第五章 魔法の粉(1)
五月四日午後。ゴールデンウィーク真っ只中。都内で観光地と化しているその商店街は人で溢れていた。
が、商店街に面しているこのモグモグの看板を掲げたパン屋だけは、その勢いを享受できていなかった。店外のショーケースの前で、何人かが足を止めるものの、購入には至らない。対面のオシャレなカフェや高級食パン店へと流れていく。
圭介は今、モグモグに入り、ずらりと並んだ商品棚のパンからお目当ての品を取る。店内用とテイクアウト用を一つずつ購入し、通りに面した位置に四席だけあるイートイン席の一つに座った。
購入したばかりのクロワッサンを頬張る。
サクッ──。表面はサクサクだ。それでいて中はもっちりと弾力がある。芳醇なバターの香りが鼻から抜けていく。
「美味しい」
圭介は顔を綻ばせながら、スマホのメモ帳に評価を記載していく。
「兄ちゃん、随分うまそうに食うねぇ」
背後から声がした。圭介が振り返った先には、コック帽を被った初老の男。びっしりと生えた主張の強い太い眉が特徴だ。どうみてもこの店のパン職人だった。
胸のネームプレートに目がいく。そこには、〈店主〉という肩書きとともに〈
「他店舗よりもバターの風味が強い気がします。甘さの中にコクもあって、凄く美味しいです」
圭介は笑みで返す。
「何だい兄ちゃん、わけぇのに良い舌を持ってるじゃねぇか? よく分かってるなぁ。実はバターを多めに入れている」
原料や熟成方法、焼き方……。店主は腕を組みながら、こだわりについて一分くらい語った。語り終えると急に黙る。
──んっ? どうした?
圭介が見上げると、太い眉の片方がピクリと釣り上がっていた。訝るような眼差しで、三國は尋ねた。
「あんたも、不動産営業の輩かい?」
疑問系ながら不動産営業マンと決めつけるような口調だった。圭介がスーツで来訪していたのも良くなかったのだろう。
「ウチは土地を売る気はないよ。営業ならお断りだい。さっさと帰ってくれ」
そこで圭介は思い返す。この商店街は新旧の店舗が入り乱れていた。新築マンションも建っていた。
どうやら、三國は日頃から不動産営業を受けているらしい。
──仕方がない。名乗るしかないか。
圭介はまるで拳銃でも取り出すかの如く、懐から名刺入れを出す。一枚をそっと三國に手渡した。
その動作の最中、胸に去来したのは、この四日間の苦い記憶だ。
四日間で、計二十二店のモグモグを訪ねた。今日のように店主が話しかけてきて、名刺を差し出したところもあった。しかし──。
「あんただったのか⁉︎ 誠さんに酷いことをした毎経のバカ記者は! 出てってくれ!」
ある店では罵声を浴びせられ、強制退去を促された。
記者の名刺を見せた瞬間に、店主の眉間に皺が寄り、閉店でもするかのように会話のシャッターを閉じられる店もあった。
「実はこういう者でして」
懐から名刺を差し出す。
「記者さん?」
圭介の顔と名刺を何度か三國の視線が行き来する。
「実は四月からシャインの担当になりまして、勉強のため、モグモグの各店舗を食べ歩いているんです」
「ああ、あんたは随分大変な時期に担当になったなぁ」
──そうです。特ダネまで抜かれたんですよ。初期反応は悪くない?
「ええ、まぁ」
圭介は取り繕った笑みを返す。
「誠社長が解任されるわ、後任がよく分からないハゲタカ出身の人だわ、シャインは一体どうなっちゃうんだい」
圭介の横の椅子を引いて、三國はどかりと座る。
──営業中だよね? 大丈夫?
そんな内心が表情に透けていたのだろう。
「いいのいいの。どうせ、客は来ないから。それに店はカナちゃんに任せているし」
大学生風の女性アルバイトを一瞥し、会話のボールを投げるが、「カナちゃん」なる女はあからさまに無視する。
三國は圭介に視線を戻して続ける。
「それでどうなのよ、上はさ?」
コック帽まで外した。
──と言っても、聞きたいのは俺の方だ。それに、この御仁は創業家側なのか? 星崎さん側なのか?
三國の反応を見つつ、圭介は話を慎重に進める。全ては既に報道されて、目新しい情報はなかったはずだ。だが──。
「へぇ!」
三國は目を輝かせていた。
「つまりは、六月の総会での、その……何ちゃらファイトで、全てが決まるわけだな」
プロキシー・ファイトで、一通りの説明は終わった。
──この人、悪い人じゃないな。
圭介は一連の会話で悟る。
「あの僕からも質問していいですか?」
圭介は一歩、三國の懐に近づいてみる。
「いいよ全然。この通り、閑古鳥が鳴いているし。まぁ、俺の話相手になってくれや」
──ならば、まずは軽いジャブだ。
「この店っていつ開かれたんですか?」
「昭和四十年。一九六五年よ。親父がここで個人経営のパン屋を開いたのが始まりさ」
「もうすぐ創業六十年じゃないですか!」
「そこまで持つか分かんねぇが」
三國は自嘲するように笑う。それがジョークなのか、本音なのか圭介には分からない。
「あの、店名はモグモグですけど、FC加盟はいつされたのでしょうか?」
「親父が平成五年(一九九三年)にポックリいっちまって、それで俺が店を引き継いだ。年々、商店街も廃れていき、ここも売り上げがみるみる減っていった。そんな時さ、龍造さんがこの店にやってきたのは」
「えっ⁉︎ 輝川龍造さん本人がここに来たんですか?」
驚いて圭介は問い返す。
「そっ。兄ちゃんみたいに、フラっと店に入ってきて、購入した複数のパンをこの席で食べ始めたのさ」
その時の光景を思い出すように、三國は圭介の座る椅子を見やる。
「そんで、今日みたいに俺が声かけたら、いきなり言ったんだ。『シャインのFCに加盟しませんか?』ってさ。ビックリ仰天よ」
「確かに驚きですね。それで、FC加盟をしたんですね」
断定口調で圭介は尋ねたが、三國は大きく頭を振った。
「いや、最初は断ったんだ」
「断った?」
「断固拒否したっていう表現の方が正しいかもしれない。モグモグというFCの存在は、もちろん知っていた。でも、当時の俺の認識は『街のパン屋の敵』以外のなんでもなかった。だから、きっぱり断った。『あんたの軍門には下らん』とまで言っちまった」
苦笑するような表情を続ける。
「だけど、それから毎週。計十回も龍造さんはここを訪れた。『ここの味に惚れ込んでいる』とラブコールを送り続けてくれた」
当時、シャインは九二年に株式上場するほどの巨大企業に成長していた。龍造は社長として、相当忙しかったはずだ。なのに、足繁くこの店に通っていた。
「その頃には俺も俺なりにシャインのFCについて調べていてね。契約は悪くないんじゃないかと思い始めていた。いや、むしろ、画期的なFCシステムだと感じていた」
「画期的?」
「うむ。まずFC加盟金だよ。加盟金が二十万円だけだったんだ。通常のFC加盟金額がどれくらいか、兄ちゃんは知っているか?」
圭介は頭を振る。
「平均で二百万って言われている。二十万円がいかに安い額かが分かるだろ? 大手の外食チェーンでは、五百万のところだって普通なんだぜ」
そう言って事例として挙げたのは、誰もが知る大手のハンバーガーチェーンだった。
「FC店になると制約も多い。よくあるのが、本社の指定する商品しか店で販売できなくなることだ」
これは今の外食業界でも一般的だ。
「でも、シャインのFC契約書には、そういった縛りがなかった。本社の指定する主要十種類のパン以外は、何でも販売して良かったんだ。つまり、今までの独自のパンも作り続けることができる。パン職人として、これほど魅力的な契約はない。それに内装や業態だって基本的には自由っていうんだから、正直、大盤振る舞いが過ぎないかとさえ思った」
──確かにそうだった。
圭介は二十二店を実際に訪れて分かった。
モグモグは、カフェだったり、バーだったり、テイクアウト専門だったり、様々な業態でFC展開していた。
「唯一の縛りは、パンの命とも言える小麦粉だった。全てをシャイン本社から調達しなければならない決まりだった。他の材料については、裁量が認められていたが、小麦粉だけは縛りがあったんだ。最初、それを見た時には、悩んでしまった。ウチもそれなりに小麦にはこだわっていたからな」
当時の葛藤を思い出すように、三國が顔をしかめていた。
「シャインの小麦の質は、どうだったのですか?」
恐る恐ると言った感じで、圭介は尋ねる。
「素晴らしかった! 社外秘で、今も配合は分からない。厳選した国産小麦を複数ブレンドしたものらしい。『魔法の粉』と呼ばれ、風味や食感、舌触り……普段、店で使っていたものと比べて、次元が違った」
当時の感動そのままに三國の表情がさらに華やいでいた。
「結局、それがFC契約の決め手になった。俺は九十五年末、モグモグのFC店となった。『魔法の粉』は発注から二日で来る。だから、倉庫もいらない。二十万円の加盟金でモグモグの看板を掲げられることは、正直、旨みしかなかった。ウチの業績も急回復し、龍造さんには感謝しかないよ」
晴れ晴れとした表情だった。が、それとは対照的に今、この店に活気はない。
「あの……」
圭介は未だ過去の栄光の余韻に浸る三國に向かって、申し訳なさそうに尋ねる。
「現状の業績はいかがですか?」
その瞬間、輝きに満ちていた三國の瞳から光が消える。口の端を上げ、痛々しく笑った。
「真っ赤だ」
「真っ赤?」
すぐに気付く。
──赤字のことだ。
「今年は年間で初めての赤字になるだろう」
「そんな……」
会ったばかりだが、圭介も悲しくなる。
「原材料や人件費、光熱費、配送費……度を超えた円安で、もはや店舗の努力でどうこうできる範囲を超えている。競合他社の猛攻も凄まじく、値上げもできないしな」
そう言って三國は、店外のカフェや高級食パン店に目を向けた。両店とも、外まで行列ができていた。
「それにな……魔法が解け始めている」
「魔法?」
「そう。俺を魅了したあの『魔法の粉』の効力が、以前よりもなくなっているんだ」
「どういうことでしょう?」
「その言葉通りさ。風味や甘み、食感が何だか以前よりも感じられなくなったんだ」
「どうして……そんなことに⁉︎」
驚いて圭介は尋ねる。
「俺が聞きたいくらいさ」
三國はギュッと下唇を噛み締める。それから、苦しそうに言葉を吐く。
「実は『魔法の粉』を巡って、ちょっとした噂が出ているんだ」
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