第五章 魔法の粉(3)
五月晴れを象徴するような日だった。開け放たれた窓の近くの席に座る圭介を初夏の風が撫でる。その風に身を委ねるように、圭介はコーヒーを片手に、ぼんやりと外の景色を眺めていた。この時間、店内の客はまばらだ。眼前に広がる雄大な隅田川の流れの如く、このカフェバーにも穏やかな時間が流れていた。
五月七日土曜日の午後四時。九条製粉の菅沼を訪問した二日後。圭介は今、憩いの場であるベーカリーカフェバー・シャインで、至福のひと時を堪能していた。
「はい、深堀さん、これサービス」
「カドタニ店長!」
香ばしいパンの匂いと共に圭介の席にやってきたのは、店長の角谷だ。
机上の皿の上には、黒い斑点が散りばめられた四角いパンが置かれている。湯気が立っている様子から、焼きたてなのが分かる。
「えっ、いいんですか。んっ、これは?」
圭介は目を見開く。グッと顔を近づけ、白い皿の上に置かれたパンを凝視する。
芳醇なバターの香りとともに、酸味を帯びたフルーティーな香りも鼻腔をくすぐる。
「レーズンバターパンよ」
「ほぉ」
「北海道産のバターを使った試作品なの。冷めないうちに食べてね」
「じゃあ、遠慮なく」
パクリ──。圭介は頬張る。
ほっぺたが落ちるなんて、稚拙な表現はしたくない。が、そんな表現を思わず使いたくなるほど、頬がじんとした。
狂おしいほどの美味だった。ふんわりとしたパン生地から感じる上質な小麦の味。濃厚なバターとレーズンの酸味が織りなすハーモニー。それらを堪能するように、圭介はしばらく舌の上で転がしていた。
「美味しいよぉ……」
そんな声が漏れる。
「それなら、良かったわ」
角谷も
今日もコックコートにエプロン、コック帽という「THEパン職人」の出立ちだった。
「ゴールデンウィークで休みの企業も多いのに、こんな日もお仕事だなんて……。深堀記者さんも大変ねぇ。忙しいのにいつも来てくれてありがとね」
お仕事の邪魔をしないようにと言う風に、おかわり自由のホットコーヒーを注ぎ終えると、角谷はその場を辞去する。
──切り出すなら今しかない。
圭介は軽く拳を握る。それから単刀直入に切り出す。
「ちょっとお時間良いですか?」
「うん……」
圭介の雰囲気に、直立した角谷はキョトンとした表情で見下ろしていた。
「実はカドタニ店長に取材をしたくて今日はここに来たんです。いや……」
圭介は首を振る。
「シャインベーカリー元商品開発部長、カドヤ・ミキさん。あなたに取材をするために来ました」
圭介が言った瞬間、まるで石像にでもされたかのように角谷は静止した。
「思い込みって本当に怖いです。記者失格です」
圭介は自嘲するような笑みで続ける。
「まず、僕はずっとカクタニ店長って呼んでいましたね。でも、本当はカドヤ店長だったんですね。ごめんなさい」
ここは圭介も羨むようなアットホームな職場である。半年前。初めて訪れた際、角谷はスタッフ達から「カクちゃん」の愛称で呼ばれていた。胸のネームプレートには〈角谷〉の文字。圭介はその瞬間、「カクタニ」だと思い込んだ。
──思えば、フカテック現社長の
「数週間前、僕が輝川誠さんと顔見知りかどうかをあなたに尋ねた際、確か自らは『ただのフランチャイズの雇われ店長だ』と強調しましたよね?」
私が知っていると思う?──。あの時、角谷はそんな表情で、圭介に笑みを返した。
「確かに今は、雇われ店長かもしれません。でも一年前は違いましたよね? あなたはシャイン本社の商品開発部長で、輝川誠さんとも、当然、関わりがあったはずだ」
そして、話は核心に進む。
「あなたは、シャインの『魔法の粉』の味の変化にいち早く気付いた。そして、商品開発部長として疑惑を調査し始めたんです」
「魔法の粉」という言葉が出た瞬間、角谷の瞳が微かに揺れた。
「僕、このGWだけで、約三十のFC店を渡り歩きました」
圭介がカバンから取り出したのは、取材ノートだ。開いたノートには、三十店の業態や内装、味、店長などの情報がビッシリと書かれていた。
「やっぱり、この店のパンが一番美味しかったんです」
「美味しかった?」
「そうです。このベーカリーカフェバー・シャインのパンが、ダントツで美味しかった。それこそが、魔法の粉の疑惑にたどり着くきっかけとなりました」
角谷からすぐに返答はない。その内部で何かに思いを巡らせているのが、圭介にもひしひしと伝わってきた。
「美味しいか……」
しばらくして、角谷は笑みとともに吐く。いつもの柔らかな表情が戻っていた。
それから、不意にくるりと踵を返す。
──逃げる気?
「あの……角谷店長」
その背中に圭介は困惑気味に問う。
ゆっくりと振り返った角谷は笑みで返す。
「店内だと他の人の目もあるから外で話したいの。着替えてから向かうから、遊歩道のベンチで待っていてくれないかしら?」
窓の外を一瞥する。ここからは見えないが、視線の先の遊歩道にはベンチがあるらしい。
「分かりました。ありがとうございます」
圭介は深々と頭を下げて、先に店を出た。
それから十分後。圭介は今、角谷と共に隅田川沿いの遊歩道のベンチに座っている。西陽を浴びた角谷の横顔は、はっきりとした目鼻立ちが強調されて、美しさが際立っていた。
「三十店も回るなんて、なかなかガッツあるね、深堀さん」
微笑んだ角谷の口調は、呆れと驚き、敬意が入り混じっていた。
「僕は今、シャイン担当ですから」
記者として当然です──。そう言わんばかりに胸を張ったが、それほどまでに圭介は必死だったのだ。
「あるパン職人の方が魔法の粉の存在を教えてくれたんです。同時にその方は言いました。『魔法の粉の質が落ちている気がする』と」
無論、三國の話である。
「その後、色んなご縁があって、九条製粉の横浜工場を訪ねることもできました。そこで担当者の方にお話を聞きました」
「あなたも菅谷工場長に会いに行ったわけか」
角谷は笑った。
「はい、実は……」
「担当者」という表現であえて名前を伏せたが、出されては認めるしかない。
「その後の追加取材でわかりました。角谷さんは、日の丸製粉やみのり製粉といったシャインが契約している他の大手にもヒアリングをしたんですよね。シャインの小麦生産を担う北海道の農家を直接訪問するとも話していたんですよね?」
「もう、菅谷工場長ったら、本当におしゃべりね」
角谷は膨れ面を作ったが、言葉とは裏腹に、口調は穏やかだった。
「でも、その時はまさか、カドヤさんなる人物があなただとは思いませんでした。気付いた時は本当にびっくりしましたよ」
菅谷から電話があり、角谷の顔が頭の中ではっきり見えた瞬間を圭介は思い出す。
「調べたら、昨年六月に商品開発部長が不可解な形で退任しているのが分かりました。退任したのは角谷さんでした。僕にはそれが、魔法の粉の品質低下疑惑と切り離せないような気がして」
角谷はしばらく、西の空を眺めていた。沈みゆく夕陽は、まるで、この一年の自らの不遇の日々を重ねているようだった。
「全てお見通しか……。さすが、深堀さんは記者さんね」
角谷はようやく言葉を紡ぐ。浮かべた微笑はあまりにも儚い。眼前の隅田川の流れの如く、ゆっくりと話し始めたのは、波乱万丈の物語だった。
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