第三章 嵌められた御曹司たち(5)
ピピピ──。
アラームを一コール目の途中で止める。
──やはり眠りが浅い。
いや、眠ってなどいなかった。目を瞑っていただけで、実はずっと起きていた。
──最近はずっとこうだ。
脳は休むことをやめ、深い眠りにならない。
「はぁ」
翠玲は自宅ベットで大きな嘆息をしてから、上体を起こす。
夜回りが長引き、帰宅は午前二時だった。それから五時に起きて、今度は別企業の社長に朝回りをかけた。午前八時半前に帰宅して三十分仮眠。そして、今に至る。
二十九歳。激務による慢性的な疲労と日々のストレスで、体は限界にきている。今朝もタクシー内で、数分間、原因不明の動悸に見舞われた。
──だからって休めないよね。
翠玲は昨年、これまでキャップ年次が担当していた商社業界に抜擢された。結果を残せば残すほど、この会社では越えるべきハードルがどんどん高くなる。
──記者の仕事がホワイトなはずがない。
覚悟して入社した。なのに、月々の時間外労働が二百五十時間を超えて、心も体も軋み始めた今、毎朝起きる度に、この仕事から逃げたいと思う自分がいる。
「ふぅ」
翠玲は先ほどよりも大きな嘆息を吐く。
ベッドから腰を上げると同時に少しふらつく。鉛のような疲労をまとい、リビングまで重い足取りで移動した。
リモコンを手に取り、契約している経済専用番組にチャンネルを合わせる。ちょうど九時を回って、主要株価指数がピコピコと点滅していた。
「東京株式市場は全面安の展開です」
女性キャスターが声を張っていた。個別銘柄は売り気配のまま値がついていないものも多い。しばらくテレビ画面を眺めた後、刻々と変わる株価動向のニュースをBGMにして、キッチンに移動する。カプセル式コーヒーメーカーで濃いコーヒーを淹れる。眠気覚ましに飲み干すと、再びリビングに戻った。
「さて、やりますか!」
気合いを入れるようにポンと膝を打つと、一気に仕事モード。机上の記者端末のキーボードをカタカタと叩き、今日の朝回りメモを作成する。担当デスクや別の部の懇意の記者にも送り終えると、EDINETを端末画面に表示した。
EDINETは金融庁の電子開示システムのことで、企業が提出した法定開示書類が公開されている。有価証券報告書や四半期報告書、発行登録書、大量報告書、変更報告書といった書類を無料で見ることができ、九時を過ぎると続々と更新されていく。
今朝も既に膨大な量の書類が提出されていた。スクロールして、ネタにつながりそうな案件を探す。
ここは宝の山だ。EDINETの公開情報が特ダネにつながる事例はいくつもある。だから、どんなに忙しくても一日に数回は覗くようにしている。その時だった。
──んっ?
ある企業名に目を奪われて、マウスのスクロールホイールを止める。
──シャインベーカリー?
九時六分に大量保有報告書を関東財務局に提出していた。
上場企業の株式を五%以上取得した場合、その株主は五営業日以内に大量保有報告書を提出する義務が生じる。これを「五%ルール」と呼ぶ。
──シャイン株をどこかが買った?
興味が疲労を一気に吹き飛ばす。
提出者の欄に自然と目が行く。そこにあったのは……。
〈豊洲銀行〉
豊銀がシャイン株を大量取得していた。
──何で? それに五%もの大量のシャイン株を豊銀はどこから取得した?
通常、五%もの株式を市場内で取得した場合、株価は大きく動く。
しかし、ここ最近のシャイン株は大きく動いていない。誠社長の事実上の解任以降も様子見ムードが強かった。
大量報告書のPDFを開いて、詳細を確認する。そこには答えがあった。
保有目的は〈政策投資〉。
取得日は〈令和四年四月十九日〉。
取得割合は〈五・一%〉。
そして取得先は……〈市場外〉。
──市場外? つまりは大株主の誰かが売った?
シャインの株主構成が瞬時に脳内に浮かぶ。
──五%以上を保有する株主だと、かなり限られるよね?
筆頭株主は東洋キャピタルの二十%。
二位株主は輝川誠の十五%。
三位株主(六%)と四位株主(五%)は、年金や投資信託の管理専門の信託銀行だから実質保有者ではない。対象外である。
──そういえば、あの日……。
不意に翠玲の脳裏に浮かんだのは、取得日前日の四月十八日の光景。あの日、翠玲は取材で訪れた豊洲フィナンシャルタワー内で、たまたま豊銀のピーター副頭取とシャインの星崎社長の姿を見た。
──あの時、二人はこのディールの話をしていた? だとすれば、株式を売ったのは東洋キャピタル?
脳内で瞬く間にそんなストーリーが形成されていく。謎解きゲームを解くようなこの感覚が翠玲は好きだ。分からないからこそ面白い。記者の醍醐味とも言える。思案する時の癖でコツコツと右人差し指で顎を叩いていた。
──でも、そしたら東洋キャピタルにも変更報告書の提出義務が生じるよね?
変更報告書は、五%以上の株式を保有する株主の保有比率が、一%以上増減した場合に提出する義務が生じる。
仮に東洋キャピタルが二十%から十五%に保有比率が減ったのならば、今日中に報告しなければならないが……。
「シャインの件、本当にビックリしました」
十四時過ぎ。丸の内にある老舗ホテルのラウンジ。紅茶とケーキを相棒にテラス席で優雅にティータイムをしながら、世間話もそこそこに翠玲は切り出した。
──本当に運が良いと思う。
眼前には豊洲FG初の女性取締役の田辺が座っていた。
社交辞令の感もあったが、先週の取材直後に本当にお茶の誘いが来た。あっさり今日の午後に決まった。
「大量取得の件、何だか記事にもしていただいたみたいで」
ティーカップを片手に田辺は微笑んだ。
その表情から翠玲は田辺が何らかの事情を知っていると察した。
・豊銀がシャイン株を五%超取得。
・市場外での売却で大株主の誰かが売却した可能性がある。
そんな記事を市場部の記者が淡々と書いていた。株価への反応は乏しかった。が、むしろ翠玲の関心は別にあった。
「これまで取引関係のなかった豊銀が、どうしてシャインに接近しているのでしょう?」
翠玲は単刀直入に問う。
「さぁ。今回の件はホールセール部門がやっているから」
田辺は首を傾げる。
「つまりは、ホールセール部門担当のピーター副頭取が中心となって動いていると?」
翠玲は前のめりに聞く。ホールセールは、法人などの大口顧客向けに融資や資金調達を提案する銀行業務の花形部門の一つである。
「ご想像にお任せするわ。インサイダーやら、コンプライアンスやら、最近は何かとうるさいし、私が言えるのはこれくらいかな」
田辺はそれから紅茶を啜り、優雅な所作でソーサーに戻す。
一連の返答や動作から翠玲は、田辺が大量取得の全容を知っていると悟る。
──ならば……。
「せめて、誰が売ったかのヒントだけでも。市場外で五%もの株式となると、やはり売却したのは東洋キャピタルでしょうか?」
創業家側が売るとは考えられず、消去法的に残ったのは東洋キャピタルだけだった。
田辺の顔に瞬く間に困惑の色が滲む。
参ったなぁ──。そんな表情だった。
「取締役としてではなく、あくまでも一人のバンカーとしての見解をお聞かせください」
個人的な見解をお聞かせください──。取材の際に良く翠玲が使う手法だ。
田辺は遠くに目をやり、しばし逡巡の間を挟む。
「バンカーか……」
ポツリ吐くと、ニッと笑みを浮かべて告げる。
「それ、誤報よ」
「えっ⁉︎」
「あくまでも私見だけど、今回、シャイン株を売却したのは東洋キャピタルではない。東洋は二十%の株式を今も持ち続けているわ」
私見と言いながら断定口調だった。
「じゃあ、まさか輝川誠さんが売った?」
翠玲の内面の言葉がそのまま具現化する。
が、目の前の田辺は首を横に振っていた。
──誠さんも売ってない? じゃあ誰が?
「まぁ、シャインも色々あるのよ」
話はここまで──。と言わんばかりに、田辺は大きく息を吐く。
──空気が変わった?
そう翠玲が思ったのとほぼ同時。眼前の田辺から笑みが消えていた。その変貌ぶりに翠玲は構える。
──えっ、私、なんかした?
田辺は真剣な表情で唐突に問う。
「常木さん、あなた、ずっと無理してない? 体調は大丈夫?」
拍子抜けする。脱力するように肺から空気が抜ける。
「はい。大丈夫ですよ。アラサーですけど、先日の健康診断は何も異常がありませんでしたし」
取り繕った笑みで翠玲は返す。
「いや、そうじゃなくて……」
田辺の顔に陰が差す。
「この前の取材の時から、実は気になっていたの。常木さん、何だか疲れているように見えたから」
「私が……疲れている?」
その意味を問うようにポツリ繰り返す。
「ちょうどあなたのように三十手前だったかなぁ。実は私、会社を長期で休んだことがあったのよ」
田辺は翠玲から視線を外して唐突に語り始める。その網膜にはおそらく自らの辛い過去が映っている。
「いきなり朝、起きれなくなってしまって……。それで療養を余儀なくされた。あの時は『ああ、私の銀行員人生終わったな』って思った。心と体がボロボロで、結局、三ヶ月くらい休んじゃったかな」
輝かしい女性初の取締役の知られざる苦悩。意外な話だった。。
「キャリアを選ぶか、一人の女としての幸せを選ぶかで、当時は凄く悩んでいた。だけど、激務で考える時間すら忙殺された。体の悲鳴にずっと気づかないふりをしていた。でも、倒れたことで、自分の人生を見つめ直す良い機会になったのよ」
苦い記憶のはずなのに田辺の表情は晴れやかだった。
「変な話をするけどね、実はその頃から、同じような悩みを抱えている人が何となく分かるようになったの。勘違いだったら申し訳ないけど、常木さんは、あの時の私と同じような表情をしていたから……」
──確かに体調が悪い。こんな生活を続けていいのか? この先に女としての幸せはあるのか?
そう考えれば考えるほどに胸が苦しくなり、動悸も酷くなった。
「見透かされてましたね」
翠玲は意外にも微笑んでいた。
取材先に心の内を読まれる。記者として恥ずべきことなのに何だか嬉しかった。上司が気付いてくれない心の葛藤に気づいてくれた体と思う。
「実は今、銀行内で新たなベンチャーを立ち上げていて、社内外から優秀な人材を集めているの。凄くやりがいもあるし、何より無理なく働ける環境よ」
「えっと……」
言葉を紡げなかったのは、なんとなく田辺の話の続きが分かったからだ。
田辺は真剣な眼差しで翠玲に問う。
「常木さん、ウチに来ない? すぐにとは言わない。だけど前向きに検討して欲しいの」
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