第一章 特ダネ、抜かれまして(6)

「君は何でこんなに回り車を使っているんだ?」

 最近、谷企業部長自らが十八階の企業部フロアに乗り込んできて、記者たちを締め上げる姿を良く目撃する。

 新聞の購読部数が急減し、業界全体が斜陽産業と言われて久しい。毎経も例外ではなく収益は悪化。その結果、上層部から経費削減の大号令がかけられている。

 回りや会食と言った必要な取材費まで削られたことで、取材先に食い込むのが難しくなった。取材の質が落ち、週刊誌や月刊誌に後塵を拝する事も多くなった。

「部ごとに記者一人当たりの経費率を弾き出して、競っているみたいよ」

 翠玲が呆れ口調で放った噂は、あながち嘘ではないと圭介は思う。

 自分たちはかつて夜の私的な飲み会までハイヤーで出かけ、湯水のように経費を使っていた。その癖、自らが管理職になった瞬間、部下に度を越した倹約を命じる。

「はぁはぁ」

 ──まるで上司のどんちゃん騒ぎのツケを払わされている気分だ。

 朝五時半。圭介は休日の住宅街の坂道を登りながら、そんなことを改めて考えていた。

 今日も朝回りは電車を使った。ただでさえ特ダネの件で、圭介は社内で立場が危うい。なのに、経費の件でも谷に目をつけられれば、また本社に上がらされるかもしれない。

 ──そんなことより……だ。

 先週、翠玲は二十九歳になった。誕生日を祝うため、本当ならばこの土日は二人で旅行に行くはずだった。レンタカーも借りた。海辺のホテルも予約した。プレゼントも購入していた。

 ──完璧な旅行計画だった。なのに……。

 圭介が木曜午前三時、盛大に特ダネを抜かれたことで、全てをぶち壊してしまった。

「私も忙しいからさ、旅行はシャインの件が落ち着いてからにしよっか?」

 木曜夜。翠玲は電話でそう提案したが、明らかに圭介を気遣ってのことだった。申し訳なさでいっぱいだった。

 さらに翌日には、前任の巻と引き継ぎを巡ってやり合い、その一部始終を隣席の翠玲にバッチリ聞かれていた。

 一人の男としても、記者としても、情けない姿を翠玲には晒し続けている。

 「ふー」っとため息だか、息切れだか、分からない空気が唇の隙間から漏れ出た瞬間、ようやくヤサに着いた。ここに来るのは、昨日に続き二回目だ。

 今日は土曜日。休日にスーツで住宅街をうろつくのもどうかと思い、結局、ややフォーマルな私服で来た。〈輝川〉と書かれた表札の前を一度通り過ぎて、住宅街を一周する。

 ──大丈夫だ。他社の姿はない。

 瞬時に電柱と同化し気配を消した。回りは釣りに似ていると思う。対象者という魚が現れるまで、ただひたすら待つ。

 それから待つこと三時間。通行人にも気付かれ始めた。長引くほどに、警察に通報されるリスクは増える。

 ──残念ながら、そろそろ潮時だ。が、今日はもう少し踏み込んでみることにしよう。

 再度、他社がいないかを警戒しつつ、表札横のインターフォンを押す。応答はない。

 ──不在か?

 長居は無用。前日に続き、一言書き込んだ名刺を郵便受けに入れようとした時だった。

「はい?」

 訝るように女が応じた。その背後からは、微かに赤ん坊らしき泣き声が聞こえる。

「毎朝経済新聞社の深堀と申します。あの、誠様はいらっしゃいますでしょうか?」

「はぁ……」

 女の声に困惑が滲む。インターホン越しだから、無論、女の姿は見えない。なのに今、圭介の網膜にはインターホンの向こうの世界が見えた。女は振り返り、リビングで赤子をあやす誠に目配せしている。誠は険しい顔で、首を大きく左右に振り、女に合図する。

「主人は今、おりません」

 全てが憶測の域を出ない想像の産物だが、居留守を使われていると確信した。

「そうですか。では、また来ます。誠様によろしくお伝えください」

 誠まで聞こえるようにと、声量を一段と上げて返す。深々とお辞儀して辞去した。

 ──誠には妻と赤子がいる。それが分かっただけでも収穫だ。


 五反田のファミレスで昼食を摂ってから、次なる回り先へ。目指すは星崎社長宅である。と言っても、本当に住んでいるか分からない。

 代表取締役が異動すると、企業は法人の代表者(多くは社長)の住所を登記変更しなければならない。実はその情報は、数百円を支払えば、ネットでも簡単に分かる。が、情報更新までは通常一〜二週間ほどかかる。念の為、昨日も検索をかけたところ、やはり更新されていなかった。

 ──やはり星崎社長に会うにはシャイン本社に向かうしかない?

 新社長宅の住所を掴む手がかりすらない状況だ。焦燥感を胸に抱いていた圭介の社用スマホが鳴ったのは、昨夜十一時のこと。翠玲からだった。

「圭ちゃん、星崎社長が三年前に再建した企業の登記簿をもらったから、今、メールで送ったね」

「えっ、どうして、これを……」

 メールで送られてきた登記簿に驚く圭介に、翠玲は笑って答える。

「たまたま手元にあって」

 ──たまたま? いや違う。翠玲のことだ。きっと、社内で四面楚歌の圭介のため、調べてくれたのだ。

「三年前の情報だから、今は住んでいないかもしれないけど……」

 ──それでもありがたい。

「ありがとう。本当にありがとうございます」

 圭介は電話なのに深々と頭を下げていた。

「星崎社長の例の件も今、調べているから」

 例の件とは、二日前に発表された〈代表取締役等の異動に関するお知らせ〉のリリースの新社長略歴の記載だ。実は社内でも、ちょっとした話題になっていた。

〈二〇〇〇年四月 東都経済新聞社(現・毎朝経済新聞社)入社〉

 一三年に東洋キャピタルに入社するまで、なんと十三年間も旧・東経に在籍していたからだ。

「私は二〇十五年入社だから、星崎さんのことは全く知らないの。年次の近い東経出身の先輩にも当ててみたけど、その人は知らないらしくて。引き続き調べてみるね」

 昨夜、翠玲はそう言って電話を切った。

 ──何から何まで翠玲に頼りすぎだ。

 圭介は渋谷駅ハチ公口を出て、公園通りを歩きながら自戒する。

 十五分後、星崎のヤサかもしれない場所に辿り着いた。予想よりもかなり立派なタワーマンションだった。すぐ近くにはNHK放送センターがあり、代々木公園も近い。

 輝川誠といい、星崎といい、富裕層は住む世界が違う。まざまざと思い知らされる。いつもの癖でタワマンの周りをぐるりと一周し、出入り口の位置を大まかに確認した。

 ──共用エントランスの物陰で張るべきか? それとも、車を利用する場合を想定して、地下駐車場で張るべきか?

 エントランスへと繋がるレンガ道で、腕を組んでしばし悩む。その時だった。

 コツコツコツ──。小気味良い靴音が、圭介の鼓膜を突く。少しずつ音は大きくなっている。誰かがエントランスに向かって近づいてきている。

 圭介は振り返って、軽く会釈をして、道の脇に避けた。買い物袋を持った男は、無地の白Tシャツにチェックのパンツ。キャップとサングラスも着用していてラフな格好だ。圭介の前を颯爽と通り過ぎていった。

 が、その瞬間、圭介の眉がピクリと反応する。

 ──堂々と王が凱旋するようなこの歩き方……どこかで見たような……。

 探偵さながらに右手を顎に当てて思案する。脳内の記憶のアルバムがどんどん捲られていく。ページが止まったのは、散々だった二日前のあのシャイン本社の記憶だった。

 ──まさか星崎社長?

 目を細めて、男の背中をじっと見る。きっちりスーツを着こなしてシャイン本社に凱旋した男と目の前のラフなイケおじ風の男が、どうしても同一人物としてリンクしない。

『圭ちゃん、初めて会う人は顔より耳を見た方が良いよ』

 翠玲のあの言葉が、また鼓膜で蘇る。

 ──そうだ。耳だ。

 圭介は男に追いつくと、左側に回り、左耳を見る。

 ──左の耳たぶが……ない。間違いない!

「星崎社長!」

 圭介は呼び止めていた。袋を持った男がピタリと足を止める。ゆっくり振り返る。サングラスで目の動きは見えない。

「あの……私、毎朝経済新聞社の深掘と申しまして……」

 男の威圧感に押されながらも、慌てて名刺を差し出す。

「あっ、やべ!」

 あまりに慌てていて、先週、名刺交換した同業他社の社長の名刺を差し出してしまった。

「すみません……」

 慌てて、自分の名刺を取り出し直して、差し出す。

 当の星崎は静止したまま、手を伸ばさない。

「あの……」

 微妙な沈黙に圭介は、星崎の表情を探るが、露出した口元の部分に変化はない。

 数秒の間を挟んだ後、ようやく星崎は動き出す。くるりと踵を返し、何事もなかったかのようにエントランスに再び歩を進める。無論、圭介の名刺はもらってくれなかった。

「星崎社長……」

 「クゥン」と泣く犬のように、その言葉は弱々しかった。呆然と星崎の後ろ姿を眺めることしか、今の圭介にはできない。

 その時だった。視線が透明な買い物袋に奪われる。そこに見慣れたカラフルなデザインの商品が入っていたからだ。

 ──あれって……ワンダフルフーズの犬用のフン取り袋だ。

 圭介は三月までペットフード業界を担当していた。だから、見間違えるはずがない。

「ということは……星崎社長は犬を飼っている?」

 圭介はタワマン上層階を見上げた。

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