第七章 偽りの果てに(4)

「圭ちゃん、ごめんね。今、忙しいのに、こんなことで付き合わせて」

 隣席の翠玲は申し訳なさそうに言う。

「何言っているのさ。翠玲が星崎さんの居場所を教えてくれたおかげで、今も俺は、シャイン担当を続けられているんだから」

 本音だった。だが、診察を前にして、圭介はいつになく緊張していた。

 日曜日午後。圭介は再度、都立総合病院を訪れていた。

「午後に医師から大事な説明があるみたい」

 翠玲のその報告を受けて、急遽、圭介も面談に同席することにした。

 休日午後の病院は、この間、来た夜間とは別世界だった。外科、内科、整形外科、小児科、皮膚科、耳鼻咽喉科、消化器内科、循環器内科、眼科、泌尿器科、心療内科……。診療科ごとに区画されたエリアのロビーチェアに、空席を見つけるのも一苦労だった。

 各診療科の前の大型モニターには受診番号が表示されていて、待ち時間が分かる仕組みだ。呼ばれた患者が診察室に吸い込まれていき、空いた席を新たな患者が埋めていく。

 二十分後。圭介は翠玲と共に診察室に案内されていた。

「常木さんにとっては辛いお話になるわ」

 そこで待っていた高瀬という五十代くらいの女医は前置きする。ここは心療内科の診察室だ。だから、圭介も何となく嫌な予感はしていたのだが……。

「二十四時間のホルター心電図検査と面談の結果を踏まえてなんだけど……常木さんは重度のパニック障害ね」

「パ、パニック障害⁉︎」

 素っ頓狂な声を上げたのは翠玲ではない。圭介の方だった。

 翠玲はむしろ落ち着いていた。自らの運命を受け入れるように静かに頷いていた。

「あの、パニック障害って……?」

 圭介は透かさず尋ねる。

 ──病名は聞いたことがあるが、突然、パニックを起こしてしまう病気?

「別にパニックを起こしてしまう病気ではないの」

 圭介の心を見透かすように、高瀬女医は説明を続ける。

「パニック障害は、身体的な病気がないにもかかわらず、動悸や呼吸困難、めまいなどの発作が突発的に起こる病気よ。この発作を『パニック発作』と言って、繰り返し起こすことで発作への不安が増して、日常生活にも支障が出るの」

 検査入院後、翠玲は一度、高瀬から問診を受けた。話の先を促すように翠玲は静かに頷くのみだった。

「広場恐怖症って聞いたことあるかしら?」

 高瀬女医は圭介と翠玲を交互に見ながら聞く。翠玲は頷いたものの、圭介は首を傾げた。

 ──広場が怖いという意味……かな?

「広場が怖いという意味ではないの」

 またも高瀬に見透かされた感があって、圭介は苦笑する。

「広場恐怖症とは、過去に強いパニック発作を経験した場所に行くと、その時の記憶がよみがえって、『また発作が起きたらどうしよう』という『予期不安』と呼ばれる症状が出ることよ。その症状が常木さんには出てるの。お話を聞く限りでは、エレベーターやタクシー、応接室、電車など逃げられない閉鎖的な空間では、パニック発作が起きやすくなっているようね」

 ──エレベーターやタクシー、応接室、電車で発作? これでは記者はおろか、日常すら過ごせないじゃないか。

 診察室に二つあるドアの一つが開け放たれている。全開の開口窓から入ってきた柔らかな風がカーテンを揺らす。

 今更ながら圭介は気付く。それらは、密室を作らないための高瀬女医なりの配慮なのかもしれないと思った。

「ふとした瞬間にスーッと胸の奥がひんやりするんです。胸の圧迫感が強くなって、脈がどんどん早まる。自分では制御できない恐怖で、あの日もタクシー内で、突然過呼吸になって……それで……」

 それまで冷静だった翠玲の瞳が、小刻みに揺れる。その瞳には、二日前の救急搬送された時の光景が映っているのだろう。

 幸いにも、タクシー降車直後だったため、運転手が倒れたのに気付いてくれたらしい。

「常木さんのパニック障害はね、私が見てきた中でもかなり重い例なの」

 高瀬女医の表情が陰る。

「通常ね、パニック発作が起きても、十〜十五分以内に、その症状は治まるのよ。でも、あなたの場合、倒れて、意識まで失った。意識を失うというのは、パニック障害でも、かなり稀なケースなの。医師としては長期休養するのを勧めるわ」

「長期……休養?」

 翠玲は言葉の重みを噛み締めるように繰り返す。記者の翠玲にとって、その宣告がどれほど辛いかは計り知れない。

 先ほどまで心地よかったはずの柔らかい風ですら、今の圭介には不快に思えた。

「あの、長期って、どれくらいですか?」

 翠玲は絞り出すような声で聞く。

「かなり重度のものだから、最低でも半年は見ていた方が良いと思う」

「最低、半年……か」

 翠玲は大きなため息と共に、言葉を吐く。

「あの、高瀬先生……抗不安薬で症状を和らげながら、仕事は続けられないですか?」

 ──翠玲のことだ。きっと、自らの病がパニック障害だと薄々気付いていた。それで、あらかじめ調べ上げていたのだろう。

「確かに抗不安薬を服用することで、症状が改善する可能性はある。だけど、人によっては副作用で強いめまいや吐き気や頭痛、眠気が現れる。もう働くどころの話ではなくなる場合だってあるの。それにね……」

 高瀬女医は顔をしかめる。

「常木さんの場合、まずは度を超えた労働時間を減らさないとダメよ。今のあなたの働き方、パニック障害を治す以前の問題だと思うの」

 ライティングマシンと揶揄される会社の中でも翠玲は誰よりも働いていた。だから、労働時間について指摘されると、翠玲も反論できなかった。現に翠玲は押し黙っていた。

「ねぇ常木さん。もっと自分のことを大切にして。あなた、今回はラッキーだったのよ」

「ラッキー?」

「うん。もし意識を失う場所が違っていたらどうするの。電車のホームで倒れ線路に落ちていたら? 車を運転中だったら? 階段を降りている時だったら?」

 高瀬は諭すように「もしも」を指摘した。

 起きていたかもしれない悲劇──。それを想像して、圭介はゴクリと息を呑む。

「何よりも今は休養が必要よ。人生を見つめ直す良い機会かもしれない。あなたにとって、何が一番幸せなのかを考えなさい」

 一転して、高瀬は母のような優しい眼差しで翠玲を包む。

 チュンチュン──。小鳥のさえずりが、診察室に訪れた沈黙の中で際立つ。

 快晴の青空をぼんやり見つめて、しばし黙考した後、翠玲はようやく口を開く。

「分かりました先生。私、会社休みます。治療に専念します。これから……よろしくお願いします」

 最後の方は震えていた。圭介がチラリ見た翠玲の頬には一筋の涙が伝っていた。


「本当に困る。ただでさえ人手不足なのに」

 翌月曜日午後。圭介が企業部フロアの第七グループの自席に出社し、隣席のコミショウと挨拶を交わしていると、不意に不平混じりの声が聞こえてきた。圭介はショルダーバッグを背負ったまま直立し、声の方を見やる。

 第二グループの野洲キャップが顔を真っ赤にして、島の若手に愚痴をこぼしていた。

「常木さんも、何で今、休むかなぁ」

 その言葉で圭介は、野洲の怒りの原因が翠玲の休養にあると悟る。

 今朝、谷部長が翠玲が長期で休養に入ることを一部の企業部デスクに漏らすと、瞬く間に、そのニュースは社内に広がった。

「これから総会取材で忙しくなるこのタイミングで何で休むかなぁ」

 野洲は怒りのままに、ヒールの先でコツコツと床を叩く。

 ──翠玲は休みたくて休んだんじゃない。働いて働いて……。

 診察室で見せた翠玲の涙が脳裏に蘇る。

「こっちは子育てしながら働いているのに、本当に参っちゃうわよ」

 ──あんなに働いて、何で責められなきゃいけない? あんたの子育て時短勤務の穴を埋めてきたのは翠玲じゃないか!

「メンタルが原因らしいわよ。今の若い子って本当に柔よね。心が弱すぎよ」

 第二グループに人員補充はない。その腹いせと言わんばかりに、皆に聞こえるように野洲は、その場にいない翠玲を責め続けた。

『会社のみんなに迷惑かけちゃうな……』

 昨日、帰宅の道中で翠玲がふと漏らしたその言葉と儚い笑みが圭介の脳裏に蘇る。

 ギュギュッ──。奥歯が軋む。

 バサッ──。ショルダーバッグを投げ捨てるように置く。

「圭介さん……?」

 圭介の異変にコミショウが顔を上げる。

 その言葉はもはや聞こえない。圭介は第二グループの島に向かって、歩き始めていた。

 ──ふざけんなよ。

 心の中で叫ぶ。一歩一歩近づくごとに、怒りの炎は大きくなっていく。

「こんな時期に休むなんて、私ならできないけどね」

 ──黙れ!

 圭介は拳をギュッと握る。

「あんた、黙れや!」

 凄まじい怒声だった。それは波紋のように広がり、企業部フロア全体が静まり返った。

 が、その声は圭介のものではなかった。第二グループのサブキャップの巻だった。

 椅子を倒さんばかりに立ち上がった巻は、カッと目を見開いて、鬼の形相だった。その剣幕に圭介すら一歩後ずさりしたほどだ。

「上司にはへこへこして、部下には仕事を振るばかり。一本も記事書かへんようなあんたみたいな名ばかり管理職が、常木のことを悪く言うんじゃねぇよ!」

 皆の視線が巻に釘付けになる。

 ──これが……あの巻さん?

「みんななぁ、不満抱えておっても、口に出さへんだけなんや。何でか分かるか? 誰か一人でも不満言い始めたら、組織っつーのは、簡単に壊れんねん。腹に思うことがあっても、みんな我慢して耐えてんねん。あんたキャップやのに、そんなことも分からんのか。アホちゃうか?」

 ぐうの音が出ないほどの正論だった。

「なぁ、何で誰よりも記事書いていた常木が、休まなあかんねん。ろくな記事しか書かへん、あんたが常木をなんで、そんな風に批判できるねん?」

 それは圭介が胸に抱いていた言葉だった。

「書いて、書いて、書きまくってこそ、記者ちゃうんかい。記者でもねぇ奴が、二度と常木のことを批判すんなや!」

 バンと机を叩き、巻はフロアから飛び出していく。その背中が消えるまで、圭介は見つめていた。胸にあった怒りの炎は、いつの間にか消えていた。

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