第六章 数字は語る(2)

 ──輝川隆造は一年前、何の目的でマニラに行ったのか? 彼はそこで何を見たのか?

 昨夜のヒロとカメカンとの緊急のリモート飲みがお開きとなり、ベッドに入った後も、圭介は考え続けた。とても眠れるような心理状態ではなく、シャインについて改めて調べ始めた。

 担当前にざっとではあるが開示は見ている。なのに、改めて見返すと見落としていた部分に気付く。

 圭介がマウスをスクロールする指を止めたのは、昨年五月の二つの開示だ。

〈社外取締役の辞任に関するお知らせ〉

〈社外監査役の辞任に関するお知らせ〉

 昨年四月下旬の龍造急死後、社外取締役と社外監査役が相次いで辞任していた。

 ピピピ──。思案の世界にスマホのアラーム音が入ってくる。

 午前三時、日課であるウィレットのニュースを確認する。シャイン関連は特になかった。

 角谷の店で購入して冷凍保存していたパンを朝食として胃に収めて、自宅を出る。

 自宅前にタクシーを呼ぶ。向かった先は、星崎のヤサである。

 八時まで粘ったが、今日も星崎は出てこない。二日連続で会えていない。海外子会社の不可解リリースの件もあり、圭介の中で焦燥感は募るばかりだった。

 九時には東京本社に出社した。今日は主要な外食企業の決算が三社あり、その準備もしなければならない。外食担当として、シャインだけに集中している訳にはいかないのだ。

 本社十八階の企業部フロアは閑散としていた。GW明け特有の気だるい空気が、社内に滞留していた。

 いざ仕事開始。カタカタとキーボードを叩き始めたその時だった。

「おい、深堀」

 頭上から飛んできた声に顔を上げる。

 企業部長の谷が第七グループの島の横に立っていた。

 ──何でここに谷部長が?

 普段は二十階の編集フロアにいるが、最近は十八階に出没しては記者たちを詰めていた。

「深堀、あの記事は一体、何だよ?」

 ──あの記事?

 圭介が思い出す前に、谷が唾と共に言葉を吐いた。

「シャインの海外子会社の記事だよ。あれじゃ、発表リリースを横から縦にしただけじゃないか」

 トレードマークの前歯が煌めく。

「取材不足! 君には記者としてのプライドがないのか⁉︎」

 ──わざわざそんなことを言うために、ここまで来たのか?

 が、言い訳したら、もっと説教は長くなりそうな気配があった。

「目下、取材中です」

 あまり刺激しないように、圭介は返す。

「どこの誰にだ?」

 ──取材先を言える訳ないだろう。しかも、あんたには特に……。

「……」

 圭介は言い淀む。その瞬間、谷の前歯が一層煌めいた。勝ち誇ったような笑みさえ浮かべていた。

「シャイン株、ようやく寄り付きました。七%安です」

 その声に谷の視線が天井に吊るされたテレビに向かう。経済専門チャンネルの女性キャスターが、売り気配で始まったシャイン株がようやく寄りついたと知らせていた。

 ──なんという間の悪さだ。

 圭介は心の中で舌打ちする。

「急落だな。君の社内評価のようだ」

 嘲笑うように谷は続ける。

「君のせいで、勉強会もしばらくは開催できないからな」

 この間の特オチ騒動の一件を相当、根に持っているらしい。

「本来なら、君のような不出来な記者こそ、勉強会に参加した方が良いのだが」

 ──あれって、若手女性記者を囲ませた局長もてなし会ですよね?

 そんな言葉を言いたい衝動を抑えて、嵐が過ぎるのをひたすら待つ。

「ああ、もう会議の時間じゃないか。忙しいのに全く!」

 九時二十分過ぎ。散々、人の時間を奪っておきながら、柱時計を見た谷は舌打ちをかました。が、舌打ちしたいのは圭介の方だった。

 踵を鳴らして遠ざかっていく谷が、突如くるりと振り返る。

「そうそう」

 さも今思い出したような風だが、これは谷がよく使う演出である。

「局長ともさっき話したんだがね、今回の海外子会社を巡る発表対応も含めて、君にはシャインを担当する能力がやはりない。決算が終わったタイミングで、シャイン担当から外すことになると思うから」

 わざと、フロア全ての人間に聞こえるような声量で言った。出社している記者は少ない。だが、ここは新聞社。たちまちこの話は、社内を駆け巡るだろう。

 谷が消えていった内階段。その近くの第二グループの島には、既に巻の姿があった。視線が交錯した瞬間、あからさまに小馬鹿にするような笑みを浮かべた。

 ──こんなことなら出社しなきゃ良かった。

 圭介は煮えたぎる怒りを何とかコントロールして、決算原稿の準備を進めた。


 そして今。十時過ぎ。ようやく今日の三社の決算準備が終わった。圭介はシャイン関連取材にようやく着手できる状態になった。大きく息を吸い込み、脳に酸素を行き渡らせる。

 取材対象者は、黒須瑛士くろす・えいじ。シャインの元社外取締役の男である。龍造社長が存命だった時、シャインの取締役会は九人で構成されていた。社長の龍造、シャイン四天王の生え抜き四人、そして社外取締役の四人だ。

 東洋キャピタルの星崎、カトレア珈琲社長の榎本、帝国ビバレッジ社長の大川内ら錚々たる面々が集う中、この黒須も社外取の一人として、ボードメンバーだった。

 しかし、定時株主総会の一ヶ月前の五月中旬、黒須は辞任していた。龍造が急死した数週間後のことだ。辞任理由は「一身上の都合」だった。

 ──何かある。

 記者の勘ともいうべき本能が、黒須へのコンタクトへと圭介を駆り立たせた。

 黒須は今、都内で会計事務所を経営していた。丁寧にもホームページ上には、代表電話番号も記載されていた。圭介は迷わず社用スマホでかけてみる。

 ワンコール目で事務員らしき女が出る。黒須への取次ぎをお願いすると、ややあって、しゃがれた声の男が電話口に出てきた。

「はい、黒須です」

「毎経新聞社の深堀と申します。現在、私はシャインベーカリーを担当していまして、日々、取材しております。そんな折り、黒須様が昨年まで社外取締役を務められていたのを知り、取材したくお電話させていただきました。つきましては、一度、お会いする機会をいただけないでしょうか?」

 圭介が話す間、相手はずっと無言だった。

 いや、正確には無言だったからこそ、圭介は一気に要件を話さざるを得なかった。相対していないのに、目に見えない圧が黒須からは感じられたのだ。

 数秒の間が数十秒に感じられた。大きく息を吸い込む音を圭介の鼓膜が認識したのとほぼ同時。キャノン砲のような怒声が電話越しで炸裂した。

「俺はシャインの社外取を一年も前に辞めているんだぞ! もう関係ねぇし、関わりたくもねぇんだ! 良いか? 二度と電話してくんな!」

 圭介の鼓膜のみならず、頭蓋までも揺らす。

 その後、聞こえてきたツーツーツーという不通音すらも何だか痛くて、圭介はこの日一番のため息を吐いた。


「圭介さん、大丈夫ですか?」

 どのくらいそうしていただろうか。ぼやけていた視界をその声が明瞭にさせる。出社してきたコミショウが隣席に立っていた。

「コミショウ……」

 思ったほど声が出なかった。とりあえず、先ほどの黒須との一件を掻い摘んで話す。コミショウは何度か頷きながら、包み込むような笑みで、相槌を打つ。

 ──これじゃ、どっちが先輩か分からない。

「圭介さん、ちょっと早いですけど、せっかくですし、ランチ行きません? 食べながら作戦会議ということで」

 話が終わると、唐突にコミショウが提案してくる。圭介自身、本社にこれ以上いたくない気持ちがあった。だから快諾する。

「私の行きつけのお店で良いですか?」

 半ばコミショウに導かれるままやってきたのは、茅場町駅から徒歩十分の裏道の寿司屋。外観からも知る人ぞ知る感が滲み出ている。

 二人ともが午後から東証の兜倶楽部にて、複数の決算会見を抱えている。立地的にも、時間的にも、ちょうど良かった。

「大将、いつものおまかせ二つで」

 コミショウは店内に入ると、カウンター内の店主と挨拶を交わして、圭介の分もランチをオーダーする。それから畳の小上がり席に着座すると、圭介と木彫りの机を介して向かい合った。言葉といい、振る舞いといい、何だか達観していた。

 ──コミショウの中身って、実は飲み屋にいるおじさん?

 それから、ランチが来るまで、お茶を啜りながら、作戦会議を始める。

「社外取の黒須さんはダメだったから、社外監査役だった大学教授に取材しようと思う。その人の番号は知らないから、大学内で張って、直当たりしようかな」

 谷からクビ予告を受けたばかり。圭介に残された時間は少ない。そのこともあり、焦っていた。

「そんなことしたら、絶対ダメですよ圭介さん」

 コミショウは首を大きく横に振った。

「記者が大学構内に入って、逮捕された事件を知らないんですか?」

 そう言って、コミショウが言及したのは建造物侵入容疑で現行犯逮捕された事件だ。

 ──確かにそんな事件があったな。

 しかし、今週末(十三日の金曜日)には、シャインの決算が迫る。兜倶楽部で開かれる決算会見には、星崎社長も出席予定だ。日に日に注目度も高まっており、各社の記者の参戦は必至だろう。シャイン本社で会った全国紙の経済部記者たちの顔が脳裏を掠める。

「ちなみに、その人の名前は?」

 コミショウがスマホを取り出す。どうやら調べるようだ。

「えっと……」

「シャインの社外監査役だった大学教授の名前です」

「ああ……えっと、三本木千里さんぼんぎ・ちさとって人かな、確か」

 記憶を辿るように、圭介は木目調の天井に視線を這わす。

「えっ⁉︎」

 コミショウが顔を上げていた。

「その人って、白桜はくおう女子のですか?」

 ちゃぶ台返ししそうな勢いで、前のめりで圭介に問うてくる。

「うん、そうだけど……」

「それ、私の母校ですよ! それに知っていますよ、三本木教授。私も確か講義をとっていました。みんなから『チーちゃん』って言われて、人気の教授でしたよ」

 過去を懐かしむように、コミショウの明るい声が弾ける。

「な、なんと……」

 遠い目をして少し思案する間を挟んでから、コミショウはニッと笑う。子供がいたずらを思いついた時の笑みそのものだった。

「圭介さん、私、良いこと考えました。今週中に取材できるようにしますから、この件、私に一任していただけませんか?」

「へい、お待ち」

 ちょうどおまかせ寿司セットが卓上に来て、会話は終わる。


「二日後の水曜日午前にアポ取れましたぁ」

 コミショウが、圭介に電話でそう報告してきたのは、その日の夜のことである。

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