第五章 魔法の粉(4)

「私は元々、静岡の焼津で小さなパン屋を経営していたの」

「焼津? 角谷さんって、新卒でシャインに入社したんじゃないんですか?」

「うん、違うわ。焼津は漁業が盛んな街だから、地元のマグロやカツオ、サバなんかを使ったパンを作ったりしてね。そこそこ人気だったのよ。そんなある日、龍造さんが突然現れたの」

 当時を懐かしむように角谷は目を細めた。

「龍造さんはふらりと店内に入ってくると、複数のパンを購入した。海が一望できる店のイートインスペースで、それから一人で黙々と食べ始めてね。一度も見かけたことがなかったのもあって、厨房から何となく視線を向けていたの。だからその……龍造さんが、突然、肩を震わせているのを見た時は驚いたわ。言い方が悪いけど、喉に何か詰まっちゃったのかなと思って、急いでフロアに出たの」

 角谷は白い歯を見せる。

「でも、歩み寄ってみると違った。龍造さんは、夕焼けが映える海を眺めながら『おいしい、おいしい』と声を漏らして、子供のように泣きじゃくっていたの。私、びっくりしちゃって。その場に立ち尽くしちゃった」

 角谷は当時の戸惑いそのままに苦笑する。

「しばらくして、背後に立つ私に気付くと、涙を拭いて、笑みを浮かべたの。それから、なんて切り出したと思う?」

 圭介は首を傾げる。

「『FC契約してくれないか』って言ったのよ。もう無茶苦茶でしょ? その日、初めて会った上に、こっちは急に泣かれて、ビックリしていたんだから」

 角谷は呆れ顔で笑う。

「確かにそれは無茶苦茶ですね」

 圭介は会ったことがないにもかかわらず、龍造らしさを感じていた。

「その後も何度か足を運んでくれて、結局は私の方が折れた。今から十年前、FC契約して、私の店は『モグモグ焼津店』に生まれ変わったの。龍造さんは社長でしょ? 忙しいはずなのに、一ヶ月に一回は焼津の店に顔を出してくれた。売り上げ面でもFC効果はあったから、感謝しかなかった」

 ──そう言えば、三國さんの店にも計十回、通ったって言ってたよな。

 創業者特有のバイタリティが龍造には備わっていたようだ。

「それから数年が経ったある日、龍造さんは『シャイン本社の商品開発部に来て欲しい』って私に打診してきた」

 角谷の物語は新局面を迎える。

「もちろん、初めは断っていたわ。焼津の街が好きだったし、あの大企業、シャインに私が入社するなんて、何だか分不相応な気がした。でも、娘が高校を卒業して、夫も『東京に移住するのも良いんじゃないか』って、言ってくれて……」

 ──あれ? 角谷さんって三十代前後だよね? なのに娘さんが高校卒業?

 思わず横に座る角谷の顔をじっと見つめる。西陽に照らされた肌は小麦粉のように白い。シワ一つない透き通った肌だった。福耳につけたイヤリングが揺れ、夕日に煌めいていた。

 視線に気付いたのか、角谷が向く。

「何か?」

 慌てて圭介は視線を逸らす。

「いえ……えっと、それで、シャインの社員には、いつなったのですか」

 無理やり、話を本線に戻す。意図せずダジャレのような問いになる。

「三年前よ。信頼できる人に焼津の店は託して、私は夫とともに東京にやってきた」

 東京編へと物語は進んでいく。

「商品開発部員として、モグモグの新商品を開発する日々が始まったの。本当に楽しかった。元々、新しいパンを作るのが好きだし、部員もみんないい人ばかりで……。終電で帰って、始発で出勤することも多かったけど、全然、苦じゃなかったの」

 角谷は過去の幸せを網膜に焼き付けるように、ゆっくりと目を閉じた。

「入社して一年半後には商品開発部長に任命された。正直、『入社したばかりの私で良いのかな?』って思った。だけど、龍造社長の強い要望に加えて、部内の皆さんも祝福してくれた。当時、シャインの業績も苦しくなり始めていたし『私の商品でシャインを絶対に立て直してやる』そんな決意を胸に秘めて、商品開発部長の任を受けた」

 角谷の横顔は、龍造に負けず劣らずといったバイタリティを漲らせていた。

「実は今のベーカリーカフェバー業態もね、商品開発部長時代に私が提案したものなのよ。商品だけじゃなくて、居心地やすさも提供するのがベーカリーの役目じゃないかって、ずっと思っていたから。夜はバー、昼はカフェで、パンの味を楽しんでもらうのって面白いんじゃないかと思って。ここだけの話だけど、夜がかなり貢献してくれていて、こっちの方もなかなか順調なのよ」

 角谷は親指と人差し指で円を作る。商売人の顔も覗かせた。

「だけど昨年四月、龍造さんはあの痛ましい事故で亡くなった。そして私は、後継社長の誠さんと激しく衝突してしまった」

 角谷の声質が明らかに暗くなる。口を真一文字に結んで、上空の航空機を儚げに見上げていた。

「龍造さんが亡くなってすぐ、シャイン四天王の一人、大鷲常務が社長代行となった。四天王の支援もあって、誠さんが六月の総会で社長になる道筋が早々に決まった。誠さんも五月初旬には、社長室を使い始めて、実質的な社長として振る舞い始めた。まさに一年前の今の時期よ。そして私は……商品開発に励む中で、気付いてしまった。魔法の粉の味が変わっているって」

 物語の歯車が軋む。

「魔法の粉の調合は、シャインの中でもトップシークレット。調達部が北海道の三つの小麦農家と独占契約して購入し、それを製粉三社のそれぞれの工場で小麦粉に加工する。シャインの自社工場にて、それら三つの小麦粉を黄金比率でブレンドして作られたものなの。龍造社長自身が研究に研究を重ねて、ようやく辿り着いた秘伝の粉だった。だけど……」

 角谷は大きく嘆息する。上空の航空機を見つめながら、言葉をようやく吐き出す。

「もう今は、魔法の粉じゃない」

「一体、何があったんです?」

 間髪入れずに圭介は問う。魔法の粉の秘密のドアに、ようやく圭介の手が触れる。

「深堀さん、小麦にはね、品質のグレードがあるの。龍造社長は生前、シャイン独自のAからDまでの評価基準を設けた。そして、魔法の粉に使うのは、Aに分類された小麦のみ。それがあの上質な粉を生み出していた」

 厳選された国産小麦のみを使用──。シャインの代名詞の言葉を圭介は思い出すが……。

「ま、まさか……」

 角谷が今から指摘しようとしていることが明確に分かった。

「そう。シャインは、龍造さんの死後、一部の製粉大手に依頼してBやC評価の小麦も使うようになった。品質の低い小麦が魔法の粉に混ざり始めたのよ」

「そ、そんな……」

 圭介はうめく。

「おそらく原因は、世界的な小麦価格の高騰よ。これを見て欲しいの」

 角谷はスマホを取り出す。

 爪が横に大きい特徴的な親指で、画面を器用に操作する。一般的な文字の打ち方であるフリック入力ではなく、何度もタップして文字を打つトグル入力。何だか物珍しくて、圭介は角谷の指の動きに目を奪われていた。

「輸入小麦の政府売渡価格って知ってる?」

 画面をタップしながら角谷は尋ねる。

「はい、知っています」

 圭介は即答する。

 政府が輸入した小麦を製粉会社などに売り渡す際の価格のことだ。主要五銘柄加重平均の一トン当たりの金額を毎年四月と十月に見直して発表している。

 全ては沙希の受け売りだが、圭介は「担当として当然です」と言わんばかりに、角谷に知識を披露した。

「さすがね。じゃあ話が早いわ。これを見て欲しいの」

 数秒後。スマホ画面には、折れ線グラフが表示されていた。右肩上がりだが、右に行くほど急斜面になる。もはや断崖絶壁と言えた。

「これが輸入小麦の政府売渡価格の推移よ」

 圭介はハッとする。

 沙希からも「国際的な小麦価格が急騰している」とは聞いていた。が、そこには圭介の想像を遥かに凌ぐ世界が広がっていた。

 二〇二〇年十月 → 四万九二一〇円

 二〇二一年四月 → 五万一九三〇円

 二〇二一年十月 → 六万一八二〇円

 二〇二二年四月 → 七万二五三〇円

 この一年半で、実に五割弱も価格が急上昇していた。素人の圭介でも、その異常さが分かる。

「こ、こんなにも⁉︎」

 圭介の眉間に皺が寄る。角谷も釣られるように顔をしかめていた。

 ──んっ、だけど?

 圭介は違和感にすぐに気付く。

「でも、シャインの小麦は全て国産ですよね? 輸入小麦は使っていないはずです」

「その通りよ」

 角谷は深く頷いてから、言葉を紡ぐ。

「でも国産と海外産は切って離せないのよ。輸入小麦が高騰したことで、国産小麦の需要が高まった。つまり、国産小麦の価格も大幅に上昇したのよ。これまで割安な輸入小麦を使っていたメーカーが、こぞって国産小麦の購入に動き始めた」

 それから、角谷は有名な国産小麦銘柄の落札価格が、どれくらい上がっているかを具体的なデータによって示した。

 輸入小麦価格が急騰したことで、国産小麦価格も急騰する──。盲点だった。

「国内の小麦農家も値上げラッシュ。上質な国内小麦を以前の価格で購入するのが難しくなる中で、シャインは……」

 角谷は言い淀む。悔しさで顔を歪めるような顔だった。

「質の低い小麦を購入し、魔法の粉に混ぜ始めた」

「うん。最初はB級を混ぜる程度だったのが、次第にC級を混ぜるようになった。どんどん、その比重は高くなった。今はもしかしたら、D級まで混ぜているかもしれない」

 角谷は唇を噛み締めていた。

「なぜ、そんなことを……」

 角谷は大きく首を振る。

「私もそれは分からない。業績不振を抜け出すために、原料調達費用を少しでも安く抑えようとしたのかもしれない」

「だからって、魔法の粉を細工するなんて……」

「そうよ。私も同じ気持ちだった。龍造社長が死去した直後に、魔法の粉を改悪するなんて、冒涜でしかないと思った」

 角谷の瞳に怒りの炎が迸る。

「だから一年前、私は製粉大手三社や北海道の契約小麦農家を実際に訪問して、調査した。その結果、シャインの調達部が品質が低い小麦を購入している事実に行き当たった」

 魔法の粉を巡る物語は、いよいよクライマックスに突入する。

「昨年六月初旬、調査データとともに、社長室に向かったの。さっき言ったように、シャイン四天王の後ろ盾のもとで、誠さんはこの時、事実上の社長として、日々業務をこなしていた。私が訪問した際には、誠さんを守るように、四天王の四人もいたわ」

 その情景を思い浮かべるだけでも、圭介は息苦しさを感じた。

「結果的に言うと、誠さんは聞く耳を持たなかった。『そんな不正はない。常盤調達部長にもヒアリングをして、不正がないことは確認している』との主張に終始した。私の調査では、その常盤さん自身が不正をしていたというのに……」

 角谷の表情には哀愁が漂っていた。

「だから私、叫んだんです。『誠社長、じゃあパンを食べてみてください。そうすれば、小麦粉の質が明らかに低下していると分かります。これは龍造さんへの侮辱です。食べれば分かりますから、食べてください!』って。そしたら、鬼の形相に変わって、私に言い返してきたんです」

「角谷さん! あんたが父の何を知っている⁉︎ 今の社長は僕だ!」

「あまりの剣幕に、私、そのまま立ち尽くしてしまって……。結局、その日はそれ以上、追及できませんでした。そして、二週間後、総会で正式に社長になった誠さんは、私を商品開発部長職から解任しました」

『社内で大した仕事もしない輩が、私の意見に反対してきたんです。無論、当該社員は左遷しましたけどね』

 そういえば、先日の取材で、誠はそう言っていた。

 ──角谷さんのことだったのかよ。

 圭介は拳をギュッと握る。

「後任の商品開発部長は、調達部長だった常盤さんが兼務することになりました。そして、私は商品開発部からも追い出されて、昨年八月にオープンしたこのFC店の店長になりました。私は……ただ……美味しいパンが作りたかっただけなのに」

 隅田川を見る視線は、もの悲しかった。

 頬を撫でる柔らかい初夏の風が、それからの二人の沈黙をかろうじて繋いでいた。


「だけどね、深堀さん。今は私、ここに左遷されて、本当に良かったって思ってるのよ」

 唐突に角谷が言葉を発する。

「良かった?」

 言葉の真意が分からず、圭介は問い返す。

「そう。私の店で使用している小麦粉だけは、引き続き三つの北海道農家から調達したA級の小麦粉を使っている。私独自で研究を重ねて、魔法の粉を再現しているのよ。だからこそ、品質にこだわり抜いた納得のいくパンを自由に作れている。皮肉だけど、ここに左遷されたからこそ、やりたかったことを実現できているのよ」

 角谷は微笑んだ。

「それに、あなたとも偶然、出会えたしね」

 その言葉に接して、圭介は思う。

 ──決して偶然ではない。

 半年前、デスクに理不尽なことで怒鳴られて、圭介は会社を出て彷徨い、角谷の店を見つけた。

 だが、常連になったのは、パンがどこよりも美味しかったからだ。アットホームな雰囲気に居心地の良さを感じたからだ。角谷が店長だったからこそだ。

 例えあの時でなくても、角谷の店に圭介は辿り着いていたと思う。だとしたら──。

「いえ、この出会いは運命だと思います」

 圭介はこの幸せを噛み締めるように笑みを返した。

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