第六章 数字は語る(3)
ガタンゴトン──。レールのつなぎ目を通過する電車の音の間隔が、徐々に長くなっていく。深夜の地下を走る都営浅草線西馬込行きの電車はゆっくりと減速していた。もうすぐ次の五反田駅に着く。最寄り駅の戸越駅はその次だ。
バクン──。心臓が跳ね上がる。翠玲はうっと顔をしかめる。
──まただ。でも、これじゃ逃げられない。
終電はことのほか混んでいた。翠玲の華奢な体は今、四方からガッチリと固められている。大きさの違う体同士がパズルのようにピッタリと密着し、電車内という限られた空間でひと塊となっている。
バクンバクン──。その間も心臓の鼓動は大きくなる。脈もどんどん早くなる。全身の毛穴から汗が滲み出てくる。スーッと血の気が引く感覚に侵食されていく。
最後に襲ってきたのは、喉を締め付けられる感覚。気道が圧迫される苦しさだ。
──何かフラフラしてきた。早くここから逃げたい。
視界もぼやけ始め、暗くなり始めている。
──苦しい。逃げたい。
海で溺れてもがく中、何者かに足を掴まれて、深い海底に引っ張られていく感覚だった。
──息ができない。死ぬ……。
その時、かろうじて鼓膜に触れたのは、五反田駅に到着したとのアナウンスだ。
「はぁはぁはぁ」
ぼやけていた視界が徐々にクリアになっていく。翠玲は今、ベンチに座っていた。五反田駅のホームのベンチだ。
耳元に感じていた心臓の鼓動が小さくなっていく。ゆっくり深呼吸を繰り返して、肩を上下させていた。
プシュー──。閉まる電車ドアをただ呆然と見つめる。もはや電車に乗る気力はない。
電車が去って一分ほど。全身に酸素が行き渡ったのを確認すると、翠玲はようやく立ち上がる。地上に出て、戸越駅へと歩き始めた。
──一体、あの動悸は何だったのか?
国道一号線沿いを歩きながら思う。
最近はいつもこうだ。電車内はもとより、タクシー、応接室、決算会見場でも、動悸が出るようになっている。
──逃げられない。このままじゃ死ぬ。
激しい動悸と共に、脳を侵食してくる思いはいつも同じだ。
だが、その後、何もなかったみたいに治る。
『常木さん、あなた、ずっと無理してない? 体調は大丈夫?』
不意に鼓膜で再生されたのは、豊洲FGの田辺のあの言葉だ。
「疲れが溜まっているだけ。私は大丈夫だ」
目黒川の橋の上。水面を横目に、自分に言い聞かせる。が、国道沿いを爆走していった改造車の音に、無惨にかき消された。
リリリリリン──。五分後、トートバッグの社用スマホが、国道の喧騒に負けない音量で鳴る。画面を見る。
「あっ」と思わず声が出る。
〈深堀圭介〉
──そうだった。
慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし、常木です。ごめんね、深堀記者、電話するって言ってたのに」
圭介の周りに誰かがいるのを考慮して、あえて一記者として接する。
「全然、大丈夫だよ。今は実家に帰宅して一人。翠玲は?」
「私も大丈夫。今、帰宅途中だから」
「こんな時間に歩いて帰っているの?」
電話越しの音から翠玲が外を歩いているのを察したらしい圭介が心配する。
「いやぁ、最近、運動不足だからさ。大丈夫だよ。一号線沿いを歩いているし」
先ほどの激しい動悸の件は無論触れない。圭介のことだ。話せば、もっと心配して、シャイン取材にも影響する。
「ごめんね。私から連絡するって言っていたのに、ちょっとバタバタしちゃって」
翠玲は詫びる。
「聞いたよ。また翠玲が上のゴタゴタに巻き込まれたって」
そうだ。今日もキャップの野洲とデスクの連携不足のツケを翠玲が払った。臨時で企業面の二番手原稿を工面したのだ。
〈深堀記者。シャインの件でお話したいことがあります。夜に電話できますか?〉
数時間前、翠玲のそんなショートメッセージに対して圭介は快諾した。なのに、送った翠玲が忙しさのあまり、連絡を失念した。
「本当に連絡しなくて、ごめんね」
再び謝る翠玲に、圭介は笑いながら返す。
「ううん。全然大丈夫だよ。むしろ翠玲の声が聞きたかったし」
その言葉にポッと顔が熱くなる。
言った圭介も何だか恥ずかしくなったのか、軽く咳払いする。
「で、シャインの話って何かな?」
圭介の言葉が翠玲の惚気笑みを消す。
「実はね、シャインの五年前の例の海外子会社の買収にちょっと違和感があって」
「違和感?」
「うん。五年前って、海外子会社の買収だけでなく、もう一つ、シャインにとって大きな変化があったのよ」
「もう一つ?」
「うん。それが監査法人の変更よ」
上場企業は金融商品取引法に則り、有価証券報告書や四半期報告書などの財務書類を開示する義務がある。
この際、「この財務書類の内容は適正だ」とお墨付きを与えるのが監査法人である。別名、「市場の番人」とも言われている。
「監査法人の変更?」
「うん。五年前にシャインは、今のロベリア監査法人に変更しているの。任期満了に伴う定時株主総会での変更で、変更自体はそれほど不自然な話じゃない。だけどね……」
ここからが大事と言わんばかりに、翠玲は一度話を区切る。
「ロベリア監査法人は、総会の数ヶ月前に、例のマニラの海外子会社のデューデリを担当してたらしいの。弁護士のネタ元から聞いたから間違いないわ」
「な、なんと……」
これは圭介も知らない情報だったらしい。
「デューデリ」とは、デューデリジェンスの略。企業がM&Aする際に対象企業の資産や利益が正しいか調査することである。この資産査定に基づいて、買収額は決まっていく。
「ただ、ロベリアって、従業員数は当時も今も十人に満たないのよ。所属する公認会計士数も五人。海外拠点だってない会社が、巨額買収となったマニラの会社のデューデリを本当に出来たのかなって、思ってしまって……」
翠玲は帝都監査法人などビッグ4と呼ばれる大手との違いを補足した。
「あれ……でも、シャインインターナショナル(SI)って、そもそも巨額買収だったの?」
思い出したように圭介は尋ねる。
「うん。五年前、シャインはSIを買収して子会社化した。そして、確かに、その額は非公表だった。でも、五年前の財務三表を見ると、おおよその買収額は分かるの。この買収の不可解さと共に……」
そこで翠玲は神妙な顔になる。
「圭ちゃん、二〇一七年三月期と二〇一八年三月期のBSを見てもらえる?」
財務三表とは損益計算書(PL)、貸借対照表(BS)、キャッシュ・フロー(CF)計算書のこと。電話の向こうから、カタカタとキーボードを叩く音があり、マウスを複数回クリックする音もした。
「はい、開きました」
「のれんの部分を見てみて」
「のれん……二百十億円……?」
「そっ。元々は十億円しかなかったものが、二百十億円になっているでしょ? 一年で二百億も一気にのれんが増えているのよ」
「あっ、確かに」
圭介は食らいつくように翠玲の話についてくる。
「次に、一八年三月期のCF計算書を開いて。そこにある〈連結の範囲の変更を伴う子会社株式の取得に伴う支出〉を見てほしいの」
「えっと……二百二十億円ってあるけど?」
それが何を意味するのかはやはり分かっていない様子だ。
「シャインはこの期、他の企業は買収していない。つまり、この支払った二百二十億円は、全てSIの買収費用ってことになるのよ」
「えっ⁉︎ マニラの会社って、二百二十億円もしたの?」
圭介は心底驚いた様子だ。
「そうだよ。だけど、例え買収プレミアムがあるにしても、これ、高すぎるのよ」
買収プレミアムは、買収額と市場価値との差額を指す。
「買収プレミアムの平均割合は三~四割と言われてる。のれんが二百億円増えたということは、買収額は二百二十億円、企業価値は二十億円。つまり、この買収には、買収プレミアムが実に十一倍もついているのよ」
「そんなことって……」
圭介は息を呑む。
「うん、ありえないの。例え、競合他社との買収合戦になっていたとしても割高すぎる。その結果、シャインはこの年以降、毎年二十億円ののれん償却費が発生している。今も大きく利益を圧迫している要因よ」
翠玲の頭の中では、この五年間のシャインの最終利益の棒グラフが映し出されていた。坂道を転がるかのような右肩下がりだった。
「そして五年前、シャインがSIを買収した二ヶ月後の株主総会で、ロベリア監査法人は正式にシャインの会計監査人になった。圭ちゃん、何か匂わない?」
翠玲の言葉で、電話越しの圭介は呻く。それから何とか言葉を絞り出すように呟いた。
「恩に切るよ翠玲。俺も探ってみる」
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