二人の仲睦まじい関係がうかがえた。
──んっ⁉︎
その時だった。圭介の眉が鼻梁に寄る。
ある人物に視線を奪われていた。五人の生徒のうちの一人だが、無論、龍造や大川内ではない。それは、圭介もよく知っているある女性だった。
──いや、これは四十年以上前の写真だ。ありえない。
「あの、元木さん、この人って……」
震える手で指し示す。
「あぁ、そりゃあ、カコちゃんさ」
「カコさん?」
「
「リュウ坊のこれじゃい」
ツネはニヤリと笑い、小指を立てた。
「リュウ坊はこの写真を撮ったその日の夜、彼女とこの村を出て行ったんさぁ」
「出て行った?」
「そぉじゃ。リュウ坊の家は、代々、この絹笠の村長になるような由緒正しい厳格な家庭でのぉ。親父さんに、佳子ちゃんとの交際を反対されておったんじゃ。そんで、卒業式のある日の夜、二人は駆け落ち同然で、ここを飛び出して行ったんさぁ」
青春の駆け落ち物語はどんどん進む。なのに、圭介は息が止まり、言葉を返せなかった。
「ここだけの話だけじゃがな、あの夜、リュウ坊と佳子ちゃんを手引きしたのは、トシ坊じゃ。深夜に軽トラさ運転して、二人を街まで運んだんさぁ」
「あ、あの……誠さんもこの写真は見たんですよね」
何とか息を吸って、言葉を喉元から絞り出す。
「そりゃ、そうさぁ。さっきも言ったべなぁ」
ツネはケラケラと笑う。
──だとすれば、誠が川辺で倒れていた理由は、おそらく……。俺はシャインの件でとんでもない勘違いをしていたんだ。
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