第四章 創業家として(3)

「創業家側と絶縁状態⁉︎」

 目の前の席の「ヒロ」こと霜田洋成が素っ頓狂な声を上げる。

 モワッ──。その瞬間、網の上の肉の脂が炭火に滴り落ち、煙が上がった。

「『創業家って、そんなに偉いんですか?』と聞いてしまいまして……」

 トングを持つ圭介がバツが悪そうに明かす。

「ふへへ。さすがフカテックの御曹司様はやることが違うなぁ」

 茶化すような口調で右前方の「カメカン」こと亀井幹児かめい・かんじが笑う。

 監査法人での激務がたたり、二十七歳にしては前髪が後退。完全な若ハゲなのだが、本人は全く気にしていない。額が広いつるりとした顔は、名前通り亀を連想させる。

「だから、俺は御曹司じゃないっつーの!」

 圭介は口を尖らせる。

「またまたぁ。どうせ、ゆくゆくは四代目になる癖に」

 ──また始まった。カメカンはこうなったら譲らない。

「俺はただ……同じ創業家として、輝川誠の横柄な態度が許せなかっただけさ」

 圭介が嘆息混じりで吐いた言葉は、網の上で肉と共にジュッと消える。極上ハラミをトングで裏返す。綺麗な焼き目がついていた。

 ──食べ頃だ。

「さぁ、お二人ともお食べ」

 圭介は眼前の二人の小皿に焼けた肉を重ねていく。

 試食会続きと激務で、食欲がない圭介とは対照的に、ヒロとカメカンはよく食べる。親鳥からエサを貰うヒナの如く物凄い勢いで肉を胃におさめていく。

 ピヨピヨ──。そんなさえずりが聞こえそうなほどだ。


 武蔵小杉にある高級焼肉店。肉の味はもちろんのこと、個室があり密会にはもってこいの場所だ。二人の「肉が食べたい」というリクエストに応じて、圭介が予約した。

 三人とも、幼稚舎から慶應大学商学部卒業という全く同じ学歴。正真正銘の「慶應ボーイ」だ。

 ヒロは最大手の総合商社、富川通商に入社。持ち前のバイタリティを武器に世界を飛び回っている。圭介は、先週月曜日のオリンピアバーガーの試食会で会ったばかりだ。

 一方のカメカンは大学在学中に公認会計士試験に合格。業界首位の帝都監査法人の会計士として多忙な日々を送っている。五月中旬までは、担当の三月期決算企業の監査で、多忙らしい。もっとも──。

「実はこの間、出雲いづも精密の減損で一発抜いちゃってさ」

「ひなた証券が初めての最終赤字だ! 興奮して昨日は眠れなくなってしまったよ」

 企業の損失や赤字に、異様なまでの性的興奮を覚えるという性癖はどうやら健在らしい。

「一体、その、どこに興奮要素があるんだよ……」

 大いに呆れるヒロに向かって、カメカンが分かっていないなと言わんばかりに反論する。そんな光景を笑みを浮かべて眺めながら、圭介は今夜も過去を浮遊し始める。

 ──この二人がいなければ、間違いなく俺はここにいない。感謝しかない。

 高校一年夏、父・圭太が急死した。

 ありふれた日常。父はその日も始発で電車出勤するため、徒歩十分の最寄駅に歩いていた。が、信号を無視してきた飲酒運転の車に轢かれた。心臓破裂で即死だったという。

 憎しみ、怒り、悲しみ、後悔、不安……様々な感情に揺さぶられ、茫然自失のまま病院の霊安室に向かった。

 父は数十メートル跳ね飛ばされたと聞く。なのに、その顔には、傷ひとつなかった。穏やかで、笑みを浮かべているようだった。

 膝から崩れ落ち泣き喚く母と沙希を尻目に、圭介はその場にただ立ち尽くしていた。

 ──父さん、何で……笑ってるんだよ? 早く起きてよ。俺は……どうしたら……。

 内なる圭介が叫んでいた。

「沙希ちゃんとお母さんを支えてあげられるのは君だけだぞ。男なんだから頑張れよ」

 豪雨の中、執り行われた通夜と告別式。大人たちから肩を叩かれる度、圭介の中の歯車の亀裂がどんどん広がっていった。

 ──男として、俺がしっかりなくちゃ。母さんと沙希を守らなきゃ。

 表向きは明るく振る舞い続けた圭介だったが、その内面の歯車は当に壊れていたと思う。


「母さんのカレーはやっぱり最高だな」

 葬儀から数日後。圭介はごちそうさまのポーズをとって夕食の席を立つ。父はよく母のカレーを褒めていた。

「今日……カレーじゃないよね?」

 母は眼前の沙希と目を合わせて問う。

 机上には麻婆豆腐と春巻きが置かれていた。

「うん……。お兄ちゃん、どうしちゃったんだろう?」

 沙希も首を傾げた。

 大学への内部進学のため、圭介が通っていた学習塾でも異変は起きていた。

 授業で使用していたホワイトボードにぼんやりと浮かんできたのは、棺の中のあの父の顔だ。笑みを浮かべるような死に顔……。

 ふとした瞬間に網膜に蘇り、圭介の思考を阻害。ついに勉強に全く集中できなくなった。そして、高校一年の留年が決まった。


 大切な人との別れ。それは誰もがいずれは経験する。しかし、父の死の喪失感は思春期の圭介を大いに狂わせた。父の幻影を追うように父を演じ、圭介は圭介ではなくなった。

 塾すら行かなくなった。勉強にも身が入らず、多摩川の河川敷で無為な時を過ごす日々が続いた。そんなある日のこと。

「なぁ圭介、お前はお前だろ! お前だけのために生きろよ!」

 ヒロに初めて怒鳴られた。

 水面をぼんやり眺め、黄昏モードだった思考が、殴られでもしたかのように一気に吹き飛ばされていた。いや、もしかしたら本当に殴られていたのかもしれない。

「俺たちがいつも側にいただろう? 俺たちじゃ、そんなに頼りねぇのかよ? もっと頼れよ!」

 圭介の目の焦点が定まった時、ヒロの瞳に涙が滲んでいた。

「圭介、このまま強制退学なんて絶対許さねぇからな!」

 ヒロの傍で、カメカンも肩を震わせていた。

 一学年で二年連続で留年になった場合、強制退学となる。

 ──そうか。俺は一人じゃないのか……。

「ありがとう……」

 二人の言葉に圭介は涙する。その瞬間、圭介の中の歯車が、ゆっくりと再び回り始めた。


 それからというもの圭介はプライドを捨てた。学習塾に戻って、一つ下の学年の生徒とともに猛勉強した。ヒロとカメカンに遅れること一年、無事に慶應大学商学部に進学した。

 一学年上のヒロとカメカンとの親交を深めつつ、バイトでお金を貯めては海外に旅に出た。バックパッカー生活に夢中になった。四十カ国を旅した代償として留年したものの、高校時代の懊悩ぶりが嘘のように圭介は逞しくなった。

「いい面構えになってきたのぉ」

 第六工場にて、圭蔵は隻眼を絞って笑った。

「俺、父さんのように世界中を飛び回りたい。商社マンに絶対なる」

 圭介は誓う。迎えた就活戦線でも、第一志望はやはり総合商社だった。一切の迷いはなかった。

 これがドラマならば、きっと圭介は商社マンになっていただろう。が、現実世界はそう甘くなかった。

「お兄ちゃんと私、同級生になっちゃったね」

 都内の有名音大生の二歳下の沙希は、嬉々とした表情で言った。二留した圭介と、奇しくも同時期に就活をすることになったのだ。

 この頃、父に容姿が似てきた圭介に、沙希は生まれたての子犬のように懐いていた。

「えっ⁉︎ お兄ちゃん、総合商社を受けるの⁉︎ なら私も記念受験しちゃおうっと。受けるのは自由でしょ?」

「沙希、商社はそんなに甘くないぞ」

 世界を知った男の余裕──。圭介は諭すような笑みで返したが……。圭介は全ての総合商社に落ちた。いや、それ自体はある意味では予想できた。

 圭介を失意の奈落の底へと突き落としたのは、沙希が総合商社二位の九条物産に内定したことだ。しかも──。

「お兄ちゃん、私、一般職じゃなく総合職に受かっちゃったの」

 兄の威厳は丸潰れである。

 ──このままじゃ終われない。

 大手食品メーカーと大手証券会社から内定をもらっていたものの、圭介は大学四年の秋まで就活を続けた。

 新聞社の秋採用試験も受けた。

「世界中を旅した結果、留年しましたが、おかげでたくさんの人に出会えました。決して無駄ではありませんでした。きっと、この経験を生かせる日が来ます」

 留年をしつこく問われる度、胸を張ってそう返した。他社は最終面接すら進めなかったが、なぜか毎朝経済新聞社だけは内定をもらえた。


 こうして、一九年四月に圭介は記者として毎経新聞社に入社した。数ヶ月の研修を経て配属されたのは、企業部だった。

 一年目の担当は葬儀業界。葬儀ビジネスを取材する日々が始まったのだった。

 しかし、取材対象の性質上、どうしても葬儀場に足を運ぶ機会が多くなる。

 再び圭介の網膜で、棺の父の死に顔がチラつき、取材の邪魔をし始めた。

 慣れない記者という仕事に面白みを感じつつも、同期の背中が遠のいていく感覚が胸には常にあった。正直、焦っていた。

「整理部のような内勤職場の方が君は合っているんじゃないか?」

 定期面談では、企業部長だった堂本から暗に整理部行きを仄めかされた。

 が、運命のいたずらである。部間異動の内示直前。同期の出世レーストップを走っていた藤崎桃果がまさかの誤報。圭介は大方の人事予想に反して、企業部に残留した。


 ──今年こそは巻き返す。

 その思いで挑んだ二年目。あてがわれた担当は、学習塾業界だった。

 高校一年での留年──。強制退学に怯えながら、プライドを捨てて、何とか机にかじりついた日々。本来なら一学年下の後輩たちと席を並べるという屈辱に耐え、勉強に励んだ。

 学習塾大手を取材する度、当時の苦しい記憶が蘇える。空回りで仕事もうまくいかない。

 戦力外通告の言葉が再びチラつき始めた二年目の冬。圭介に絶妙なスルーパスを出してきたのは、企業部のエース記者、翠玲だった。

「深堀君って、進学塾大手の冥王ゼミナールの担当だよね? 実は巨額の投資運用損失を不正会計で隠蔽しているみたいなの。もう全ての取材は済んでいるんだけど、冥王の社長のヤサだけが分からなくて……悪いんだけど、社長に明日の朝刊にマル特が載るって、今から伝えてもらえないかな?」

 ネタを当てるのではない。ネタを書きますという宣戦布告だ。

「もちろんです!」

 圭介はその任務を粛々と遂行した。

 翌日、朝刊紙面を見た圭介は目を大きく見開いた。一面の特ダネ記事の末尾に、自分の署名が載っていたからだ。

 ──取材に全く関与していないのになぜ?

 社内で褒められる度、そんな疑問が浮かんだ。とにかく、翠玲の計らいに圭介は深謝。これがきっかけで、二人は急速に距離を縮め、その後、交際まで発展した。


 そして三年目の春。圭介はペットフード業界を担当した。

 ──今度は他人の力じゃなくて、自分の力でネタを掴む。

 そんな断固たる決意で、ネタを狩りに出る日々。会社研究のために、各社のドッグフードを食べ始めたのはそんな時だった。

 ──犬の気持ちに少しでも近づきたい。

 今振り返ると、正直、どうかしていたと思う。だが、ネタに飢え、そこまで追い詰められていた。

 この行動が思わぬスクープに繋がる。ある朝、圭介が起きると、全身の肌が赤くただれていた。

 ──こ、これはアレルギー反応? でも、なぜ?

 圭介のアレルギーは馬肉だけだった。

 慌てて前日に食べたドッグフードの成分表示を確認する。しかし、使用肉は鶏肉のみだ。

 ──なのに、俺の皮膚がただれた?

 不審に思った圭介は、改めてドックフードを食す。やはり翌日、アレルギー反応は出た。

 ──まさか……。

 念の為、国内五工場で製造された全ての商品を取り寄せて、それを圭介は専門の調査機関に持ち込む。

 結果は鶏肉のほか、馬肉が使われていた。これは明らかな成分表示不正である。

 社会部記者とも連携して調査報道すること二週間。ついに朝刊一面トップを飾った。

「実はドッグフードを食べていまして……」

 ネタを掴んだきっかけをいくら尋ねられても、結局、真相は言えなかった。

 しかし、初めて自らの運命を自らの力で変えた。そのことは明確な自信となっていた。


 そして四月。ようやく掴んだ外食担当。今までの担当と比べれば、時価総額も大きい。

 ──これまで以上に俺は飛躍するんだ。

 その思いで必死に挨拶回りに励んでいた矢先、シャインが大爆発した。

 結果、今までのピンチとは比にならないほどの絶体絶命な崖っぷちに立っている。


「流石に今回はダメかもしれない」

 長い回想の旅から帰ってきた圭介は、自嘲するように呟く。

「いつになく弱気だな、圭介」

 赤ワイングラスを片手に、顔を赤らめたヒロが返す。

「そうだよ。ドッグフードのやつだって抜いたじゃん。普通、犬のエサを食おうなんてしないぜ。でも、だからこそ、不正を白日の下に晒したんだ」

 不正は許すまじという会計士らしい表情で、赤ら顔のカメカンも続く。

「あの時みたいに、ドッグフードを食えとは言わねぇよ」

 ヒロはニヤリと笑う。それから、スッと真顔になる。

「けどさ、他の記者が考えないような手法で動き回るのが、お前らしさだろう?」

「俺らしさか」

 圭介は言葉を噛み締めるように何度か頷く。

「前も言ったが、俺たちをもっと頼れよ」

 あの日。多摩川の河川敷で意気消沈していた高校時代も眼前の二人は助けてくれた。

「それに今は昔と違うぜ。お前の目の前にいるのは、ただのダチじゃない。一流の商社マンと会計士だ」

 おどけるようにヒロは言うと、一気に赤ワインを呷った。

「おうよ。圭介のためなら、何でもするさ」

 カメカンがポンと自らのテカった広い額を叩く。

 ──そうだ。俺は一人じゃない。

「ありがとうよ」

 ジュッ──。言葉を吐いた瞬間、極上カルビの肉汁が滴り落ちて、煙が圭介の目に直撃。目に沁みる。慌てておしぼりで拭う。

 しかし、涙が溢れた理由は、本当は煙ではなかった。

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