第七章 偽りの果てに(2)
「皆さん、一体これはどういうことです⁉︎」
午後七時。輝川誠は宴席の個室に入るなり叫んだ。
新宿駅からほど近いタワー上層部の高級中華料理店。シャインの本社が入る新宿ステーションタワーがよく見える個室で、解任直後の会合でも利用した馴染みの場所だ。
集合時間の五分前に誠は店に着いたが、十人が座れる円卓には、既に誠以外の九人が着座していた。
「誠さん、まずは乾杯しましょう。わざわざ、こんな時間から鴨崎頭取もお越しになっていただいたんだ」
誠の怒声に臆することなく、大鷲が淡々と場を取り仕切る。
大鷲の視線の先には、腕を組んで堂々と鎮座する鴨崎わかば銀行頭取の姿があった。
「さぁさぁ誠さん、ここに座ってください」
四野宮が席を立ち、主席の椅子を引く。
「誠さん、乾杯は泡で良いですよね」
常盤が店員を呼んで、乾杯のスパークリングワインを注文した。
大鷲や四野宮、常盤らシャイン四天王の面々は、解任以降も「誠社長」と呼んでいた。
──なのに、なぜ今日に限って「誠さん」と呼んでいるんだ?
妙な違和感が胸で広がる。
「乾杯」とだけ言ってグラスを掲げる。ぐるりと見渡した先のシャイン四天王の一人、中村の顔が赤いのに気付いたのはそんな時だ。元々、アルコールが顔に出やすいタイプだ。が、流石に赤すぎる。
各支援者の前の皿や箸にも目がいく。既に使われた形跡があった。
──まさか全員、俺が来る前に集まっていた? 俺がいない間に何を話していた?
胸に湧いた不安を飲み込むように、誠は一気にスパークリングワインを呷る。
それから、アルコール特有の熱を喉に感じながら言葉を吐き出す。
「で、四野宮さん、今回の件はどうするんです⁉︎」
矛先を左前方の四野宮に向けた。
「えっと……」
──この人はさっきから、俺ではなく、ずっと鴨崎頭取の方ばかりを見ている。
その態度も気に食わなかった。
「何のことでしょう?」
惚け口調で言ったが芝居が下手だ。
──四野宮さんじゃダメだ。
「毎経が報じた件です。ウチが粉飾していたというのは事実なんですか?」
誠の視線がスッと右前方の大鷲へと向く。
しかし、大鷲も反応はない。それどころか今、大鷲は誠の目の前で、白ワイングラスを口に運んだ。
──この態度は何だ?
誠のこめかみに電撃が迸る。
「大鷲さん。あなた、財務部長だったんでしょ? 父の代から大番頭として、シャインの財務部門にいたんだから、このことを知らないはずがない!」
当初は毎経報道自体を疑っていたものの、その後、追加情報が次々と出てきて、流石に誠も粉飾があったと思うようになった。
大鷲はやれやれという風に嘆息する。ワイングラスを机上に置く。誠に向けられた視線は驚くほど冷たく、反抗的だった。
「私が知っていたですと。ほぉ」
何か面白いようなものでも見るように口角を上げる。
「大鷲さん、知らなかったじゃ済まされませんよ。こんなんじゃ、プロキシー・ファイトどころではない」
──大鷲では埒が開かない。
誠はぐるりと円卓の支援者を見渡す。
おやっと、誠が目を見開いたのは、どの顔も危機感の欠片すらなかったからだ。
それどころか、一部は薄ら笑みを浮かべていた。まるで誠を嘲笑しているかのように。
「事の重大さが分かっていないのは、誠さんの方だよ」
異様な空気の個室で発言したのは大鷲だ。
──そんなことはない。
透かさず反論しようとした誠の目に飛び込んできたのは、同調するように頷く、残りのシャイン四天王の三人だった。
大鷲は満足そうな笑みを浮かべる。
「私は粉飾決算なんて全く知らなかった。全て龍造さんとあなたの指示に従って、仕事をしてきた。それを今更、私のせいにするなんて、どうなんでしょうか? むしろ、私の方こそ問いたいです。社長だったあなたこそ、何も知らなかったんですか?」
──こいつ……一体、何を言っている?
「大鷲さん、何を今更……」
『餅は餅屋です』と言って、一切、経理業務にタッチさせなかったのは大鷲自身ではないか。
「大鷲さん、惚ける気か。経理や資金調達業務の全てを任せていたじゃないか。今になって、知らなかったなんて、こんなの責任転嫁じゃないですか!」
──鴨崎頭取も何か言ってください!
そんな思いも込めて、右隣の鴨崎に視線を這わす。しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「誠さん。これはあまりに杜撰じゃないか」
鴨崎が鋭い眼光で誠を射ていた。その非難めいた言葉の矛先は大鷲ではなく、自分に向いていた。
「鴨崎……頭取?」
信じられないという表情で誠は呟く。
「私は誠さんを信じていたから、これまで必死に支援してきた。これじゃ、あんまりだ。重大な裏切りだよ」
圧を多分に含んだ低い声。好々爺のようなあの温和な表情はない。そこにいたのは、わかば銀行頭取としての冷酷な顔だった。
──俺は……何も知らなかった。
その思いを言葉として紡げない。
銀行というエリート社会で、他者を蹴落として、頭取の椅子まで登り詰めた男である。鴨崎の背後に、死屍累々の骸の山が見えた気がして、その圧にゴクリと唾を飲む。
「誠さん、この際だから、はっきりと言う。これではプロキシーファイトなんて夢のまた夢だ。信頼を失った我々にもはや勝ち目はなく、私はこれ以上の支援はできない」
──もはや勝ち目はない? じゃあ、総大将として戦ってきた俺はどうなる?
「どうだろうか、誠さん。ここは前社長……いや創業家として、ケジメをつけられては」
「ケジメ……?」
「そうです。創業家として保有する十五%の全株式をわかば銀に売却して欲しい。シャインの経営から一切退くのも条件です」
──提案じゃない……。これは脅しだ。
誠は硬直したまま反応できない。
「シャイン再生のためには、これしかないんだ。創業家として、どうか英断してほしい」
──英断と持ち上げているが、所詮は俺を排除するための方便だ。
分かっているのに言葉を紡げない。
「僕が……いなくなった後のシャインはどうなるんです?」
代わりに出てきたのは、前向きとも取られかねない問いだった。
鴨崎の顔の陰影が濃くなり、歪に口の端が上がる。
「メインバンクとして、私は常にシャインのことを思っている。わかば銀頭取として、資金面や経営面で強力にバックアップするつもりだ。粉飾という悪いイメージを払拭しなければならない。当然、新生シャインの新たな顔も必要になる」
そこで話を区切ると、鴨崎は円卓に座るある女に視線を向けた。
「我々は、
──内海愛……だと?
誠は唖然とする。
──よりによって、この女が次期社長?
前任の社外取の黒須瑛士が辞任したことを受けて、前年の定時株主総会で就任した。元東京魁テレビのアナウンサーで、確かに今もお茶の間の人気は高い。
が、社外取としての働きぶりは落第点だった。決算書も読めず、取締役会では見当違いの理想論ばかりを述べる。自分がどうすれば一番チヤホヤされるかを常に考えて行動するようなところが鼻について仕方なかった。
当の内海は今、頬を紅潮させてまんざらでもない様子だ。グラスに注がれている真紅のワインの表面に自らの栄光の未来でも映っているかのように、笑みを浮かべていた。
「内海氏の社長就任に異議なし!」
大鷲が不意に大声を発する。すると、予定調和の拍手が室内でこだまする。
──茶番だ。これを話し合うために、こいつらは前乗りしていたのか。
悔しさで下唇を噛み締める。
──一体、俺は……何のために。
「では、そういうことに決まりましたから、お願いしますよ、輝川さん」
拒否することは絶対許さない──。そんな表情で、鴨崎は念押しする。
「誠さん」ではなく、ついに「輝川さん」になった。体内で煮えたぎっていた怒りのマグマさえ一気に冷えて、誠を絶望が包む。
こういう状況になって、今更ながら気付く。
──粉飾が発覚した際の身代わりとして、自分は社長にされただけだった。
龍造と誠に命令されて不正に手を染めた。逆らえなかった──。そんな筋書きが最初から描かれていたのだ。
──プロキシー・ファイトだって、最初から、こいつらはするつもりはなかった。
鼻がツンとする。
『これで我々は、概算でおよそ二十%の委任状を得ました。誠社長の持分と合わせれば、議決権ベースで三十五%です』
前回の酒席での大鷲の話そのものが全て嘘だった。ここにいる支援者の誰も、委任状なんて集めていなかったのだ。
──委任状
今更ながら笑えてくる。息だか、言葉だか、何だか分からないものが、自嘲するように開いた唇の隙間から力なく出る。
多額の相続税を支払うために、わかば銀行から資金を借り入れている。もし誠が保有株の売却を渋るならば、借入金の一括返済を迫るだろう。
──俺を排除することしか考えていない今の鴨崎頭取ならば、それくらいはする。
拳を握るが力が入らない。
──父さんから受け継いだ十五%のシャイン株すら、俺は守れなかった……。
〈まことみらいをたのむ〉
不意にあの文言が網膜に浮かぶ。
『誠、シャインの未来はお前に託すぞ』
──父さんから託された思いを俺は……。
ガタン──。円卓の椅子から立ち上がる。
──俺には誰も味方がいない。
その現実を突きつけられて、立つのがやっとだった。
「失礼させていただく……」
もはや、誠の退室を止める者はいない。視線すら誰も合わせようとしない。
一歩踏み出した時、激しい眩暈で、ぐらりとふらつく。
窓の向こうには、シャイン本社が入る新宿ステーションタワーが見えた。
──父さん……ごめん。俺、シャインを守れなかったよ。
唇を噛み締めて、心の中で何度も謝る。じんわり涙が浮かんで、それまでくっきり見えていたシャイン本社すら、ぼやけて消えた。
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