第六章 数字は語る(5)
「私、毎朝経済新聞社の深堀と申します。黒須所長はいらっしゃいますでしょうか?」
圭介が名刺を差し出すと、半開きのドア越しから五十くらいの女が微笑んだ。
「お約束はございますでしょうか?」
「ありません」
圭介は答える。
すると、女の鼻の付け根に皺が刻まれる。
「申し訳ございません。お約束のない方と、黒須は面会しかねます」
JR上野駅近くのリノベーションされたビルの五階。そこに黒須会計事務所はあった。
午前九時、圭介は事務所が開くと同時に訪れた。ドアの隙間から、十人ほどの所員が黙々と働いているのが見える。
「五分でも、十分でも、良いんです。お話しさせてください。この通りです」
圭介は女に懇願する。
「ですから、お約束のない方と所長はお会いできません」
笑みを浮かべていた仮面がパラパラと剥がれ落ち、女の口調が強くなる。
「この通り、お願いします!」
圭介も折れない。シャインの本決算は、いよいよ明日だ。もはやプライドも、恥ずかしさも、かなぐり捨てて頭を下げていた。
「おい! 一体、何事だ!」
その時だった。女の背後から男の怒声が飛んできた。その声に聞き覚えがあった。
──黒須瑛士だ。
この会計事務所の主であり、シャインの元社外取締役である。
半開きのドアが開かれる。対面した顔は、二年前の株主総会招集通知の社外取候補の写真と一緒。全く衰えを感じさせない。いや、むしろ若くなっている感があった。
四十七歳。色黒の顔に、鋭角な眉と意志の強さを感じさせる目。前髪を上げて露わになった額には、血管が浮き出ていた。
「黒須様、先日は電話で失礼いたしました。毎経新聞の深堀と申します。大変申し訳ございませんが、少しで良いのでお話を聞かせていただけないでしょうか?」
「申し訳ないと思うなら、さっさと帰れ! この間も言っただろ? 俺は一年前にシャインの社外取を辞めたんだ。もうあの会社とは関係ない!」
鋭角な眉がさらに吊り上がって、もの凄い形相だった。
「そうやって、また逃げるのですか?」
内心では圭介の方が逃げたかった。が、おくびにも出さず、淡々と返す。
「逃げる……だと?」
黒須の額の血管がドクリと動く。
「一年前も、あなたは社外取を任期途中で辞めたじゃないですか?」
「あれは違う! 何も知らないくせに、知った口を叩くんじゃねぇよ!」
黒須が歯を剥き出して反論する。
「いえ、私は全てを知っています。社外取としてあなたはシャインのために尽くした。だが、シャインインターナショナル(SI)の件を巡って、輝川誠さんに龍造社長の死の責任を追及された。だから、社外取の職を辞したんですよね?」
「全てを知っている」と言いながら、ここに訪ねてくるのは矛盾がある。それに誠が追及した件についても圭介の憶測だった。
しかし、圭介の言葉に眼前の黒須の勢いが萎んだ感があった。
──この機を逃さん。
圭介は一気に畳み掛ける。
「あなたは社外取として、いや会計のプロとして、責務を全うしようと動いた。SIを巡る不可解な買収に早くから着目して、不適切な会計処理の可能性にも気付いた」
三本木の話から導き出した仮説だった。
「むしろ、あなたの行動は社外取として称賛されるべきだった。だから、辞めるべきじゃなかったんだ!」
対話ではなく、もはや演説に近かった。
圭介は深々と頭を下げて再度言った。
「お時間は取らせません。どうかお話を聞かせていただけないでしょうか?」
いまや全所員の視線が突然来訪してきた珍客に向いていた。緊張を帯びたその視線は、やがて黒須へと移っていく。
頭を下げ続ける圭介の頭上に降ってきたのは言葉ではなかった。「ふっ」っという黒須の呆れ笑いだった。
「そう言えば、俺は『二度と電話するな』とは言ったが、来るなとは言ってなかったな」
やれやれと言った口調で黒須は続ける。
「五分だけだ。いいな?」
圭介が顔を上げた先の黒須の顔からは怒りが消えていた。
「あ、ありがとうございます!」
再び深々と頭を下げた圭介に黒須は言う。
「ドアの前にずっと立たれたんじゃ営業妨害だ。早くこっちに来い」
くるりと背を向けて、ドア近くの応接室で待つよう圭介を促した。
一分後。応接ソファで黒須と向き合う。何とも言えぬ威圧感があった。デスクの青木と対峙している時のあの感覚に似ていた。
「お前、結構、俺のことを調べてるじゃねぇか」
形だけの名刺交換を済ますと、黒須はニヤリと笑みを浮かべた。どうやら仮説も含めて、大体、当たっていたらしい。
コンコン──。その時、部屋のノックがあり、先ほどの女がお茶を運んできた。女は会計士ではなく、事務員だったようだ。
向かい合った黒須と圭介それぞれの前に、茶をことりと置く。女が退室するのを待ってから、黒須は切り出す。
「で、聞きたいことは何だよ」
──そうだ。時間は五分だ。既に過ぎているような気もするが……。
「お聞きしたいのは計二点です。一つ目は、どうしてシャインは、二百二十億円もの資金を投じてSIを割高買収したのでしょう。私の取材によれば、そのSIは期末の棚卸資産額を過剰計上し、利益を水増ししていた可能性もあります」
「お前、さっき今回の件を『不適切な会計処理』って言っていたよな? そんな、生ぬるいもんじゃねぇぜ。これは完全な粉飾だ」
「粉飾⁉︎」
「ああ。それも監査法人のロベリアと大鷲率いるシャインの財務部が結託した組織的な粉飾だ。シャインの海外事業はその粉飾の隠れ蓑だったと俺は見ていた」
「そんなことって……何のために?」
「さぁな。全容を突き止める前に、俺はシャインを去った。龍造さんに粉飾の可能性を示唆して、調査すべきだと働きかけたのは俺だからな」
三本木同様に黒須も、自分の進言が龍造を海外視察に向かわせる結果になったのを悔いているようだった。
皮肉だった。三本木と黒須の双方ともが、シャイン内部の不正を正そうと動いた。その結果、龍造の事故死という悲劇が生まれたのだから。
「粉飾スキーム自体は単純だ。SIの割高買収で発生したのれんを実際より多く計上。のれん償却費用として毎年計上し、おそらく何らかの損失の穴埋めに利用していたんじゃないかと俺は見ていた」
「損失の穴埋め?」
「ああ。そうだ。何の損失だったが分からない。それを突き止めようとしたんだが、思った以上に守りは強固だった」
「守りが強固?」
「ああ。シャインの財務部もバカじゃない。俺や他の連中が決算に疑問を持って、探りを入れてくるなんて百も承知だ。決算を監査するロベリアと結託して何十もの防壁を作っていた。さらに言うと、メインバンクのわかば銀も何だか非協力的でな」
「わかば銀まで?」
「そうだ。複数の資料の提供を求めたが『シャイン財務部の了承を得ないと出せない』の一点張りでな。龍造社長が帰国次第、掛け合ってもらおうと思っていたんだが……」
黒須は苦衷を滲ませる。
「龍造社長は粉飾について、何も知らなかったのでしょうか?」
圭介はずっと引っかかっていた疑問をぶつけてみる。龍造は会社のトップだ。何も知らないということが本当にあるのだろうか?
「龍造社長は全く知らなかったと思う。財務については大鷲常務に一任していたしな」
黒須は疑惑を即否定した。
「龍造社長は『いつか海外でシャインのパンを売りたい』と常々言っていた。だから、取り巻き連中の言葉を信じて、五年前、前のめりで海外事業を始めてしまった。経営者として龍造さんの判断に落ち度があったと言えばそうなんだが……」
──龍造は粉飾に加担していなかった? ならば黒幕は大鷲か? いや、息子だからといって誠が白とは言えない。現に角谷の魔法の粉の件は主導的にもみ消していた。
「星崎現社長は、おそらく全てを見抜いて、行動している」
その言葉にハッとする。
──だから、誠を辞任に追い込んだ? シャイン四天王も左遷した?
「あの人は抜かりない。今も記者だ」
「今も記者……?」
──どういう意味だろう?
コンコン──。その時、応接室のドアがノックされる。事務員の女がドアの隙間からひょっこり顔を出す。
「所長、ご予約のお客様が来所しました」
壁掛け時計に目をやる。九時三十分だった。五分の予定が二十分近く話していた。
「悪いが話はここまでだ」
ポンと黒須が膝を叩く。その段になって、気付く。
「あの、すみません。実は質問は二つあるんです。これは一分で済みますので、もう一つだけ」
「チッ」と黒須は舌打ちをして、尻をソファに沈める。
「メールです。亡くなる前に、龍造社長から取締役宛にメールが届いたと聞きました」
「メール?」
記憶を探るように黒須は天井に視線を這わす。
「あー、あれか。確かに、ダイイングメッセージが来たよ」
「ダイイングメッセージ⁉︎」
「そうだ。まさに墜落する死の直前、龍造社長は俺たちにメールを送ってきたんだ」
「ま、まさか⁉︎」
素っ頓狂な声を上げる。
「本当さ」
コンコン──。再びノックが鳴る。さっきよりも強かった。事務員の女が、再び黒須に催促した。
早く帰ってよ──。圭介には非難がましい視線を向けてきた。
「今、行くっ!」
黒須はため息とともに盛大に舌打ちすると、懐から手帳を取り出す。何かを走り書く。紙を破ると、眼前の圭介に渡してきた。
〈まことみらいをたのむ〉
紙にはそう書かれていた。
意味を問うように黒須の顔をうかがう。
「意味がわかんねぇだろ? 俺もさ。『誠さんにシャインの未来を託した』って、取り巻き連中は解釈していたが、どうなんだかな。大川内さんや榎本さんなら、もしかしたら意味を理解しているかもしれねぇ」
──社外取の大川内と榎本がこの件に詳しい?
それから、先ほどよりも大きく膝を叩くと、その反動を利用して、立ち上がった。
「じゃあ、頑張ってくれ、深堀記者さんよ。ここまで喋ってやったんだから、お前は途中で担当を投げ出すんじゃねぇぞ」
シニカルな笑みを浮かべて、颯爽と部屋を出て行った。
黒須会計事務所を出た後、圭介は近くの公園まで歩く。ベンチの一角に座り、しばし思案する。
「まことみらいをたのむ……か」
ポツリ吐いた瞬間、圭介のズボンのポケットで、私用スマホが震え出した。考えるのをやめて画面を見る。
表示されていたのは〈霜田洋成〉だった。
「ヒロ?」
首を傾げて、電話に出た圭介の鼓膜を興奮したヒロの声が突く。
「圭介! 会社がねぇんだよ!」
「はい。何?」
「今、俺はマニラにいるんだが……」
その言葉でヒロが「東南アジアに出張に行く」と言っていたのをようやく思い出す。
「SIのオフィスがどこにもねーんだよ」
「な、何だって……」
思わず圭介は、ベンチから立ち上がる。
「記載されたオフィスの住所にあったのは私書箱だ。ビルの一階にずらりと私書箱が並んでいた」
「し、私書箱?」
「ああ、そうだ。オフィスもない。あったのはただの郵便受けで、どうやってSIは活動していたんだ?」
「そんな……」
圭介は息を呑む。
「なぁ圭介……SIって、ただのペーパーカンパニーなんじゃないか? 東南アジアで冷凍パンを販売していた会社なんて、本当に存在していたのか?」
──海外事業自体が存在していなかった?
その瞬間、一年前に龍造社長がマニラで見た光景が圭介にも見えた気がした。
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