第二章 特オチ、食らいまして(4)
「夕刊一面、降版します!」
十一時。東京本社二十階。整理部の一面面担席に座る若い女が、編集フロア全体に響き渡る声量で、夕刊二版(初版)を降版した。
かつては翠玲もあの席に座っていた。二〇一五年の入社とともに整理部に配属され、三年目には第一グループに転属になった。
翠玲は手元の面担表の紙に目をやる。そこには〈
──確か数年前に誤報を書いて、企業部から整理部に飛ばされた子だ。
直接の面識はない。が、一年目にしては筋の良い記事を書き、企業部内ではそれなりに期待されていた。どんなに結果を積み上げていても、一つの失敗で左遷させられてしまう。それが新聞社だ。
──きっと、あなたは近いうちに出稿部に戻れるはず。
二版の紙面に間違いないかチェックに勤しむ桃果の背中に、翠玲は内心で呟く。
毎経新聞の夕刊は二〜四版の計三回の降版がある。降版時間はそれぞれ、二版が十一時、三版が十二時、最終版の四版が十三時半だ。
先ほど角刈りの整理部新人が、ドタバタと靴音を響かせ、この企業部の島に仮刷りを置いていった。仮刷り一面の準トップの位置には、翠玲の記事があった。
〈岩殿商事「配当性向五割に」 来期から、物言う株主に対応〉
【非鉄金属卸大手の岩殿商事が、来期(二〇二三年六月期)から配当性向を現在の二割から五割に大幅拡充する。同社株を二十%保有するアクティビスト(物言う株主)が株主還元の拡充をするように水面下で圧力を強めており、同社がそれに対応した形だ。】
正直、夕刊で使わなくて良かったと翠玲は思う。仮刷り紙面の上に溜息が沈殿する。
──他社の事例も組み合わせれば、朝刊の
近年、物言う株主が割安とされる日本の上場企業の株式を大量取得。その後の総会で、株主還元や取締役選任議案を株主提案する例が増えている。対応に苦慮した結果、今回の岩殿商事の例の如く、総会前に物言う株主を多分に意識した方針を打ち出すのだ。
物言う株主の一連の行動は、企業の経営効率改善につながる。一方、むしろ経営が混乱してしまう事例もあり、度々、株式市場では物議を醸してきた。
──そう言えば、シャインの件も、物言う株主である東洋キャピタルがシャイン株を数年前に大量取得したことに端を発している。
目では岩殿商事の記事をチェックしながら、思考はやはりシャインの件が頭をチラつく。
──やっぱり、今回の件はハゲタカによる乗っ取りなのだろうか?
「どう? 記事は大丈夫そう?」
髪のサイドを刈り上げ、光沢のある髪を左後方に向かって流しており、記者というより、やり手の不動産営業マンを彷彿とさせる。もっとも、やり手に見えるのは外面だけで、今日もデスクとしての仕事ぶりは酷かった。
「ええ、大丈夫そうです」
翠玲は淡々と返したものの、今日、本社に上がる経緯が脳内に蘇り、表情は強張った。
柿沼から電話があったのは八時半過ぎ。その時、翠玲は九時からの取材に備えて、新橋駅近くのカフェで取材の準備をしていた。
「今日は夕刊の編集長が局長でさぁ、流石に一面に企業部ネタがないのは不味くて」
柿沼は言い訳じみた前情報を明かす。無論、局長とは企業部出身の堂本編集局長のことだ。
「そんで、良いネタがないか、野洲に電話したらさ、『君の暇ネタが良いんじゃないか』って話になってさ。とりあえず、夕刊一面にエントリーしておいたから、よろしくぅ」
──おいおい。
ツッコミどころが満載だった。
まず、翠玲の提案していた岩殿商事のネタは暇ネタではない。暇ネタとは新聞紙面において緊急性のないネタ。 紙面を埋め合わせるために利用されることが多い。
岩殿商事のネタは、テーマ性とニュース性を兼ね備える独自ネタだ。
「朝刊の前面か、専門媒体のどれかのフロントで、取り上げさせてください!」
先週、第二グループの会議で出稿案としてそう提案したはずなのに、キャップの野洲は一体何を聞いていたのか? そもそも──。
「九時からCFO(最高財務責任者)取材アポが入っているんですけど……」
企業部では暗黙のルールとして、午前に取材が入っている場合、その記者のネタは夕刊では使わない。夕刊対応で取材そのものが潰れてしまうためだ。翠玲は前日、午前の取材の件を共有メールで柿沼にも送っていた。
「そんなの、リスケすれば良いだろう」
──そんなの……だと? 簡単に言ってくれる。こういう現場の苦労を分からないところが嫌われるんだよね、この人は……。
九時に翠玲がアポを入れていたのは、新橋にある独立系の機械専門商社。優良企業だが、社長がマスコミ嫌いとされ、これまで紙面掲載はなかった。その会社のCFOを何とか口説き落として、やっと入った取材だった。
「あの……リスケは難しいので、他の企業部ネタを夕刊に使っていただけませんか?」
「そんなの無理に決まっているだろう! 既に八時からの夕刊紙面会議で、こっちは提案しちゃったんだぞ!」
──提案前に相談してよ。編集だけがデスクの仕事じゃない。いや、むしろ、そういう調整を上手くするのがデスクの仕事でしょ?
「とにかく本社に今すぐ上がってこい!」
柿沼が怒声とともに電話を切る。
ツーツーツー──という不通音が鼓膜を叩く。その音に合わせて、翠玲の心臓がチクリチクリと痛む。脈も乱れる。慢性的な睡眠不足のせいか、最近は動悸と息苦しさが酷い。
深呼吸を繰り返して息が整ったのは五分後。翠玲は重い腰を上げてカフェを出た。
「局長も喜んでたぞ」
傍に立つ柿沼は、浅黒い顔とは対照的に白い歯を見せて、中央の幹部席を見やる。その編集長席では、堂本が威厳を示すかのように、腕を組んで目を瞑っていた。
──喜んでいるのは、局長に子飼いとしての忠誠心を示せたあなたでしょ?
そんな皮肉めいた言葉は何とか喉元に止める。その時だった。
「おい柿沼! これは二版に入れねぇとまずいだろ!」
翠玲の鼓膜を怒声が揺さぶる。
振り返った先には、額に青筋を立てた青木が立っていた。「若頭」の名は伊達ではない。威圧感と怒気を全身にまとって、編集フロア全員の視線を釘付けにしていた。
「えっと……。入れるって何をです?」
柿沼が恐る恐るといった感じで問う。
「これだよ! 共同のモニタくらい、ちゃんとチェックしろや!」
その手には一枚の紙が握られている。契約している共同通信社が配信したとあるニュースだった。
「あっ……」
柿沼が口を開けたまま硬直する。
ピーピコピコ──。ちょうどその時、共同通信がニュース配信前に流す特有の電子音が編集フロアに降り注いだ。
「共同通信、ニュース速報。〈シャイン創業家が株主提案 取締役選任議案を発表〉」
共同の女性スピーカーが読み終わる前に、青木は柿沼に問う。
「何でシャインのニュースを二版に入れてねぇんだよ! 今、ウチがこの件でやばい状況って、お前、知らねぇのかよ?」
青木が圭介以外にここまで怒るのを久方ぶりに見た。
「ウィレットは十分も前に配信してんだぞ。なぜ、フロアの誰も気づかねぇんだよ」
──今回もウィレットが先行した? 嘘?
「マズイことに、共同に加盟してねぇ中央やタイムスも既に報じてやがる。このままじゃ、二版の紙面でウチだけが特オチになるぞ!」
特オチとは、一社だけが重要なネタを落として報じられないこと。特ダネを抜かれる以上の大失態だ。
青木は社用スマホを取り出すと、誰かに電話し始める。
「アサボリ、バッカやろう! お前、特オチ食らってんぞ! 創業家が取締役選任議案を発表したらしい。ウチだけが報じられてねぇんだよ! 一体どうなってんだよ、おい!」
全身にまとわりついた怒りを全て電話の先の圭介に注ぐように、青木は捲し立てた。
「おい、青木どうする。二版を
青木が電話を切ったタイミングを見計らって、整理部夕刊担当デスクの
再降とは再降版の略で、紙面に重大なミスがあった際、当該箇所を修正し、速やかに降版し直すこと。が、ネタを入れられなかった際に用いるのは異例の措置である。
「うーむ」
逡巡する間を挟んでから、青木は言い放つ。
「仕方ねぇ。二版は共同伝を使うしかない」
「ダメだ、青木」
間髪入れずに否定が入る。堂本だった。腕を組んで、眉間に縦皺を刻んでいる。
「ウチが経済ネタで共同の原稿を使うだと? そんなみっともないことできるか?」
「しかし、局長……」
青木がチラリと柱のデジタル時計に視線を這わせる。
十一時三分。そもそも、紙面方針の議論をしている時間はない。
「二版だけでも、共同伝を使うなんてみっともない。社会面なら共同まみれでも良いが、一面、しかも企業ネタに共同伝なんか使えるか。読者に笑われるぞ、青木。ウチはあくまでも独自のネタを使う」
言動には、派閥として敵対する社会部への侮蔑も多分に含んでいた。
ちなみに、共同の国内配信記事の場合は共同のクレジットはつかない。
──おそらく読者だって気付かない。
「二版はもう入れなくて良い」
堂本は続ける。
──その判断の方がマズいんじゃ?
「そして、シャインの担当記者はクビだ」
──えっ?
有無を言わさぬ口調で堂本はピシャリと宣言した。
──圭ちゃんが……クビ……ってこと?
突然の展開に、翠玲は言葉を失う。編集フロアも水を打ったように静まり返った。
堂本は今、局長の威厳を示すかのような足取りで、編集長席に戻って行った。
「クソ。一体、何でウチだけが……」
怒りで顔を朱に染めた青木がギュッと拳を握る。
──そうなのだ。確かになぜウチだけがシャイン創業家側の発表ネタを逸した? 情報の震源地はどこか?
翠玲はカタカタと記者端末を叩き始める。日本中央やタイムス、東京魁、東洋日日、NHKなど全てのニュースサイトを行脚する。
──各社が【発表した】と報道している。では、どこで創業家側は発表した?
翠玲は思案する時の癖でトントントンと右の人差し指で顎を何度か叩く。
──リリースを発表する際、自分ならばどうする?
自分に置き換えて仮説を立てる。
──私だったら……記者クラブに持ち込む? でも……。
そこでまた疑問が頭の中で膨張する。
──ウチは都内では全ての記者クラブに加盟している。もし投函されれば、クラブ常駐の記者が気付くはずだ。
青木も今や、企業部の島の空席に座り、カタカタとキーボードを叩いている。おそらく、翠玲同様に発表ネタの震源地を探っている。あたふたするだけの柿沼とは違う。その時、不意に仮説が落下傘の如く降ってくる。
──記者クラブに投函されたが、何らかの事情でウチの記者だけがクラブにいなかった可能性は? では、どこの記者クラブか?
兜倶楽部、東商記者クラブ、都庁記者クラブ……。シャインの創業家が関係しそうな記者クラブが次々に浮かぶ。
──んっ?
その時だった。ふと、翠玲はあるメディアの速報記事に行き着いて、キーボードを打つ手を止める。端末画面には、日本マーケット新聞の速報記事が映し出されていた。
──確かマケシンって、共同とは契約していなかった。一方で、マケシンは兜倶楽部には加盟している。
その事実に行き着いた瞬間、閃光が翠玲の頭を貫く。
──そうか!
「兜倶楽部です! 」
翠玲は勢い良く立ち上がって叫んでいた。
フロア中の全ての視線が注がれていた。気にする素振りもなく、翠玲は青木に告げる。
「創業家は兜倶楽部にリリースを投函したんです!」
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