第六章 数字は語る(4)

 週半ばの五月十一日水曜日。シャインの本決算まで二日と迫ったこの日午前、圭介はコミショウと三鷹市郊外にある白桜女子大学を訪れていた。無論、経済学部教授の三本木千里に会うためである。

 広大なキャンパスの中央部。圭介たちが歩く並木道には新緑が生い茂る。初夏の柔らかい風がそよぎ、芝生の上では女子大生の複数のグループが談笑している。圭介一行に好奇な視線を向けていた。

「ほらね、圭介さん。やっぱり、男一人で来たらヤバかったでしょ? ましてや、女子大に忍び込むだなんて、無謀すぎますよ」

 コミショウは得意げに笑う。

「確かに……ありがとな」

 圭介は苦笑する。

「ところでなんですけど、今朝は星崎社長に会えましたか?」

 コミショウは思い出したように尋ねる。その瞬間、圭介の口の緩みはスッと消えた。

「それが……今日もダメだったんだ。これで四日連続で会えてない」

 海外子会社の不可解リリースが出されて以降、星崎には会えていない。雲隠れ説は日を追うごとに濃厚になっている。

 圭介は大きく嘆息してから、さらに一つの悪いニュースを明かす。

「実は昨夜から他社も張り込み始めたんだ」

「他社ですか⁉︎」

 コミショウが驚いた表情で圭介の方を向く。

「うん。夜ならもしかしたら会えるかもと思って、星崎社長のヤサに行ったんだけどさ、中央やタイムス、魁の三社がエントランス前にいて……」

 昨夜の光景が脳裏にまざまざと蘇る。


 圭介の存在を確認すると、見るからに体育会系といった中央の記者は馴れ馴れしく近寄ってきた。

「おや、毎経さんじゃないですかぁ」

 特ダネを抜かれた日に訪れたシャイン本社で、名刺交換を交わしている。

「星崎社長って、いつも何時頃帰ってきます?」

 砕けた口調であったが、その目は全く笑っていなかった。既に取材の駆け引きは始まっているのだ。

「分からないです。僕も今日、ここに初めて来ましたから」

 圭介は淡々と返す。

「初めて来た……ねぇ」

 細められた中央記者の目は、圭介の発言を全く信用していなかった。

「それは経済紙の記者として、まずいんじゃないですか?」

 挑発までして来るが、その手には乗らない。

 が、内心では焦っていた。

 主要企業の決算がひと段落つき、停戦状態だった他社の経済部記者たちが再び攻め込んできた。このヤサにいるということは、代表取締役の登記も既に更新されたと見て良いだろう。

 翠玲の情報で、数週間前にはここに辿り着いていた。なのに、結局、星崎を切り崩せなかった。一言も会話すらできなかった。自分の不甲斐なさに無性に腹が立った。

「じゃあ、星崎社長が帰宅した際は、各社一分ずつで交代でどうでしょう?」

 中央の記者は、エントランス前で仕切り出す。

 ──星崎社長は簡単に取材に応じてはくれるような人じゃない。

「すみません、僕は急用が出来たので帰ります」

 圭介はポツリと呟くと踵を返す。中央の記者が再び挑発するような発言をしていたが、全く耳には入らなかった。

 ──星崎社長はいずこへ。

 そればかりを考えていた。


「ってなわけで、状況は最悪さ」

 圭介は肩をすくめる。

 コミショウは励ますように言う。

「圭介さんは本当に頑張っていると思います。引き継ぎだって、めちゃくちゃだったんだし、仕方ないですよ。今から『チーちゃん』に会えるんですから、そこで逆転できますって」

「ありがとな。これじゃ、どっちが先輩か分からないな」

「いえいえ。圭介さん、今日もバイブス上げていきましょう!」


「毎経の深堀と申します」

 十二号館五階の綺麗に整頓された教授室の応接ソファで対面した「チーちゃん」こと三本木千里は、五十そこそこの痩身の中年男だった。

 太いハの字型の眉と白い肌のせいか? 陰気なオーラが全身にまとわりついていた。

 生徒たちから陰で「チーちゃん」と呼ばれていたこと、さらには「千里」という名前から、圭介はてっきり女性だと思っていた。

 しかし、事前調べで三本木が男だと確認。さらに実際に会った今、「チーちゃん」のあだ名は「チーぎゅう」から来ているのではとの憶測も芽生える。

「本当にお久しぶりです、三本木教授。私のこと覚えていますかぁ?」

「もちろん、覚えていますよ。小宮山さんは、変わりませんね。大変ご活躍のようで」

 三本木は微笑んだ。見た目通りで、話し方も穏やかだ。

「先生の新書を読ませていただきましたが、面白くて一気読みしちゃいました」

 コミショウは、三本木が一ヶ月前に出版した「新時代の資本論」という新書を掲げる。

 毎経は本紙「毎経新聞」以外にも計六つの別媒体を持っている。今回はその中の一媒体、投資情報紙の新書紹介コーナー「経済記者が薦める次に来る本」の取材名目でここに来た。

「嬉しいです。でも、堅すぎて読みづらかったんじゃないですか?」

 三本木の指摘は的を射ていた。

「そんなこありませんよ。私みたいな経済音痴でも分かりやすく書かれていました」

 コミショウは笑みで返したが、圭介は知っている。

 ──こいつは「新時代の資本論」をほとんど読んでいない。

「昨日、近くの本屋で買ったんですけど、これ、何が面白いんですかね? 私には難しすぎたので、すぐに本を閉じて、ネットのレビューを頭に叩き込んで来ました」

 ここまでの道中、コミショウは悪びれる様子もなくそう言っていた。

「なぜ富が一部に集中するのか? 三本木先生独自の新理論に、深堀とともに深く共感した次第です」

 さも読み込んだような口調で、コミショウは巧みに取材を進めていった。

 三十分後。取材当初は固かった三本木の表情も、コミショウの持ち前のコミュ力で、幾分柔らかくなった。それに比例するように、口もどんどん滑らかになっていく。

 傍の圭介はというと、今か今かと爪を研ぐ。

 そして、その時は来た。

「そうだ。三本木教授。是非、この本にサインいただけませんか?」

『圭介さん、私がサインをおねだりしたら、チーちゃんにシャインの話を切り出しちゃって下さい』

 コミショウとは、そう事前打ち合わせしていた。

「そう言えば、三本木教授って、一年前まではシャインの社外監査役でしたよね?」

 出来るだけ、何気ない風を装って圭介は尋ねる。

「実は僕、シャインを担当してるんです」

 その瞬間、三本木はキョトンとする。

「うーんと……」

 困惑気味にコミショウの方にも視線を向けるが……。

「あっ、私もシャイン担当なんです。せっかくの機会ですし、当時の話を是非お聞かせください」

 厳密にはコミショウはシャイン担当ではない。圭介は一気に切り込む。

「単刀直入にお聞きします。一年前に龍造社長は不慮の事故で亡くなりました。その直後、監査役だった三本木教授と社外役だった二人が辞任しています」

 三本木の顔の陰影がどんどん濃くなる。

「一年前にシャイン内部で何かあったのではないのですか?」

 圭介は問う。沈黙が教授室を支配する。

「一ヶ月前には創業家の誠社長も事実上解任されました。僕はただ、シャイン担当記者として、真実を知りたいだけなんです」

 自分でも驚くほど熱がこもっていた。

 それから、どれくらい時は止まっていただろうか?

「真実を突き止める義務……か」

 三本木は圭介の言葉を反復する。遠い目をして、口元には微かな笑みをたたえていた。

「私も一年前、社外監査役として、真実を突き止めたいとの思いから、龍造社長に進言しました」

 三本木は全てを告白しようとしている。そんな気配があった。

「進言ですか?」

 圭介は唾を飲み、前のめりになる。

「はい。それが監査役の仕事ですから」

 監査役の仕事は、取締役の職務執行の監査と監査報告の作成が主である。

「常勤監査役のお二人はシャイン出身で、財務部と結びつきが強く、おかしいことをおかしいと言えない方々でした」

 物静かな三本木にしては、やけに棘のある言い方だった。

「ですから、私が龍造社長に進言させていただいたんですよ。『SI(シャインインターナショナル)について一度、抜き打ちで調査を実施するべきだ』と」

「抜き打ちで? どういうことです?」

 圭介は透かさず問う。

「SIは冷凍パンを東南アジア各国に販売していました。大手化学メーカーが開発した冷凍フィルム技術によって、パンを温めるだけで、焼きたて同様の風味と食感を味わえるんです。『シャインのパンを海外でも味わってもらいたい』そんな龍造社長の強い思いもあって、五年前から始まった事業だったんです。ところがです……」

 三本木の眉間に皺が寄る。

「ある日、私はSIの財務資料の期末棚卸資産を見た際、違和感を覚えたのです」

「違和感?」

「額が少し大きすぎるように思えたんですよ。それで、試しに日本からの冷凍パンの出荷分と照合して、四半期ごとの棚卸資産を独自に計算してみました。すると、期末の棚卸資産額が過剰に計上されている事実に行き当たりました。ご存知の通り、期末の棚卸資産を増加させれば、売上原価を減少させることができます。理論上、利益を水増しすることができるのです」

 三本木の話は、圭介も予期しない方へと針路を変えつつあった。

「それって、不適切な会計処理じゃ……」

 圭介は呻く。

「とにかく、違和感がある以上、社外監査役として指摘しない訳にはいきません。これまで、マニラの冷凍パンの保管倉庫は、ロベリア監査法人が定期監査しているとのことでした。ですから『今回は抜き打ちで調査をすべきです』と、龍造社長に秘密裏に進言させていただきました。龍造社長は言いました。『ならば、俺がこの目で見てくるよ』と。そして、そのマニラへの抜き打ち検査の帰りに、龍造社長は……」

 三本木は下唇を噛む。苦悶という言葉がピッタリな表情だった。

「龍造社長の急死直後、誠さんから呼び出されました。その場には、なぜか生え抜き出身の取締役四人『シャイン四天王』もいました。そして、誠さんから言われました。『父さんが死んだのはあんたのせいだ』ってね」

「そんな……三本木教授のせいじゃないですよ!」

 それまで見守っていたコミショウが、堪らず割って入る。圭介も大きく頷く。

「でも、抜き打ち調査を進言したのは私ですから」

 三本木は首を横に振った。

「理由はどうあれ、私は誠さんが父上を失うきっかけを作ってしまった。そう考えると、これ以上、シャインの監査役にはとどまれないと思いました。そして、私は社外監査役を辞めました」

 三本木は哀愁と後悔をまとった笑みを浮かべていた。この告白は三本木にとっての贖罪の意味合いもあったのかもしれないと圭介は悟る。

「社外取の黒須さんはどうしてお辞めになったのでしょうか?」

 圭介は唐突に問う。尋ねたいという欲求より、三本木の悲痛な表情に耐えかねて、話題を変えようとの意味合いが強かった。

「黒須さんの辞任理由ついては、よく……。何せ私は先に辞任しておりますから。あっ、でも……」

 三本木は唐突に何かを思い出したようだった。

「黒須さんが確か『龍造社長から死の直前にメールが来た』とか言っていましたよ」

「死の直前? どんなメールですか?」

 圭介はさらに前のめりになる。

「さぁ、私は内容を見ていませんし、皆が口を噤んでいましたから。ただ、普段は冷静な黒須さんにしては、何だか落ち着かない様子でしたねぇ」

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