第一章 特ダネ、抜かれまして(3)
〈富通、再生エネ事業に八千億円投資 今後五年で〉
【総合商社首位の
「やっぱ弱いなぁ」
一面トップ原稿の仮見出しとリード(前文)部分を読み返しながら、翠玲はぼやく。その言葉はフロアの熱気に瞬く間にかき消された。
十八時。初版(十一版)の降版までは、あと一時間。朝刊一面トップは、その日の紙面で一番価値が高いと判断されたネタだ。が、当の翠玲に高揚感はない。疲労感が心身にベットリとまとわりついていた。
──思えば、朝からついていなかった。
午前三時。交際相手の圭介が盛大に特ダネを抜かれた。けたたましい電話の音で、一緒のベッドで寝ていた翠玲までも叩き起こされた。いや、その表現は正しくない。なかなか起きない圭介を起こしたのは翠玲だった。
元々、眠りが浅いし、二度寝できない性分。予期せぬ形で一日がスタートしてしまった。
「圭ちゃん、これ食べて」
冷蔵庫にあった軽食を圭介に渡し、緊急の朝回りへと送り出した。玄関で見送った時、何だか部活の朝練に向かう我が子を送るような心境だった。
そこから日中は計三社の取材をこなした。ここまで全速力で走り続けた。だるさやふらつき、頭痛、動悸が最近は酷い。
──動きそうな案件の夜回りが終わり次第、今日は家に帰ろう。
そう思っていたのだが……。
「常木記者、出稿案で出していた例の富通の投資ネタ、一面で決まったからお願いね」
「えっ⁉︎」
十七時過ぎ。三件目の取材を終えたタイミングで、
「うん、そう一面。おめでとう。良かったわね」
どうやら、翠玲の驚きを一面にネタが採用された喜びと捉えたらしかった。が、違う。
「今日組の一面ネタって、十五時の紙面会議で社会部ネタに決まっていましたよね?」
「あら、よく知っているわね」
翠玲は紙面製作を担う整理部の出身である。紙面会議に出席した整理部の先輩から「社会部ネタに早々に決まった」とあらかじめ情報を受けていた。だが──。
「堂本局長がさっき帰ってきてね、『社会部ネタはそぐわない』と難色を示したのよ」
「それで私のネタが……?」
──また
「うん、良かったわね」
──だから、そうじゃないって。
野洲の一言一言が、翠玲の神経を逆撫でしていた。
「あの……私のネタ、弱くないですか?」
だから、単刀直入に尋ねた。翠玲が先週の第二グループの週定例の会議で提案したのは、富川通商の社長インタビューでの発言をベースにした出稿案だ。
【社長が「今後、五年で再生可能エネルギー関連に八千億円を投資する」と発言した】という内容だ。が、投資額の八千億は、取材後に広報と折り合いをつけて、何とか捻り出した数字だった。出稿案として成り立たせるには、時に交渉力も記者には求められる。
──まぁ、中面の囲みくらいで使えれば。
そう考えていたネタが、予想外の大出世をしてしまった。
「そんなこと言っても、仕方がないじゃん! 企業部内に他に良いネタがなかったんだから!」
野洲がいつものようにヒステリーを起こす。セミロングの髪をセンター分けした額に、血管が浮き出る姿が電話越しでも分かった。
「ただでさえ、シャインであんなみっともない負け方をして、企業部は面目丸潰れなんだから」
突然、圭介が盛大に抜かれたシャインの件が出てきて、翠玲は苦笑する。
「本当に深堀君とかいう若手は、何しているのかしらね? 今日の夕刊、後追いもまともに出来なかったらしいじゃない。ホント、バカボリ君ね」
──「アサボリ」だの、「バカボリ」だの、良くもまぁ、みんな秀逸なあだ名を思いつくものだ。
「私が若い時なんてね、もっと大変だったのよ」
──また、始まってしまった。
野洲のマウントの扉が開いてしまった。
「自分の昔はもっと大変だった」
新聞社では名ばかり管理職の上司ほど過去の栄光を語りたがる。
──生きているのは今。大切なのは未来なのに……。
「あっ、野洲キャップ、すみません! ちょっと本社から電話が来ちゃって」
翠玲は開きかけたマウントの扉を強制的に閉じる。無論、本社からの電話は嘘である。
初版の降版までは二時間を切っているし、野洲の昔語りに付き合うほどのボランティア精神は持ち合わせていない。
「良いなぁ、常木記者は自由に働けて。私みたいに子供が二人もいると暇ないもん。今から保育園に迎えに行かなくちゃだし」
言わなくて良い言葉の数々を最後に浴びせて、野洲は電話を切る。ツーツーツー──。翠玲の鼓膜を不通音が何度も刺していた。
「ママぁ」
不意に目の前を母親に手を引かれた子供が横切る。
翠玲は先週、二十九歳になった。記者としては八年目。商社という担当一つとっても、社内ではかなり評価されていると思う。
だが、最近思うのだ。記者という仕事に注力するほどに、女としての幸せは遠のいているのでは……と。
──私だって子供は欲しい。
こうやって親子連れとすれ違う度に思う。
それを考えれば、ひたすらネタを狩るような今の狩猟生活には限界がある。
──そんなこと分かっている。
記者としての幸せを選ぶか? 女としての幸せを選ぶか? 三十歳を来年に控えて、翠玲は、考えることが増えていた。
毎朝経済新聞東京本社は、東京駅の丸の内口から徒歩五分という高立地にそびえ立つ高層ビルだ。
十八時過ぎ。社内の温度は十九時の初版の降版に向けて一気に上がる。企業部フロアでは、締切りに追われた百五十人ほどの記者が忙しなく動き回っている。
「全く、常木もとんだ貰い事故やなぁ」
声を掛けてきたのは隣席の巻である。第二グループのサブキャップだが、野洲が時短勤務のため、実質的なキャップと言って良い。
「はい。また、どんぱちあったみたいですね」
編集フロアのある二十階を見上げて、翠玲は苦笑する。
「なっ、堂本さんが社会部ネタをちゃぶ台返ししたんやろ。好きだよなぁ編集幹部も。本当に毎日が楽しそうで、何よりや」
元々、細い目をさらに細めて、巻が皮肉を吐く。
そういう巻も企業面のトップ記事を緊急で割り振られており、盛大に被弾している。
誰かの幸せを実現するために、誰かが犠牲になる。この会社の縮図がここにはあった。
──やはり合併なんかするべきじゃなかったんだ。
一面原稿の体裁を整えながら、翠玲の記憶は五年前のあの大合併時へと浮遊し始める。
毎朝経済新聞社は二〇一七年四月、全国紙の毎朝新聞社と経済紙の東都経済新聞社が合併して誕生した。当時、発行部数首位の日本中央新聞、二位の日の出タイムスを一気に抜き去り、日本の新聞業界の主役に躍り出た。
「日本一の新聞社の一員として、共に協力していこう!」
合併当初、社内には活気があった。毎朝新聞と東都経済新聞を廃刊にし、新たに毎朝経済新聞を創刊。平和的な「対等合併」を象徴していたと思う。
しかし、合併から半年後、友好ムードは瓦解する。きっかけは、毎朝出身の取締役の裏金疑惑が週刊誌の報道で発覚したことだ。その後、当該役員は辞任に追い込まれた。が、こともあろうに、新たに選出されたのは東経出身の取締役だった。これにより、取締役は従来の六対六から、東経が七人、毎朝が五人となった。「対等」の均衡はわずか半年で崩れたのだ。
「これでは、東経の体のいい乗っ取りではないか」
毎朝出身幹部の不満が瞬く間に膨張していった。
「裏金疑惑自体が東経のリークでは?」
そんな噂も社内を漂い始めた。出所不明の怪文書も社内では出回った。
そして、次は東経出身の取締役のセクハラ疑惑が週刊誌で赤裸々に報じられた。結果、その取締役が「一身上の都合」で辞任した。
もっとも、辞任よりも後任で揉めた。選出された取締役が東経出身者だったからだ。
「これで取締役の体制が六対六に戻る」
そう踏んでいた毎朝出身の幹部は激怒。それからというもの、この五年で何人も取締役が入れ替わるという異常事態に発展した。
合併から五年経った今、取締役は東経出身が八人、毎朝出身が四人。東経優位で内戦は続いている。
本来、部下の模範となるべき経営陣自らが乱れる。戦域は、必然的に部下達にも波及していった。毎朝が社会部や政治部、東経が企業部や経済部の掌握に動いた。
両派閥の意向で、実に六つもの新媒体が立ち上がった。翠玲も当時、二媒体の立ち上げに整理部員として関わった。表向きは「読者のニーズに応えるため」との触れ込みだった。
しかし、実際は違う。権力争いの戦禍が紙面にも広がり、毎朝、東経の出身者が三媒体ずつ立ち上げたのだ。
新コンセプトという割に、紙面のロゴ、レイアウト、内容などを入れると、結局は旧毎朝新聞と旧東都経済新聞に毛が生えたような紙面だった。今では六媒体全てが赤字なのだから、笑うほかない。
いくら特ダネを報じたって、新しい媒体を作ったって、部数減は改善しない。なのに、上層部は「クオリティファースト」を掲げて、記者たちに高すぎるレベルを求める。媒体が増えて、出稿量もただでさえ激増している中、現場の記者達はどんどん疲弊していく。
「こんな新聞社に誰がした」
そんな捨て台詞を吐いて、合併後、何人もの仲間が退職していった。
回想から現実世界に帰還する。翠玲は一面トップ原稿を完成させていた。
本記は八十行。顔写真とグラフは出稿済み。
端末画面左上の自動校正ボタンをクリックすると、負荷が上がったのか、記者端末までもが苦しそうにファンから空気を取り入れる。代わりに吐き出された空気が、ますます企業部フロアを暑くしていく。
──原稿に誤植はない。大丈夫だ。
原稿送出ボタンを力強くクリックする。瞬間、原稿がスッと端末画面の向こうの世界に吸い込まれていった。
「一面トップ、本記出しました」
社内スマホを耳に押し当てて、デスクに告げる。机上のデジタル時計は十八時十七分。
──次は三面の関連原稿だ。
ピーピコピコ──。共同通信のピーコをBGMにして、どんどん熱を帯びていく社内で、翠玲はキーボードを打つスピードをさらに加速していった。
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