第七章 偽りの果てに(3)
新宿駅西口から徒歩十分。高層ビルの最上階専用のエレベーターランプがゆっくりと一階に降りてくる。
──さぁ、これからどうする? 散会まではまだ時間があるだろう。
圭介は近くの壁に背を預けて、下降するランプをぼんやりと眺めていた。
誠を尾行して、ここまでやってきた。他の客に紛れてエレベーターに乗り、誠が最上階の高級中華料理店へ入店したのも確認した。
「四野宮で予約されていると思いますが」
誠は入口でそう告げると、ウェイターに先導されて店の奥に消えた。どうやら、創業家側の会合でもあるらしい。
会話の内容を聞きたい衝動に駆られたが、顔を覚えられている。忍び込むのはやはり危険だ。最上階は中華料理店しかテナントがなく、張り込みもできない。
ということで、圭介は一階に戻って、あれこれと作戦を考えていた。
その時だった。眼前のエレベーターが一階に到着した。開き始めたドアに視線を向けた圭介は咄嗟に顔を下に背ける。
──輝川誠⁉︎
誠は俯いた様子で、圭介に気付いた様子はなかった。
──危なかった。
バクンバクンという心臓の鼓動を耳元で感じていた。
──それにしても、もう散会?
左手首の腕時計に目をやる。十九時二十分だった。誠は中華料理店を三十分も経たずに出てきたことになる。
思わず専用エレベーターのランプに目をやる。誠の他には、誰も降りてくる気配はない。
その間も誠の背はどんどん遠くなる。まもなくビル出入り口の回転扉を通り過ぎようとしていた。
──一体、何のための会だった?
残りたい衝動に駆られながらも、圭介の足は自然と誠の後を追っていた。
誠は新宿の街をまるで漂流するように、三十分徘徊していた。ようやく足を止めたのは、歓楽街の雑居ビルの前だった。
しばらく上を見上げる。風俗店やキャバクラ、マッサージ店などのテナントの看板がネオンを彩っていた。
誠はしばしの思案の間を挟み、一階のエレベーターに乗り込む。階数表示は九階で止まった。エレベーター横の各フロアの店名の看板に目をやる。
〈BARイーストリー〉
念の為、調べてみると典型的なバーだった。客席は二十五程あるらしい。
迷った挙句、圭介もバーに入ることにした。
店内は想像よりも暗い。
──これならバレなそうだ。
まだ二十時で、開店したばかりらしい。客足はまばらだ。バーテンダーに促されるままに、圭介は誠とは対極の位置のバーカウンターに座る。ハイボールを注文して、適当なつまみ類を頼むと誠の様子を窺い始めた。
誠はグラスの赤ワインの表面に沈黙の眼差しを向けていた。バーテンダーとの会話もない。ジャズミュージックがゆったりと時を刻んでいた。
──誰かと待ち合わせしているのか?
当初こそ、そんなことを思っていたが、どうやら違う。二時間が経つ頃には圭介の関心は誠の酒量に向いていた。
──おいおい大丈夫か?
誠は度数が五十度はあるアブサンのストレートを浴びるように飲んでいた。酒に弱い圭介なら、きっと一杯目で倒れている。それを誠は既に十杯は飲んでいるのだ。
──かなり無理な飲み方をしているな。
時々、ぐらりと首を回し、バーカウンターに体を預けている。酔眼は当てもなく虚空を彷徨う。遠くからでも、誠がかなり酔っているのが分かった。
「お兄さん、お勘定で」
だから、誠がそう言い放った瞬間、バーテンダーの顔に安堵の色が広がった。
おぼつかない足取りで誠は店を出る。圭介も慌ててその後を追った。非常階段を使って一気に駆け降りる。幸い誠の歩速は遅く、圭介が雑居ビルの前に出た時、まだ近くにいた。
「圭介さん、今、出てきましたよ。シャイン四天王やわかば銀の鴨崎頭取を確認しました。やはり、圭介さんの読み通り、創業家派の会合だったみたいですね」
誠を再び尾行している最中、コミショウから電話でそんな報告があった。
三時間前、誠が予想より早く店から出てきたことを受けて、圭介はコミショウに支援を要請した。中華料理店へと続くあの専用エレベーター前で張ってもらった。
それにしても、創業家派は実に三時間以上も中華料理店で過ごしていたことになる。
──ならば、なぜ誠は徘徊している?
前方の千鳥足の誠を前に圭介は思案する。
その間、ある法則に気付く。誠はシャイン本社の入る新宿ステーションタワーを中心に歩いていた。時々、歩みを止めては、タワー上層部を見上げるという動作を繰り返す。
あの場所に戻りたい──。そんな哀愁すら背中からは感じられた。
それから、十二社通りを北上し、ふらりといった感じで、立ち寄ったのは新宿中央公園だった。足をもつれさせながら、どかりとベンチに座る。
「ふー」と大きく息を吸ってから、懐から取り出したのは加熱式タバコだった。ニコチンを肺にためて堪能している。
──声をかけるなら今だ。
圭介は意を決して、ベンチに歩み寄る。
「輝川誠さん、お久しぶりです」
ベンチにだらしなく座る誠の前に立った。
酔眼でトロンとした誠の目が大きく見開かれる。近づいて圭介は初めて気付いたが、誠の目は真っ赤だった。
──タバコの煙が沁みた?
しかし、誠の手にあるのは加熱式タバコで煙は出ない。
──まさか泣いていた?
「なんだ……あんたか」
罵声の一つでも浴びせられると思った。
が、圭介の存在を視認した誠が浮かべたのは、自嘲するような笑みだけだった。
「横、失礼しますね」
見下ろしながらの対話も何だか気が引ける。圭介は誠の横に勝手に座る。
その瞬間、酒とタバコが混ざり合った臭気が圭介の鼻を突いた。
「創業家側の会合はどうしたんです?」
酔眼をやや大きくして誠は驚く。
「他の創業家派のメンバーは、たっぷり三時間も店内にいたらしいです。なのにあなたは、三十分も経たないうちに出てきましたね?」
「何だよ、あんた……。ずっと、俺をストーカーしていたのかよ」
呆れ顔だが、怒っている風ではない。
「何かあったんですか?」
粉飾報道によって、プロキシー・ファイトへの影響は必須だ。創業家側の陣営で激論が交わされた結果、誠は腹を立てて出てきた。そんな憶測が圭介の中にはあったが……。
「あいつらは……初めから仲間なんかじゃなかった」
誠は唇を噛み締めて、ポツリと言う。
「どういう意味です?」
「言葉通りさ。あいつらは裏切っていた」
「裏切っていた?」
圭介は首を傾げ、話の先を促す。
「粉飾決算の全責任は、俺と父さんにあるんだとよ。大鷲が大番頭として、シャインの財務は担ってきたのに、いざとなったら知らないの一点張りだ。責任転嫁してきやがった。笑えるだろ?」
唇を震わせ誠は続ける。
「責任を明確にするために、十五%の保有株も手放せってさ。しかも……後任の社長候補は内海愛だぜ」
「内海さん?」
保有株を手放すこと以上に、後任の人選に圭介は驚いていた。
「決算書すらろくに読めない女を社長に据えるのさ。鴨崎頭取の傀儡政権が樹立だ」
──鴨崎頭取の傀儡政権? 鴨崎が黒幕?
誠はかろうじて笑みを作ったが、その目には全く生気が感じられなかった。
「誠さんは今後どうするんです?」
「どうする……か」
その言葉が浸透するまで数秒の時間を要す。
「さぁな……。あんな奴らを信用した俺が馬鹿だった。あいつらは創業家に群がるハイエナだったんだ」
いつもの強気さはない。先日のインタビューで『僕は日本のジョブズになりたいんです』と豪語していた男とは思えなかった。
「俺はただ、死んだ父さんの遺志を継ぎたかっただけなんだ。なのに、大鷲や四野宮、常盤、中村、そして、鴨崎のせいで……」
──全部、人のせい?
「全部、人のせいですか? 自分に全く落ち度はなかったのですか?」
思ったことが言葉となって出ていた。
「何だと⁉︎」
鼻を大きく開いて、文字通り鼻息荒い口調で誠は問い返す。
「だって、そうでしょ。あなたは一年間、社長だったんですよ。それに創業家なんですよ。やる気になれば、調べる気になれば、いくらでも気付く機会はあったはずだ」
引っかかっていたのは、まさしくそれだった。圭介は自分で言いながら納得する。
「昨春の『魔法の粉』の件の品質不正だって、そうです」
「魔法の粉? 品質不正?」
誠の眉間に皺が寄る。
──また、しらばっくれるつもりか?
「あなたは当時、商品開発部長だった角谷さんが、魔法の粉の品質不正を指摘してきた際、ろくに調べなかった。龍造社長が最も大事にしてきた『魔法の粉』の品質を偽装しておいて、よく言えるよ」
「ま、魔法の粉が偽装⁉︎」
眉間の皺が弛緩し、代わりに誠の目が見開かれていた。
「角谷さんは再三に渡って、あなたにパンを食べるよう促した。そうすれば、小麦粉の質が明らかに低下しているのが分かるからです。なのに、あなたは感情のままにパンを食べることを拒否した。挙げ句の果てに、角谷さんを商品開発部長職から解任したんだ」
「そ、それは……」
誠は何かを弁解しようとするがついに言葉は出てこない。
「あなた、従業員やFC店主の意見にも耳を傾けてないですよね? 彼らがどんなに苦しい思いをしているか考えず、ずっと委任状集めばかりに夢中になっていましたよね?」
圭介は三十以上のFC店を回った。FCオーナーのみならず、従業員の声も地道に拾い続けていた。
「上に立つ人間だからこそ、気を配らなきゃいけないんです。一事が万事で、経営にも甘さがあったんじゃないんですか?」
圭介は、もはや、ただのタートルネックを着たコスプレ男に目を向ける。
「外見だけ取り繕ったって、憧れだけじゃ、スティーブ・ジョブズになんかなれないんだよ! 創業家だからこそ、俺たちは発言や行動に人一倍気をつけなきゃいけないんだ」
熱くなり思わず「俺たち」と言っていた。
「…………」
誠は言葉もなく項垂れる。空気が抜けるように、ベンチで萎んでいった。
どのくらい押し黙っていただろうか。しばらくすると誠は大きく嘆息する。圭介が向いた先で、誠がダウンしたボクサーのように、よろめきながら何とか立ち上がった。
「誠さん、逃げるんですか? 戦わないんですか?」
圭介は睨め上げるように問う。
「俺が……逃げる? そうかもしれんな」
呆然と遠くのシャイン本社を見上げて、誠は儚い笑みを浮かべていた。
「父さんが社長になって欲しかったのは、やっぱり俺じゃなかったんだよ。シャインの経営は、俺なんかじゃダメだったんだ……」
今にも壊れそうなその言葉は、地面に転がって、パリンと割れた。
「あんたのようなムカつく記者でも、話したら少し楽になったよ。ありがとよ」
圭介に背を向けたまま誠は呟くと、おぼつかない足取りで、再び夜の街へと消えた。
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