第四章 創業家として(2)
今日は昭和の日で祝日だ。
鼻腔をツンと刺すすえた機械油の臭いが、ここが昭和初期に建てられた工場であるのを物語っている。
眼前の老夫は職人だった。慣れた手つきで、スチール製の加工物を汎用旋盤の回転土台「チャック」にセットする。グイーンと回り出したチャックに、鉛筆の形をした専用の切削工具を押し当てると、ギーンという金属同士が擦れ、甲高い音が工場内にこだまする。
圭介は今、赤ペンキの剥げかけた簡易ベンチに腰をかけて、しばらくその職人の後ろ姿を眺めていた。
「どうした圭介、今日は
十分後。作業の手を止め振り返った職人は、圭介の姿を確認するとニッと微笑んだ。
白髪と薄緑色の作業着は汗でびっしょりだ。
左目は失明し閉じられている。が、開かれた右目だけで、他を圧するような威厳を放つ。
売上高七百億円を誇る株式会社フカテックの会長。そして、圭介の祖父である。
「じいちゃんこそ。なんで、こんな休日も働いているのさ」
「働いているわけじゃねぇ。毎日、こいつに触れてねぇと、ここが
右腕をポンポンと叩いてから、汎用旋盤にチラリと視線を這わせた。七十四歳とは思えぬほど、腕は太い。
──そうだ。愚問だった。
圭介はニッと笑う。
どんなに多忙でも圭蔵は朝、必ずこの工場での旋盤を欠かさない。代表権のない会長職に退いた今も、機械いじりを何よりも愛する。
ここフカテック第六工場は、創業の地である。圭蔵の自宅横に併設されている工場だ。
近隣の第一〜第五工場に行けば、最新鋭のNC工作機械が何台も置いてある。高精度の自動加工ができるのに、圭蔵は未だに手動での加工を好む。
「じーちゃんに、ちょっと聞きたいことがあってさ……」
圭介は目を合わせずに言葉を紡ぐ。
「ちょいと着替えてくる」
声色で何かを察したのか、話し始める前に、圭蔵は工場の片隅にある更衣室に向かう。
「自宅に戻るのが勿体無い」
せっかちな圭蔵らしく、大概のものをこの工場に置いている。
一日の大半をここで過ごし、今やここが住居と言っても過言ではない。
遠くなる圭蔵の背中を見ながら、圭介の胸には昨日の出来事が去来した。
「創業家って、そんなに偉いんですか?」
シャインの創業家との和解の場は、絶縁の場となった。
「なんか私は、
激怒して帰った誠を見送った後、コミショウは頬を膨らませてそう述べた。圭介の行動に理解を示してくれた。だが──。
「あれは流石に深堀君、やりすぎだよ。気持ちはわかるけどさ。記者だったら、もう少し感情をコントロールしないと……」
米山からは苦言を呈された。
「おいアサボリ、何で俺をボンボンの取材に同席させなかったんだよ!」
電話で報告した青木からは、会議室に呼ばなかったことを詰問された。
「今朝のウィレットのクソインタビューさえも上は良く思ってねぇのに、勝手な行動しやがって! 良いか? 今後は米山じゃなく、まずは必ず俺に相談しろ!」
傷心気味の圭介を労ることもなく、電話をガチャ切りした。
「圭ちゃん、記者が感情に左右されてはダメ。せっかく会えたのに、もったいないなぁ」
深夜の電話で、ことの顛末を報告した際の翠玲の言葉も何だか沁みる。
後悔を抱いて眠れぬ夜を過ごし、日課の星崎との早朝の散歩をこなした。そして、気付けば自然と圭蔵の元を訪ねていた。
「ほいよ」
戻ってきた圭蔵は軽装に着替えていた。圭介に缶コーヒーを手渡すと、ベンチにドカリと座った。
「それで話は何じゃ?」
微糖の缶コーヒーを一口飲んでから、圭蔵は切り出す。
「創業家の役割ってさ……何なのかな?」
数秒の間を挟んでから、圭介はゆっくり尋ねる。
「何だ急に」
よほど意外だったのだろう。圭蔵は快活に笑う。
「いやさ、昨日、ある企業の創業家の人を取材したんだ」
「ほぉ」
圭介を射る圭蔵の右目がスッと細くなる。
「俺とさほど年齢も変わらない三十一歳の人。俺と同じように、父親が急死して株式を相続したんだ。保有比率は十五%」
圭介の父・圭太は十二年前に死んだ。
その結果、父の保有していたフカテック株の十二・五%を相続法に則り、成年時に圭介は相続した。
「その人、社長をわずか一年で事実上解任されちゃって、復帰を狙っているんだ。だけど、何だか行動が高飛車で……。何か俺、死んだ父さんのことを思い出しちゃってさ。気付いたらその人に聞いてたんだよね。『創業家って、そんなに偉いんですか?』って」
圭介の脳裏には、誠の上気した顔があった。
「『圭介、創業家だからこそ、俺たちは発言に人一倍気をつけなきゃいけないんだ』って、父さん、俺と沙希によく言っていたんだ。だから、俺はフカテックの工場に足を運ぶ時も、言動や行動を常に気をつけていた。少しでも失礼な態度を俺がすると、あの温厚な父さんが鬼の形相で怒ったんだ。なぜか昨日、急に思い出しちゃってさ」
「『創業家だからこそ、俺たちは発言に人一倍気をつけなきゃいけない』か……」
圭蔵はまるで噛み締めるように繰り返す。
「その言葉は、ワシの受け売りじゃ」
「えっ⁉︎ じーちゃんの受け売り?」
驚いて圭介は圭蔵を見る。
圭蔵は何だか嬉しそうだった。
「そうじゃ。圭太に徹底的に叩き込んだ。時には、文字通り、失礼な態度をした圭太をぶん殴った時もあった」
──ぶん殴ったって……。
圭蔵は不意に遠い目をする。それから語り出したのは、フカテックの歴史だった。
「今でこそ、フカテックは売上高七百億円、従業員数一千人の巨大企業になった。だが、ワシが先代の
今は第六工場となっているが、まさに今いるこの場所が創業の地だ。圭蔵は懐かしむように、右目でぐるりと工場を見渡す。
「先代が一九七五年に急死し、当時二十七歳のワシが二代目として会社を継ぐことになった。当時は
二十七歳といえば、ちょうど今の圭介と同じ歳である。
「当時のワシは思った。『事業を抜本的に変えなきゃならん』と。しかし幸い、四人いた職人は、素晴らしい技術を持っていた。『これならば、大丈夫だ』とワシに不安はなかった。自動車や電化製品、ミシンの修理……それからは何でもやった。技術力に目をつけた複写機メーカーから声がかかり、次第にローラーとシャフト加工に注力。一気に事業を拡大させた。今では、自動車や航空機、ロボット部品まで手がける企業にまで成長した」
前にホームページの沿革を読んだことがある。が、中興の祖とされる圭蔵から改めて聞くと歩んできた社史に重みを感じた。
「気付けばワシも大分、歳をとった。十年前、六十を前にした頃じゃ。ワシの周りの創業者仲間の死が相次いだ。若い時の体の酷使が、一気に来ていたのかもしれん。その出来事は『もしも』をワシに意識させた。『ワシの死で、フカテックの経営を例え一日でも混乱させてはならぬ』そんな思いで決断した。『次世代にバトンを渡そう』と」
「バトン?」
「うむ。そうじゃ。それが株式と経営の譲渡じゃ。まず生前贈与で、ワシ一人で保有していたフカテック株の半分を圭太に譲渡した」
圭太は圭蔵の一人息子だった。
「そして、三代目となる経営者だが……」
そこで圭蔵はゴクリとコーヒー缶を呷る。
「迷うことなくカクに譲った」
カクとは当時、第一工場長だった
そのカクさんが、三代目のフカテックの代表取締役社長となり、およそ十年となる。圭蔵はカクさんの社長就任を機に、代表権のない会長職に退いていた。
──どうして、父さんじゃないのだろう。
あの時、子供ながらに圭介はそんな疑問を抱いた。
周りの従業員でさえ、父・圭太が三代目のフカテック社長になるのではと見ていた。だから、一様に驚いていた。
「所有と経営の分離じゃよ。ワシからしたらオーナー経営者なんていうのは、ナンセンスじゃ」
オーナー経営者とは、大半の株式を保有し、自ら企業経営する人物のことである。
「オーナー経営でも、安定している間は良い。ところが、後継の道筋もつけずに経営者が急死した際は悲惨じゃ」
その瞬間、圭介の脳裏にシャインの件が浮かぶ。シャインも創業者の龍造が後継の道筋をつけずに急死してしまったことから、今回の「お家騒動」が始まった。
「相続した株を武器にして、子供らが血を血で洗うような争いをする。従業員を置き去りにし、経営が混乱するのもお構いなし。急死した創業者仲間の会社も揉めに揉めた。フカテックは、絶対、そんな風にはしたくなかったんじゃ」
圭蔵は大きく息を吐く。
「ワシが現在保有するフカテック株の半分も、ワシが死んだ際には、信頼できる投資ファンドに譲渡する手筈じゃ。顧問弁護士を通じて既に託しておる。経営監視は、やはり創業家だけじゃダメだからのぉ。『象徴としての創業家』それがワシの会社論じゃ」
「象徴としての創業家?」
「そうじゃ。創業家の影響が強すぎる会社は大概失敗する。『金を出しても、口は出すな』ということじゃな」
圭介は納得するように何度も頷く。
「上場企業だったら、もっと大変じゃぞ」
フカテックも何度も証券会社から「上場をしないか」と打診を受けていた。しかし、圭蔵が固辞していた。
「株価や配当、総会など、株主対応に時間を割かねばならない。ウチみたいに無配も許されないだろうな」
ニヤリと圭蔵は笑う。
そうなのだ。フカテックはこれだけの大企業ながら、実は配当がない。
「配当出すくらいなら従業員に還元を」
何とも圭蔵らしい方針で、圭介は大株主でありながら、一円の実入りもない。
「だがな圭介、圭太に継がせなかったのは、もっと決定的な理由があるんじゃ」
「えっ⁉︎」
思わぬ話の展開に圭介の声が上擦る。
「圭太には、あいつの生き方があった。『あいつは世界を飛び回る仕事をしたい』と常々言っておった」
そうだ。圭太は大手総合電機メーカーの営業マンだった。
世界中を飛び回り、忙しい日々を送っていたものの、仕事にはやりがいを感じていた。
「それにじゃ、奴は職人にはとことん向いてなかった。幼少期から勉強が好きで、ワシの子であるとは思えぬほど、こっちはさっぱりじゃった」
汎用旋盤の機械に視線を這わせてから圭蔵は苦笑する。
「はっきり言う。圭太は技術者の才に愛されなかったんじゃ」
──才能がなかった? じいちゃん、本当にはっきり言うな……。
「変に運命付けて、人生を縛るのは酷じゃ。無理やりに子供に会社を継がせることほどの虐待はないからな」
──でも、じいちゃんらしい考えだ。
「それにな、業績が良い時ばかりじゃない。取引先の倒産で売掛金が回収できず、連鎖倒産しそうになったことだってある。銀行に貸し剥がしされそうになったことだってある。技術と経営が融合してこそ、フカテックの社長業はこなせる。ワシは社長業のストレスで、全ての奥歯が抜けたほどだ」
圭蔵は口を開けて、圭介に見せた。
社長業の過酷さは知っている。前に圭介が取材した社長も「体重が激減し、奥歯が抜けた」と言っていた。
「子にあえて会社を継がせない。それも一種の愛だとワシは思っている。そのことは圭太も理解していた。そして、ワシの『創業家の精神』をしっかりお前らに継承してくれた」
圭蔵は晴れ晴れとした表情だった。
「『創業家が偉いのか』とお前は取材先に問うた。確かに記者として大失態かもしれん」
圭蔵は快活に笑う。
「だよね」
圭介も頭を掻きながら笑う。
「じゃがな圭介……創業家の人間としては、百二十満点の行動じゃ。よく言ったぞ。お前にフカテックの株を相続させて、本当に良かった。ワシは誇らしいぞ」
「ありがとう……じいちゃん」
かろうじて返した言葉は震えていた。胸にじんわりと温かいものが広がっていた。
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