第六章 数字は語る(7)

 星崎社長はいずこへ──。二社の決算原稿を出し終えて、圭介がようやく本社を出れたのは十九時。青木から提示されたタイムリミットまではあと六時間。夜の帳が下りた首都高をハイヤーは疾走する。

 圭介が目指したのはシャイン本社だ。星崎がもし本社にいるならば、退社した際に当たれる。そう考えたからだ。

 しかし、同じことを考えるのは、何も圭介だけではない。本社がある新宿ニューステーションタワーの車寄せには、他紙の記者が既に張っていた。その中にウィレットの遊田の顔を見つけて、圭介は顔をしかめた。


「圭介さん、星崎社長のヤサ……十人くらいの記者が来てます」

 数分後、コミショウの電話越しの声は悲壮感に満ちていた。

「多分、他社も幹事社ノートを見て、シャインの不可解な動きに気付いたんです」

 ──状況は最悪だ。

 圭介は内心で舌打ちする。記者がヤサに詰めかけるのは、何もネタを取るためだけでない。他社の動きに目を配り、有力な社が抜け駆けできないように牽制する狙いもある。

『深堀君、僕はダメ元で帝国ビバの大川内さんのところに行ってくるよ。もしかしたら、星崎さんの雲隠れ先を知っているかもしれないからね』

 キャップの米山までもが今日は後方支援してくれている。担当企業の決算が企業面のトップに採用されて、ただでさえ忙しいはずだ。なのに、圭介のために動いてくれている。

『僕は君を失いたくないんだ』

 本社を出る際に米山が放ったその温かい言葉すら、今の圭介には重く感じた。


 タワー一階のセキュリティーゲートの先の十台のエレベーターが開く度、圭介は視線を向ける。が、星崎は現れない。現れる気配すらない。

 ──そもそも、こんなにも記者がいる中で、どうやってネタを当てる?

 遊田を含めて七社の記者がここにはいる。他社の記者に気取られずにネタを当てるのは不可能だ。

 圭介は一団から距離を取り、壁に背を預ける。どっと疲れが壁に滲み出る。辺りを警戒しつつ、先ほど作成した予定稿を再度、社用スマホで確認する。

〈シャイン、決算粉飾か 海外社買収巡り不適切な会計処理〉の仮見出しが踊る。

 ・前期決算の発表延期

 ・監査法人、ロベリアから帝都に変更

 といった仮見出しも候補として考えたが、やはりこれしかない。

 ──どうか原稿が使えますように。

 そう念じつつ、スマホ画面を暗転させた。

 二十時にはタワー一階が閉鎖。圭介ら記者は、社員用通用口で張ることになった。小雨も降り始め、肌寒さすら感じた。

 二十一時。

 二十二時。

 二十三時。

 刻々と時間ばかりが進む。記者が一人、また一人と減っていった。

 最終的には圭介と中央とタイムス、そして遊田の四人の記者だけが残った。

 中央やタイムスの記者とは会話をしたものの、遊田との会話は皆無。近づき難いオーラを全身にまとい、圭介と一定の距離を保っていた。それでありながら、切れ長の目は圭介を監視し続けており油断はない。

 二十三時半。あと一時間半。コミショウや米山からの連絡もない。

 「敗北」の二文字が頭にチラつく。が、圭介には、もはやここにいる以外、選択肢は残されていなかった。

 その時だった。スーツのズボンの右ポケットの社用スマホが震えていた。

 ──多分、青木デスクだ。

 沈鬱な気持ちで画面表示を見た圭介は目を見開く。

〈常木翠玲〉

 何気ない風を装いその場から離れて、通話ボタンをタップする。スマホを耳に押し当てた瞬間、翠玲の興奮気味の声が鼓膜を突いた。

「深堀記者、今すぐ豊洲フィナンシャルタワーに行ってください」

「いや……今は星崎社長にネタを当てるために、シャイン本社に来ているんだけど」

 ハイヤー内で翠玲から電話があり、シャイン本社に向かっている旨伝えていた。

「その星崎社長が豊洲フィナンシャルタワー内にいるらしいの」

「えっ⁉︎」

 驚きがそのまま声となって出る。

 慌てて、口を覆って周りを警戒する。距離をとったことで、誰も周辺にはいない。

「ピーター副頭取と二十三時から豊洲FG本社で会談するって、さっき豊銀のとある幹部から聞けたのよ」

 ──多分、豊洲FGの田辺取締役だろう。

 翠玲のネタ元らしいことを最近知った。

「ありがとう、恩に着るよ翠玲」

 圭介は小雨に濡れるのも構わず、電話の向こうの翠玲に大きく頭を下げた。

 三社の記者の姿をギリギリ視認できる距離だ。ここで戻って、挨拶をしてから立ち去れば、電話で何かを掴んだのがバレる。最悪、尾行される可能性だってある。

 ──このままフェードアウトしよう。関係は悪くなるだろうが、これが記者という仕事。ここは戦場だ。

 そう言い聞かせると、ゆっくりと踵を軸に回転させる。足音を立てずに歩き始める。闇に溶け込んで、大通りにハイヤーを呼ぶ。飛び乗った。

 後部座席に隠れるように横たわっていた圭介は、高速に入るとハイヤー後方を目視する。

 ──尾行の気配はなし。完全に撒いた。

 社用スマホを取り出すと、米山とコミショウに電話した。豊洲FG本社に向かっていることを簡潔に告げた。

 念には念をと、圭介は毎経本社にも寄った。地下駐車場で、ハイヤーからタクシーに乗り換えると、またもや後部座席に隠れるように横たわった。

 豊洲FG本社は毎経本社から目と鼻の先だ。徒歩でも行ける。

 が、警戒するに越したことはない。数分で、豊洲FG本社に着く。ギリギリ車寄せが見える路肩でタクシーを止めると、スナイパーさながらに後部座席から様子をうかがった。

 ──星崎社長は本当にいるのだろうか?

 豊洲FG本社ビルを見上げるが、闇と霧雨で上層部は見えない。越えるべき壁の高さを改めて思い知らされる感覚だった。

 零時四十分過ぎ。青木との約束の午前一時まではあと二十分。ゆっくりと一台の黒塗りのハイヤーが車寄せに入ってきた。やがて停止し、ハザードランプを点滅させた、運転手が降りてきた。

 バクンと、圭介の心臓が唸る。

 ──朝回りで何度も見たから間違いない。

 星崎が使っているハイヤーのナンバーだった。運転手も見覚えがある。通用口に視線を向けて、主人の来訪を待っている。 

 ──もうすぐ星崎社長も来る。

 胸が高鳴る。この情報をもたらしてくれた翠玲に心の中で何度も感謝した。

 圭介もタクシーから降車し、柱の陰に隠れた。深呼吸しながら、頭の中で尋ねるべきことを整理する。息を潜めること五分。これほど長い五分はなかった。

 そして、その瞬間は訪れた。深夜専用の出入り口に人影が現れた。まるで王が凱旋するかのような堂々とした足取りの男。

 ──星崎社長だ!

 圭介は視認すると、柱から飛び出す。

「星崎社長!」

 車寄せに甲高い声が響き渡る。

 が、それは圭介の声ではなかった。突如、物陰から出てきた新たな影。圭介と星崎の間に割り込んできたのはポニーテールの女。

「嘘……」

 予想外の展開に、圭介は足を止めて固まる。

 目の前に現れたのは、なんとウィレットの遊田だった。遊田はまるで襲撃犯のような勢いのまま、星崎に歩み寄ると叫んだ。

「星崎社長、明日の決算は延期ですよね?」

 星崎からは反応はない。遊田の前を横切る。

「星崎社長、待ってください! 監査法人も交代するんですよね?」

 星崎の背に遊田はまるで呪文でも詠唱するかの如く叫び続ける。

 ──監査法人交代のネタまで掴んでいる?

 まるで悪夢を見ているようだった。

 ハイヤーの運転手が星崎に一礼し、白手袋で後部座席のドアを開ける。

 ──これじゃ、何も言えないまま、全てが終わってしまう。

「星崎社長、お伝えしたいことがあります!」

 「尋ねたい」ではなく「伝えたい」──。思いの詰まった言葉を力一杯叫んだ。乗り込もうと体を屈める星崎と一瞬、視線が交錯したような気がした。が、遊田の背がそれすらも遮断する。

 バタン──。ドアが閉まる。無情とも言えるその音は、シャイン担当としての最後の仕事が終わる音に圭介には聞こえた。

 後部座席内部は見えない。代わりに窓には圭介自身の顔が反射していた。

 眉はハの字型で、髪は乱れている。今にも泣き出しそうな顔だった。

 ──これじゃ、まさしく負け犬じゃないか。

 何だか笑えてくる。

 その隣には遊田の顔があった。切れ長の目を細めて、不敵に微笑んでいた。勝ち誇った表情に見えた。

 ──翠玲がくれたラストチャンスすら、生かせなかった。

 ゆっくりと動き出したハイヤーが大通りに出る。見えなくなるまで、圭介は呆然と立ち尽くすしかなかった。


 小雨が大雨に変わった。どうやって本社に戻ったかは覚えていない。気付いた時、圭介は二十階の編集フロアに上がっていた。

 ずぶ濡れの圭介に、整理部員や各部のデスク達が一様に驚く。その視線すら、今の圭介には気にならない。

 見えていたのは、朝刊番デスク席に座る青木の姿のみだ。

「アサボリ、テメェ、さっきから電話してたんだぞ!」

 青木だけは気にする素振りもない。いつもの調子だった。

「申し訳ございませんでした……」

 やがて圭介は、選挙戦で敗戦の弁を述べる政治家の如く、青木に頭を下げる。

「僕は結局、星崎社長から何一つ聞き出せませんでした」

 その言葉に、中央の幹部席や整理部員、各部デスクの視線が圭介に集中する。

「一面、降版します!」

 整理部の一面担当面担の男が、ちょうど朝刊の試合終了を宣言した。

 静まり返った編集フロアに、ブーブーブーというバイブレーションがこだましたのはその時だ。震源地は圭介のズボンのポケット。社用スマホが震えていた。

 腕組みをしていた青木が「出ろよ」という風に、顎で指図する。力なく頷いて、圭介はスマホを取り出す。

 翠玲? 米山キャップ? コミショウ? 頭に浮かんだどの相手でもなかった。

 画面表示は〈非通知〉。

「はい……」

 首を傾げつつ出る。自分でも驚くほどに声に張りがなかった。

「……」

 相手は喋らない。無言だった。だが──

「バオバオ!」

 不意に電話の向こうから聞こえてきたのは、聞き覚えのある犬の鳴き声だった。

 ──この犬の吠え方、どこかで……。

「ま、まさか……ブ、ブル⁉︎」

 圭介は勝手にその犬を「ブル」と命名していた。ブルドッグだからだ。

「ちげぇよ。ウチの犬の名前は『ノア』だ。勝手にクソみたいな名前をつけねぇでもらえるか?」

 圭介は電話の主の声を初めて聞いた。

「星崎……社長ですか?」

 信じられず、なぜか耳元からスマホを離し、再度、画面表示を見る。無論、〈非通知〉としか、表示されていない。

「星崎社長ですか⁉︎」

 圭介は叫ぶ。

 目の前の青木がバネ仕掛けの人形のように椅子から立った。ブルーライトカット眼鏡の奥の目は見開かれ、驚愕が顔全体に張り付いていた。

「俺は星崎だが、これは毎経新聞記者の深堀さんの番号で間違いねぇのかい?」

 意気消沈し名乗ることすら、圭介は忘れていた。

「は、はい! 深堀です!」

 電流を流されたかのように、圭介はピンと背筋を伸ばす。

「ど、どうして……僕の番号を?」

「毎朝、あれだけ名刺を渡されれば、誰だって覚えるさ。それに、俺は一度見たことは忘れないんでな」

 星崎は笑う。

 胸にじんわり温かい何かが広がる感覚があった。あの朝回りの日々が無駄ではなかったことが純粋に嬉しかったのだ。

「さっきは飛んだ邪魔が入ったからな、今回だけは、特別にお前の話を聞くことにした。さっき言っていた『お伝えしたいこと』って、一体何だよ?」

『星崎社長、お伝えしたいことがあります!』

 圭介は先ほど、確かにそう叫んでいた。

「伝えたかったのは、御社に対する記事が出るという報告です」

 そう前置きしつつ、圭介は裏取りを進めていく。

「シャインが二〇一七年に買収したマニラの子会社は実勢価格より遥かに高い割高買収でした。のれんを実際よりも多く計上して、のれん償却費として他の取引で発生した何らかの損失と相殺してきた。粉飾をカモフラージュするための隠れ蓑としてSIが買収された事実を掴んだあなたは調査を開始しました。それが〈買収手続きの再検証〉を表題としたあの不可解リリースです。調査に時間を要しているとして、きょうの午後の本決算発表は延期しますね? また、SIのデューデリジェンスを担当し、粉飾に加担していたロベリア監査法人は事実上解任。後任は帝都監査法人ですよね? もし間違いがあると、星崎社長にもご迷惑がかかりますので、あらかじめ伝えさせていただきました」

 電話を切られるのも、否定されるのも怖くて、圭介は立て板に水の如く一気に述べた。 「伝えたいことがある」と言いながら、「何か間違いがあれば訂正して欲しい」という願望も込められていた。

「何だよ、ほぼ質問じゃねぇか」

 見透かすように星崎が電話越しで呆れる。それからしばしの間を挟んで告げる。

「お前の記事に対して、俺から訂正することは特にない」

 青木にも星崎の声は聞こえていたらしい。

「アサボリ、いいか。五分で出せ」

 青木は叫ぶ。勢いよく幹部席に走っていく。

 朝刊はおそらく間に合わない。が、今はデジタルの時代で、勝負のフィールドは何も紙面だけではない。電子速報という手がある。

 青木の声が聞こえたのだろう。星崎が「ふっ」と笑う。この男も昔、同じ会社にいたことを圭介は今更ながら思い出す。

「バオバオ!」

 電話の背後から「ノア」ことブルドッグの吠える声が再び聞こえる。

 圭介、頑張れよ──。何だか応援されているような気がして圭介も笑う。

「深堀記者──」

 星崎から急に名前を呼ばれる。圭介が身構えたのは、真剣さと緊張を帯びた口調に変わったからだ。先ほどとは明らかに空気が違う。

「お前、このままじゃ負け続けるぞ。お前はまだ、本当の敵を知らない。まずは本当の敵が誰かを知ることだ」

「本当の敵……?」

 唾を飲んで問い返した圭介の鼓膜を青木の怒声がつんざく。

「おい、アサボリ、何をボケっと突っ立っている? 早く原稿を出せって言ってんだろう! デジタルでマル特打つぞ」

「はい!」

 色めき立つ編集フロアの中心で圭介は慌てて返す。

 続きを聞こうとスマホを耳に押し当てる。が、星崎はもういない。聞こえたのはツーツーツーという不通音のみだった。

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