第四章 創業家として(4)
「社長、見えてきましたなぁ六月復帰のメドが」
酌を取らせてくださいと言った風に四野宮が座敷の畳に膝をつき、日本酒の銚子を掲げる。
「ここにいるみんなのおかげさ」
誠は猪口に半分ほど残っていた日本酒をグイと一気に飲み干し、突き出す。
トクトクトク──。注がれていく純米大吟醸の清流を眺めながら、誠は笑みをこぼす。
社長解任の悲劇から半月。五月に入った。
プロキシー・ファイトに何としても勝つ。その決意を胸に、誠は今日も大株主
生保や信託銀行、投資ファンド、FCオーナー……。四野宮がアポを取った大株主を来訪しては、創業家側の株主提案への賛成を呼びかけている。
──反応は悪くない。疲れはあるものの、心地よい疲れだ。それもこれも……。
誠は酒席をぐるりと見渡す。
わかば銀の鴨崎頭取を筆頭に、シャイン四天王、FCオーナーや弁護士、会計士、コンサルタントら十五名が座敷で談笑していた。
誠の解任に異を唱え、社長復帰のために集まってくれた同志達だ。日に日にその数は増えており、手応えを感じている。
──同志達の奮闘を労いたい。
そんな思いで、父の行きつけだったこの日本料理店の座敷を貸し切って、酒席を開いた。
「誠はん、ますます龍造さんに似てきましたなぁ」
来訪の度に言われる女将の一言が、今日は無性に嬉しかった。
ゴールデンウィークの真っ只中。案内も数日前となったことで、正直、あまり参加は期待していなかった。ところが、こんなにも多くの支援者が駆けつけてくれた。
──俺は一人じゃない。みんなが支えてくれている。
その幸せを噛み締めるように言葉を吐く。
「本当にありがとう」
四野宮から注がれた日本酒をグイと飲み干した。胸にアルコールの刺激だけではない温かさが広がり、涙腺が刺激された。
プロキシー・ファイトが始まってから二週間。少し順調過ぎやしないかとさえ思う。
今日訪れたFCオーナーの店主は涙を滲ませながら、先代の龍造との思い出を語った。
「ウチは大した議決権ではないんですが……」
そう謙遜した上で、創業家案に全面的に賛成するとその場で表明。委任状も後ほど提出してくれることになった。さらに──。
「実は本日、従業員持株会も我々の取締役議案に賛成していただけることになりました」
先ほど、大鷲が皆の前でそう明かした。
「おおおぉ!」
その言葉に酒席がどっと湧いた。この日一番の拍手に包まれた。
従業員持株会は三%の議決権を有する大株主である。誠自身、何としても押さえたい票だった。が、社長を解任されて、星崎政権になった。従業員の動揺も大きかったようだ。
「私の一存では、とても……」
持株会の代表者の初老の男は、眉間に深い皺を作って、賛否を決めかねていた。実際、この二週間、方針は二点三点した。
その持株会が創業家側の味方につくと宣言したのだ。
「これで我々は、概算でおよそ二十%の委任状を得ました。誠社長の持分と合わせれば、議決権ベースで三十五%です」
大鷲の言葉に、酒席の熱気がさらに増す。
その光景を思い出して、誠の顔が綻ぶ。だが──。
星崎の顔がすぐにチラつく。
──そうだ。油断は禁物だ。まだ五月に入ったばかりじゃないか。この戦いは六月下旬まで続くのだ。
「星崎氏は動いていないでしょうか?」
目の前の四野宮に問うていた。
大株主行脚の際も毎回、星崎からの接触がないかを誠は尋ねるほど警戒していた。
「今のところ、表立った動きはありませんなぁ。ご存知のように星崎氏は社長に就任したばかり。会社側として、取締役議案すら発表できておりません。打つ手がなく、手をこまねいているのかもしれませんな」
カメレオン顔を赤く染めた四野宮はそこ意地悪い笑みで返した。
「確かに……」
とりあえず相槌は打ったものの、誠の中の警戒の霧が晴れることはなかった。思案する際の癖で、うねりのある前髪を上下にさする。
誠解任に動いた際の星崎の行動は抜かりがなかった。全て計画的で、あっという間に誠は土俵から押し出されてしまった。
──あの男が策もなく、手をこまねく? そんなことがあるだろうか?
「星崎氏は誠社長のように有能ではありません。ですから気にする必要はありません」
四野宮は下卑た笑みで言い放ったが、誠の警戒の霧は濃くなる一方だった。
「誠社長、楽しく飲んでおりますか?」
その声にぼやけた視界が明瞭になる。
鴨崎が銚子を片手に、誠の座る主賓席近くで膝立ちしていた。
「星崎氏のことなど気にせず、今は票集めに集中するのが重要ですぞ」
どうやら四野宮との会話を聞かれていたらしい。鴨崎が膝を一気に詰める。
「誠社長、今回のプロキシー・ファイトは、いわば踏み絵だと私は考えております」
銚子を誠の猪口に傾けながら、鴨崎は唐突に話し始める。
「踏み絵?」
「ええ、そうです。誰が味方なのか? 敵なのか? 見極めるための踏み絵です」
「ほぉ」
──確かに。
誠はその表現に深く共感する。
「誠さんが苦しい時期に離れていく輩は、所詮、その程度の連中です。社長復帰の際には、付き合い方を考えた方が良いでしょうな」
その瞬間、誠の脳裏に浮かんだのは毎経新聞社記者の巻の顔だ。
最も親密な記者だった。だからこそ三月の星崎の暗躍の際には、いち早く相談した。
──なのに……まるで損切りでもするかのように、早々に自分を裏切った。
脳裏に不敵な笑みを浮かべて、目を三日月型に細めて見下ろす巻の姿がぼんやり映る。
奥歯がギュギュッと軋む。
『創業家って、そんなに偉いんですか?』
次に映し出されたのは後任の深堀の顔だ。
数日前。わざわざ毎経本社まで出向いて、取材に応じた自分に深堀はそう言い放った。
──父が急死し、人生を翻弄される人間の気持ちがお前に分かるか?
思い返すだけで、腹が立ってくる。
──創業家の苦労を何も知らない癖に意見を言ってきやがった。俺に刃向かったのを必ず後悔させてやる。
猪口を握る手に力が入る。注がれたばかりの日本酒をグイと飲み干す。流し込んだ酒も、瞬く間に内部の怒りの炎で蒸発していく。
「誠社長は票集めにだけ集中してください」
好々爺のような朗らかな笑みで、眼前の鴨崎は念押しする。
本当にあのわかば銀行の頭取なのかと思うほどに表情は優しい。
誠の空いた猪口に日本酒を透かさず注ぐ。銚子を傾けるその肉厚な手に、ふと目が行ったのはそんな時だった。
──どことなく父の肉厚な手と似ているな。
そう思った瞬間、脳に電撃が走る。
一年前の記憶が蘇っていた。
航空機事故の二週間後。DNA検査で、父の左手の一部が見つかったとの連絡があった。
親指だった。誠はそれを写真で確認した。
だが、想像していたものとは違った。とても指に見えなかった。海水に浸かっていたことで膨れ上がり、全体的に黒ずんでいた。
見た瞬間、思わず吐きそうになった。
「うっ……」
不意に嘔吐感が腹の底から這い上がってくる。
「どうしましたか? 大丈夫ですか?」
気付くと、鴨崎が心配そうに見つめていた。
「すみません、鴨崎頭取……ちょっとお手洗いに行かせていただきます」
誠は宴席を辞去する。
手洗い場の洗面台で何度か顔を洗う。冷水が熱った顔に心地よい。
顔を拭いたハンカチをたたむ際、スラリとした自らの指に視線が行く。
──指はやっぱり、父さんに似てないな……。
苦笑する。
それから鏡に視線を戻す。そこには、父の龍造にそっくりな目をした男が立っていた。
嬉しさに顔が綻ぶ。
──父さん、俺、必ず勝つから。あなたの正当な後継者として。
鏡に映る自分を見つめながら、誠は心の中で改めて誓った。
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