第二章 特オチ、食らいまして(5)

 ──まさに怒涛の三十分間だった。

 八重洲近くの洋食屋でランチ中に、青木から特オチの一報を受けた。事態が飲み込めない中、今度は翠玲が電話をかけてきた。

「深堀記者、兜倶楽部に創業家側のリリースが投函されている可能性があります!」

 何故か兜倶楽部の常駐記者、小向環奈こむかい・かんなとも連絡がつかないことも補足説明してくれた。

「小宮山さんはすぐに兜倶楽部へ。僕と深堀君は、本社に上がろう」

 さすがキャップ。米山の判断は早かった。東京駅八重洲口から丸の内口までは、実はタクシーより走った方が早い。圭介と米山は昼の東京駅を共に疾走した。

 その間、タクシーで兜倶楽部に向かったコミショウから着信。走りながら電話に出た圭介に、さらに荒い息のコミショウが叫ぶ。

「リリース発見! 兜倶楽部のホワイトボードに張り出されていました。圭介さんのスマホにすぐ写真で送ります。本社にもメールとFAXで送って、報告しときます」

 十一時十九分。編集フロアの企業部の島に圭介は、米山とともに到着。

「アサボリ! まずは原稿だ。五分で書いて出せ。俺が見る」

 そう言った青木の周りには、堂本と谷の「日比谷ライン」が腕組みをして直立。夕刊デスクの柿沼が両主人の表情を窺いながら佇んでいた。圭介が座った席の斜め向かいでは、この日の夕刊一面記事を書いた翠玲も座っていた。


〈【速報】シャイン輝川前社長が独自の取締役案 六月総会で株主提案へ〉


【手作りパン工房「モグモグ」を全国展開するシャインベーカリー前社長の輝川誠氏は十九日、六月の定時株主総会の株主提案として、独自の取締役候補を発表した。現取締役八人のうち七人を留任させる一方、自身の代表取締役社長への復帰と新たな社外取締役としてわかば銀行の鴨崎議範頭取を招く。現社長の星崎直倫氏は取締役候補案になかった。

 誠氏は、二一年四月に急死した創業者の龍造氏の長男で第二位株主。十四日、「一身上の都合」で社長を退任していた。】


 十一時三十一分。実に他社から遅れること三十分。圭介はシャインの速報記事をようやく配信した。これで三版からは夕刊にも載る。

 が、それは新たな戦いの始まりだった。

 カーン!──。実際、圭介の耳の奥深くではリングのゴングが鳴る音が聞こえた。

「特ダネを抜かれて、今度は特オチだと? おい深堀、お前は一体、何やってんだ!」

 開始のゴングとともに、いきなり強烈なストレートを浴びせてきたのは、顔を真っ赤にした企業部長の谷だ。

「兜倶楽部に創業家が株主提案に関するリリースを投函したと聞いています」

 圭介にも何が起きたか分からない。だから、そう返すしかない。

「そんなことは知っている。何故こういう失態をしたかを聞いているんだ俺は!」

 トレードマークの前歯を突き出し、谷は唾を飛ばす。

「深堀記者」

 その時だった。静観していた編集局長の堂本が口を開く。名前を呼ばれただけでフロアの温度が一度下がるほどの威圧感があった。銀縁眼鏡の奥の瞳は驚くほど冷たかった。

「君はシャインの担当だよね? なのに、創業家の動きを全く察知できていなかった」

 状況証拠を並べ、淡々と理詰めしていく。

「えーっと……まぁそうですが……」

 泳いだ目の先の席の翠玲は、整った眉をハの字にして、戦況を見守っていた。

「はっきり言おう。君は担当失格だよ。特ダネに続き、特オチ……。もはや、これ以上は君には任せておけない」

 ──良からぬ方に話が進んでいる。

 堂本は大きく嘆息する。それから銀縁眼鏡を鈍く光らせ、淡々と告げた。

「君、クビね。シャイン担当は別の記者にやってもらうから」

「ク、クビ……」

 圭介の瞳が小刻みに揺れる。

「足を引っ張って、企業部の評判を下げ続けるような奴はいらない。君には企業部からも出ていってもらう」

 ──つまりは……左遷?

 ネタを抜かれたことよりも、自らの出身母体である企業部の顔に泥を塗られたことに堂本は怒っている感があった。

 ここぞとばかり、忠誠心を示すように、谷や柿沼といった東経派閥の子飼いも深く頷く。

 ──クビ……俺は……ここで終わり?

 唇を噛み締め、反論の言葉を探す。が、何も浮かばない。

 ──万事休す……。

 諦めかけた、まさにその時だった。

「ちょっと待ってくださいよ局長!」

 米山が叫んでいた。編集フロアに着くなり、どこかに消えていたが救世主の如くこの場に現れた。

「足を引っ張って企業部の評判を下げたのは、本当に深堀君なのでしょうか?」

 米山は堂本に唐突に問う。

「ほぉ」

 堂本の銀縁眼鏡が鈍く光る。クイッとメガネを上げる仕草をしてから、何か面白いものでも見るように目をスッと細める。

 谷は終わりかけた話を蒸し返して、反論しようとする米山を威嚇する。

「実は先ほど、兜倶楽部にいる小宮山記者から電話がありました。その中でいくつか報告すべき事案が発覚しましたので、共有させていただきます」

 米山は堂本にも物怖じする様子はなく、堂々とした佇まいだった。

「まず兜倶楽部には本来、小向環奈記者が常駐しております。そして、小向記者の他にも、一ヶ月ごとのローテで若手記者が駐在しております。若手は七時には出勤しています。ですので、本来ならば、誰も兜にいないなんてことはありえないんです。ところが、今日は午前中、誰もいませんでした」

 ──午前中、誰もいなかった?

 そんなバカなという表情で、見上げた圭介に米山はコクリ頷き、説明を続ける。

「幹事社のタイムスの記者が、先ほど、小宮山記者に証言しています。朝からずっと毎経ブースに誰もいないのを不審に思っていた中、十時半頃にシャインの創業家代理人が『株主提案についてのリリースを投函したい』と申し出てきた。タイムス記者は、幹事社業務に則り、倶楽部内でリリースが投函された旨の放送をかけた上で、ホワイトボードにも張り出して、加盟各社に周知を徹底したそうです。ですが、毎経は誰もいなかったため、兜倶楽部の責任者の小向記者に直接、メールを送った上で、何度か電話もしたそうです」

 幹事社の業務としては不備がない。むしろ、そこまでしなくても良いくらいの手厚さだ。

「結果として、毎経のみが創業家側の発表ネタを落とすという事態に陥りました。これは兜の失態、いや企業部全体の失態ですよ」

「誰にでも失敗はある。仕方がないだろう。小向記者には、ちゃんと言っておく」

 何故か谷の歯切れが悪い。急速に勢いを失っている感すらあった。まるで、この話題を早く終わらしたいかのように……。

「仕方がない⁉︎」

 その瞬間、米山の声に明らかな怒気が滲む。

「ならば問わせてください! 昨夜二十時から、堂本局長と谷部長は『勉強会』と称して、企業部若手と酒席を設けていましたよね? その事実は間違いないですよね?」

 ──そういえば……。

 それで圭介も思い出す。昨夜、三年目の記者までが勉強会として酒席に誘われていた。圭介は四年目だから対象外だったが、部内の何人かが話していたから知っている。

「それは……」

 谷が口ごもる。どんどん失速している。

「単刀直入に問います。その会には、きょう兜にいなかった小向記者と手島遥てじま・はるか記者も参加していましたよね。手島記者は本来なら今日、兜に七時に来るはずでした」

 ──何だって⁉︎

 その先の話の道筋が見えた気がして、圭介の眉間に皺が寄る。

「ある参加者によると、『勉強会』は大盛況。若手女性記者を伴って、その後は二次会、三次会、最後はカラオケに行って、始発まで楽しく過ごされたそうですね」

 堂本は酒乱だ。酒が入ると豹変しセクハラをするなど「エセエロ紳士」の異名を持つ。先ほどまで澄まし顔だった堂本の顔に微かな動揺が滲む。

「小向記者と手島記者は泥酔して家に帰るのもままならなかったそうです。案の定、二人はきょう出勤できませんでした」

 僕が指摘したいこと分かりますよね?──。米山の言葉には、そんな圧が秘められていた。

「『足を引っ張って企業部の評判を下げ続けるような奴はいらない』と先ほど局長は言いました。ですが、今回の件、本当に足を引っ張ったのは誰でしょうか?」

 ぐるりとフロアを見渡した後、米山の視線が堂本で止まる。

「あなたたちが酒席にいた間も、必死に深堀君は頑張っていました。寝る間も惜しんでシャインの件を追っていたんです。なのに深堀君をクビにするなんて、キャップとして……。いや、一記者として、承服しかねます!」

 普段、温厚な米山からは想像できない熱弁。その正論に、もはや編集フロアの誰も口を開けないでいた。しばらく共同通信のピーコがフロアの沈黙を繋いでくれていた。

「おやぁ、一体、何事ですかねぇ」

 その時だった。圭介の後方から、どっしりとした低い声が放たれる。

 ──えっ。

 振り返った圭介は思わず目を見開く。思わぬ大物だったからだ。まるでフロアを散歩するかのように、のっそりと現れたのは、編集局のナンバー2、権座篤志ごんざ・あつし副長である。

 「ゴンザレス」──。陰でそう呼ばれ恐れられる旧・毎朝出身の編集幹部である。浅黒い肌に彫りの深い顔。百八十センチという高い身長と恰幅の良さは、大学時代は相撲部に属していた名残を大いに感じさせる。

「小耳に挟んだのですが、一人の記者をクビにするとか?」

 堂本にニヤリと笑みを向ける。

「局長、良かったら、その話、私にも詳しく聞かせていただけませんか?」

 口元に微笑を浮かべながらも、目だけは笑っていなかった。

 毎朝と東経の派閥幹部同士の対峙。まさに一触即発だった。

「夕刊三面、出しました」

 そんな凍てついた世界を氷解させたのは整理部だった。マイクを通してフロア全体に放たれた面担の男の声が、ここが新聞製作の中枢であるという現実に皆を引き戻す。

 圭介は柱時計に目をやる。十一時四十九分。三版の締切まではあと十一分だ。

 堂本がくるりと旋回し、圭介に背を向ける。編集長席に戻るようだ。堂本にとっては、締切のゴングにかろうじて救われた形だ。

「今回は不問とする。だが、次はない」

 堂本は背を向けたたまま、捨て台詞を吐き辞去した。それは圭介ではなく、突如割り込んできた米山やゴンザレスに向けられているような気がした。

「何とか副長も間に合って良かった」

 再びのっそりと歩き出したゴンザレスの背を見つめながら、米山が安堵のため息と共に言葉を吐く。圭介はハッとする。

「米山さんが権座副長を呼んでくれたのですか?」

「うん、まぁ。ちょっと社会部時代の伝手を頼って、権座副長に今回の件を報告しただけさ。僕も、まさか来てくれるとは思っていなかったけどね」

 米山はいつもの柔和な笑みで返す。

 ──またもや米山キャップに救われた。

「ありがとうございます!」

 深々と圭介は頭を下げていた。

「派閥抗争なんて本当にくだらないさ。何より、こんなことで君を失いたくなかった」

 米山は白い歯を見せる。

「じゃあ、僕はこれから取材があるから、これで失礼するね」

 米山は颯爽とフロアを後にする。

 不意に翠玲とも目が合った。圭ちゃん、良かったね──。そんな表情で翠玲は微笑んだ。

 三版の降版に向けて、編集フロアの人間が動き始める。そんな中、まるで取り残されたように静止したままの人間がいた。自然と圭介の視線もその人物に吸い寄せられる。

 青木だった。腕組みをして、編集フロアを去っていく米山の背中を見ていた。

 青木は今日もブルーライトカット眼鏡をかけている。だから、眼鏡の奥の瞳は見えない。が、額に刻まれた縦皺から、何となく米山を睨め付けているように圭介には思えた。

 青木は東経出身で、その主要部署である企業部でずっと記者をしてきた。今回の一件では、東経派閥の幹部である堂本が公然と恥をかかされてしまった。その元凶を作った米山への怨嗟の眼差しのように圭介には見えた。

 ──本当にくだらない。

 圭介は内心で吐く。

『派閥抗争なんて本当にくだらないさ』

 耳の奥では米山のさっきの言葉がいつまでも反響していた。

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