第9話 角あり令嬢は疑わない
腕の痛みで、目が覚めた。
「っ、ぐ……」
思わず立ちあがろうとして、後ろ手に縛られた腕が軋んだ。
どうやらソファのような低い椅子に座らされ、腕と脚を縛られているようだ。帽子はなく、埃っぽい空気が喉をくすぐった。
視線を巡らせる。どこかの倉庫のような室内。薄暗いが、高い位置に切られた窓からわずかに入る陽光はまだ日が高い時間であると教えてくれた。
意識を失っていたのは、わずかな時間のようだった。
(一体、何が……)
かつて拉致されかけたことを思い出す。今回のこれは、かつてのような衝動的な行為ではない。洗練された手際の、もっと狙い澄ました行動だった。
縄が緩まないかと、腕と脚をもぞつかせる。縄が食い込んで痛むが、泣いてはいられない。ただ……せっかく選んでもらった服が傷ついていくのは悲しかった。
がたん、と扉が開く音。
視線を上げた先にあった姿を見て、この状況の意味がわかった。
「……イザベル。てめーの仕業か」
「あら、お姉さま。相変わらず口が悪いこと。角だけでなく品性も獣のようですから、縄を打たれているのがよくお似合いですわ」
外出着のコートを羽織ったイザベルが、扇で口元を隠して笑う。いつも以上に悪意のこもった、いっそ美しい笑み。
こちらを見下ろすその笑みを睨みつける。
「何のつもりだ」
「獣を矯正して差し上げようと思いまして。公爵閣下に拾われてから、随分と増長していらっしゃるようですから。こんな角で殿方をたぶらかして、ヒトとして恥ずかしくありませんの?」
「増長? 冗談だろ、子爵令嬢。最低限の礼儀も守れない女が偉そうに――っぎ!?」
がつ、と音がした。頭が揺れる。
何が起こったかわからず目が回るような感覚。一瞬遅れて理解する――イザベルが、その扇で私の角を叩いたのだ。
混乱と怒りで、言葉が出ない。
「公爵閣下はこの角に御執心なのでしょう? 私には理解できませんけれど……不肖の姉が迷惑をかけないように」
男が扉から入ってくる。私にぶつかってきた男だ。
その手には、大きなノコギリが握られていた。
「角だけを切り取って贈って差し上げましょう」
うふふ、と笑う、腹違いの妹。その瞳に濁る感情が、私を突き刺す。幼い頃から注がれ続けてきた悪意の視線を煮凝らせたような、どろどろとした想い。
怖い。
怒りよりも恐怖が先に立ち、思わず首を横に振る。
「怖いですか? でも、感謝してくださらなくては。薄汚い角を切り取ってあげようというのですから。お父様も早くこうしていれば面倒などなかったものを」
……もっと怖がらせようとしたのだろう。どこか陶然とした妹の言葉は、だが、むしろ私を冷静にした。
角を切る?
そんなことを――私や、父や、妹はともかく――あの変態が許すわけがない。
「……来る」
「何かおっしゃいました?」
「助けに来る、って言ってるんだよ。あいつが、必ず」
「かわいそうに、恐怖で気が触れてしまったのかしら。我が姉ながら嘆かわしい。公爵閣下も、手間が省けたと喜ぶでしょう。さ、やりなさい」
ノコギリを持った男が迫る。腕に力を込めるが、縄が緩む気配はなかった。感覚などないはずの角が冷える心地がする。
鈍いノコギリの刃が角に触れる。
勝手に瞼が落ちる。
やめろ、と喉を震わせかけた瞬間――
どごん、と聞いたことのないような打撃音がして、扉が吹っ飛んだ。
明るい光を背負って立つのは、長身の侍女の姿。熊のそれとなった左腕は、どこまでも頼もしかった。
こじ開けられた扉から駆け込んでくる、一人の男。
「オリアーヌ!」
「……っ、ジェラール……遅ぇんだよ……」
応戦しようとしたのか、ノコギリを振りかぶる男。その横面を、ジェラールが殴り飛ばす。よほど力を込めたのか、男が吹き飛んで積まれた荷物に吹っ飛び、動かなくなった。
妹の方は腰を抜かしているらしく、クラリスが熊の腕を向けるだけで震えて声も出ないようだった。
「遅くなった。無事か」
「……ええ。大丈夫、角は――」
こうして付いている、と言いかけて。
ジェラールに強く抱き締められて、声が詰まった。
「君が無事でよかった」
「ひぅ……?」
抱き締める腕は力強く、こちらが座っていることもあって、まるで包まれるような姿勢になってしまう。腕も脚も縛られたままだから、抵抗することも、抱き返すこともできない。
(なんでだよ。いつも通り、角を真っ先に心配しろよ――)
咄嗟に浮かんだそんな思いは、口から出る時には別の言葉に変わっていた。自分でも恥ずかしいほど弱々しく、わずかに震える声で囁く。
「……助けて、くれて、……ありがとう」
「いい。……縛られているのか。今解く」
「……うん」
「痛くはないか。……跡になっているな」
縄が解かれ、腕と脚が解放される。安堵する間もなく、ジェラールの指が私の腕に刻まれた縄の跡を撫でた。
その指先が、いつも角に触れる時のように優しく、甘くて。
「んっ……」
自分のものとは思えない声が、唇を震わせた。
顔が熱い。
視線が合う。
「――、っん」
唇を、何か柔らかいものが塞いで。目の前に、ジェラールの美しい瞳があって。
一瞬遅れて、ああ、これが口付けの味か、と噛み締めた。
「……キスする場所、間違えてるぞ」
「間違うものか。……愛している、オリアーヌ」
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