第五章 魔法の粉(2)
「シャインの魔法の粉に、外国産小麦が混ざっている? つまり、その三國さんなる熟練パン職人がそう言ったの?」
沙希は口に運びかけたコーヒーカップを止めて、圭介に問うた。
三國の店を後にして数時間後。今、圭介は夕食後のリビングで沙希と向かい合っていた。
「うん。一年くらい前から『魔法の粉の風味が低下した』って。生地をこねる時に粉の吸水力が強すぎるとかで『思った以上にパンにボリュームが出ちゃう』とも言ってたな」
さながら伝言ゲーム。圭介は三國から聞いた話をそのまま沙希に告げる。
「ふむ。なるほど……」
沙希は机で頬杖をつき、探偵さながらに顎をさする。
「外国産小麦を使い始めたのかも。外国産は、国産と比べて
「灰分」や「グルテン」と言った圭介が知らないワードを交えて、沙希は一人、推理を展開していた。圭介はそれをじっと眺めていた。
沙希は総合商社二位の九条物産にて、入社以来、食品や飲料の原料調達を担う流通事業部に在籍している。
そして、入社一年目には、なんと外国産麦の調達担当だったらしい。
圭介がそれを知ったのは実は昨日。連日、パン屋に通い詰める圭介に「パンのことなら何でも聞いて」と、かつて調達担当をだった過去を明らかにした。
まさに灯台下暗し。ブラコンぶりに拍車がかかってきた沙希と距離を置いていたのが、仇になった。
「すまん、沙希、本当に初歩的な質問なんだけど……」
圭介はそう言って小麦のあれこれについて、沙希に頭を下げて問う。
「私も忙しいのに。もう仕方がないなぁ」
言葉とは裏腹に、沙希は嬉しそうだった。
それから三十分間。沙希と圭介の関係は、さながら先生と生徒だった。
沙希の話をまとめるとこうだ。
・日本では外国産と国産の小麦が流通しているが、実に八割超が外国産。
・国産小麦は民間流通で取引されている。一方、外国産小麦は政府(農林水産省)が管轄し、商社を介して小麦を買い付けている。
・沙希は一年目で、米国産など主要五銘柄の小麦の輸入を担当していた。
・政府は半年ごとに輸入小麦の政府売渡価格を改定。最近はその価格が急騰している。
・輸入された小麦は製粉会社に渡り、そこで小麦粉に加工される。
・小麦粉にも種類がある。タンパク質の含有量が多いものから「強力粉」「準強力粉」「中力粉」「薄力粉」である。
・パンに適しているのは強力粉、中華麺は準強力粉、うどんは中力粉、お菓子は薄力粉。
・一般的には、国産小麦の方が外国産より価格は高い。
「実はね、シャインが使用している小麦粉の一部も、ウチが加工しているんだよ」
最後に、そんなとっておき情報を添えて、沙希先生の授業は終了した。
「じゃあ、魔法の粉は物産が作ってるの⁉︎」
圭介は前のめりに問う。
「んー、それは違うかな。あくまでもウチ、というか子会社の九条製粉は、一部の小麦粉を納入しているだけ。魔法の粉は、シャインが自社工場で複数の小麦粉をブレンドしたものを指すんじゃないかな?」
圭介は何度か頷いてから切り出す。
「沙希、九条製粉の担当者にどうにか会うことはできないだろうか」
「妹がいつもお世話になっております。ご無理を言って申し訳ございません」
翌日午後。圭介は九条製粉横浜工場の管理棟内にある応接室にいた。
──沙希、優秀すぎるよ。まさか、翌日にアポを取るなんて。
先ほど、相手から差し出された名刺には、〈
──しかも工場長なんて。
「いやいや、こっちも退屈でねぇ」
菅沼は白い歯を見せる。
「菅沼さん、少しお痩せになったんじゃないですか?」
透かさず、傍の沙希が笑う。成り行き上、沙希も取材に同席することになった。
──これでお痩せになったの?
圭介は眼前の菅沼を観察する。
小麦色の肌に恵比寿顔。太鼓腹という体型も相まって、何だか某ゆるキャラに似ていた。年齢は五十台半ばといったところか?
「今、ゴールデンウィーク(GW)中でしょ? 週明けの九日まで休みって企業も多いから、ウチも生産調整中でね」
菅沼は閑散とした工場エリアを一瞥した。
それからは雑談となった。沙希が菅沼との昔の思い出を語り、良い具合に場が和む。
──そろそろ頃合いか。
「実は私、今、シャインベーカリーを担当していまして……」
圭介の唐突な言葉に、その瞬間、菅沼が目を見開く。「はいはい」と何度か頷くとともに、驚きは顔の中枢に吸い込まれていく。やがて残ったのは、同情的な表情だけだった。
「今、社長が解任されて、何かと話題になっておりますね。大変ですなぁ。ウチもシャインさんには複数の商品を卸させてもらってますから、影響がないかが心配です」
「影響はないですか?」
「今のところは何もありませんな」
表情に嘘はなさそうだ。
「担当になってから、勉強も兼ねて、モグモグの各店舗を回っております。そこで、ある店主から気になるお話を聞きました。魔法の粉についてです」
「魔法の粉……ですか? 確かシャインが独自でブレンドしているやつですよね?」
さすがは製粉工場の長。もちろん魔法の粉については知っていた。
「はい。実はその魔法が解けているって噂がを耳にしまして」
「解けている? どういうことです?」
菅沼の恵比寿顔が崩れ、怪訝な表情を浮かび上がる。
「ある店主の方がおしゃったんです。『ここ一年で魔法の粉の質が変わっている』って」
「質が変わっている?」
菅沼は目が絞られる。
「あの失礼を承知でお尋ねします」
そう前置きしてから圭介は問う。
「御社がシャインに納入している小麦粉が、実は外国産に変わった。そんなことはありませんか?」
「まさか! そんなのありえませんよ」
菅沼の反応は早かった。呆れと微量の怒りを伴った反論だった。
「個別企業との取引内容については立場上、お答えできません。ですが、これだけは強調します。ウチは厳選した国内産の小麦しかシャインには納入していません」
そこには製粉会社に身を捧げてきた菅沼のプライドを感じた。
「ウチは一切、小麦の品質を変えていませんよ」
「ウチは」という部分が妙に引っかかる言い方だった。
「『ウチは』ってことは、他の社は変えているのですか? 菅沼さん、何かご存知なんじゃないですか?」
そう問うたのは傍の沙希だった。本物の記者のようなキレがその質問にはあった。
「うーん、まぁ……」
菅沼は言い淀む。その姿に圭介も確信する。
──菅沼さんは何かを知っている。
「それって、凄く重要なことだと思うんです。この通り、お願いします」
ここが勝負所。圭介は座ったまま、深く頭を下げる。それに沙希も追随する。
「そんなこと言われてもなぁ」
しばしの間を挟んだ後、菅沼は黙考する。それから「ふー」と嘆息すると、根負けしたように口を開く。
「実は、今回の深堀さんと同じような問いをある女性にされたんです」
「ま、まさか……他にも尋ねてきた記者がいたんですか⁉︎」
心にさざなみが立つ。脳内ではウィレットの遊田のシルエットが浮かんでいた。
「いえ、記者さんではありませんよ。その方は、シャインの商品開発部長の方でした」
意外だった。
「商品開発部長? というと……常盤さんですか?」
四月に解任されたシャイン四天王の一人、常盤勤の名前が浮かぶ。
しかし、すぐに気付く。
──違う。だって、常盤は男だ。
「違います。その方の名前は……」
言うか言わぬかを逡巡する間を挟んでから、ポツリ吐く。
「カドヤさんという方です」
「カドヤさん……」
──常盤の後任の商品開発部長?
「そのカドヤさんは、いつ、こちらに来られたんです?」
「今から一年前ですね」
「い、一年前⁉︎」
圭介は声が上擦る。
「菅沼さん、ちょっと待ってください。今から一年も前に、今回の私と同じように、魔法の粉の品質を疑って、尋ねてきたシャイン関係者がいるのですか?」
にわかには信じられない話だった。
「そうです……」
それから菅沼が明かした追加情報に圭介は圧倒されるばかりだった。
驚きのままに、取材は終わった。
「あの菅沼さん。もし分かったらで良いのですが、そのカドヤさんという方のフルネームを教えていただけませんか?」
応接室を辞去する直前、圭介は尋ねる。
「うーん……」
知っている知らない以前に、これ以上、情報を圭介に与えて良いのものかを悩んでいる感があった。
「菅沼さん、私からもお願いします」
沙希のその言葉が決め手になった。
「後で名刺を探して、深堀さんに連絡するという形でも良いですか?」
「もちろんです」
深謝して、圭介は沙希と共に横浜工場を後にした。
帰宅後、圭介はリビングにて沙希と向かい合っていた。机上には、二十四個のクロワッサンがずらり。GW中に訪問した二十四の店舗で購入したものを冷凍保存していた。それを先ほどレンジで温めたのだ。
「では、いただきますか」
クロワッサンをナイフで、一口サイズに切っては、沙希の皿にも取り分ける。食べる前から胃もたれ感があったが、仕事と割り切って次々、口にしていく。
沙希とともに二十四個をようやく完食した頃には一時間近くが経過していた。
「店舗によって、やっぱ全然、味が違うね。職人によって、こんなに味に差が出るんだ」
圭介はしみじみ言う。
「でも、やっぱり、ここの店のがダントツで美味しいな」
圭介が指さしたのは、憩いの場であるベーカリーカフェバー・シャインのクロワッサンだった。
「ねっ! 私もそうだと思う」
沙希も深く頷く。淡々と意見を述べる様は、何だか将棋の感想戦のようだった。
「だけど、お兄ちゃん。ここの味が美味しいのは職人の腕だけじゃないと思う」
突然、沙希は妙なことを言い出す。
「腕だけじゃない?」
沙希は軽く頷く。
「私、この間も言ったけどね、このお店のパンだけ、やっぱり使っている小麦が違う」
「えっ⁉︎ まさか……」
思わぬ話の成り行きに圭介は固まる。
リリリリン──。突如、静寂を蹴破ったのは、机上の圭介の社用スマホだった。
「お兄ちゃん、ビックリするから、マナーモードにしておいてよ!」
「ごめんごめん」
慌てて手に取ったスマホの画面には、先ほど登録したばかりの〈菅沼信太〉の表示があった。
「ああ、深堀さん、夜分に突然失礼します」
挨拶もそこそこに菅沼は本題を切り出す。
「あれから、キャビネットを探したらカドヤさんの名刺が見つかりましたよ」
見つけるのに相当苦労したらしく、菅沼の声は弾んでいた。
「本当ですか⁉︎ ありがとうございます」
「ええ。フルネームなんですが……」
菅沼は早速、本題を切り出す。
「商品開発部長だったカドヤ・ミキさんという方です」
「カドヤ・ミキ……」
記者と染み付いた癖。圭介は早速、漢字を
──まさか……そんな。
「もしかして、その人の特徴って……」
圭介はゆっくりと菅沼に問うた。
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