第2話 角あり令嬢は踊らない

 煌びやかなシャンデリアの下、華やかな装束を纏った貴族たちが踊り語らう。

 盛況な夜会の片隅で、私はひっそりとその光景を眺めていた。

 手に持ったグラスを傾けて林檎酒を含み、味わう。爽やかな酸味が舌をくすぐる。このグラスが、踊らない私の言い訳だ。

 何となく、頭に手をやる。髪と角を隠すレースの髪飾り。夜会の席には不釣り合いだが、角を隠せるデザインの装束は少ない。


「あら、お姉さま。踊りませんの?」

「……イザベル」


 声をかけてきた女に視線を向ける。華やかな金髪、強気そうな顔立ち、私よりも数段金をかけた赤のドレス。腹違いの妹は、嘲るような微笑みを浮かべていた。

 隣には男性を伴っている。


「今日は気分が優れないの。この林檎酒を頂いたら、お暇しようと思っているわ」

「あら、それは残念ですわ。では、この方を紹介するだけはさせてくださいね」


 そう言って隣の男性を示す。紹介されるまでもなかった。数ヶ月前まで、私の婚約者だった人だからだ。

 婚約と言っても、家同士が『将来的に』と話していた程度のもので、仲良く語らったこともあまりなかったのだが。


「ボーティン伯爵のご令息、アークト様ですわ。アークト様、こちらは私の姉、オリアーヌです」

「お久しぶりです、アークト様。不束な妹ですが、どうぞ仲良くしてやってくださいませね」

「あ、ああ……よろしく頼む」


 妹の視線は私の瞳より少し上に向けられている。角の存在を揶揄するような視線は慣れたものだが、嘘をそのままにしておくような優しさは持ち合わせていなかった。

 父の正式な妻から生まれたのが私と、まだ幼い弟だ。母は十二年前に弟を産んだ際、熱を出して死んだ。

 妹イザベルの母親は妾だったが、母の死の数年後に父と正式に婚姻を結び、今は正妻の立場だ。父も義母も、角が生えた私より妹を大切に思っているようだった。無理もない。


「ふん。仲良く、ですって」


 イザベルが嘲るように笑う。その表情は母親にそっくりだ。腕をアークトの腕に絡めて、身を寄せる。アークトは……何とも複雑そうな表情で苦笑していたが、その距離感を受け入れていることが何よりの表現だ。


「お姉さまにはご報告がまだでしたわね。私、アークト様と婚約いたしましたの。婚姻は半年後の予定ですわ。お姉さまも、結婚式には是非、義兄となる方と一緒に参列してくださいませ」


 婚約が奪われた以上、『獣返り』の女に新たに縁談が来るはずもない、とわかっての誘い。

 私はにっこりと微笑んで答えた。


「半年のうちに性格の悪さを隠せるようになっとけよ、クソ妹。純白のヴェールでもそのにやにや笑いは隠せねーぞ」


 ぽかん、という音が聞こえてきそうな、妹とアークトのあっけにとられた表情。貴族しかいない夜会でこんな口汚い表現を聞くことはないから、何を言っているのかの翻訳に時間がかかるのだろう。

 幼い頃から角のせいで疎んじられていた私は、よく屋敷を抜け出して町の治安が悪い辺りへ遊びに行っていた。そこで出会った悪ガキどもと仲良くなり、貴族にあるまじき汚い言葉遣いグロモを学んだのだった。


「……っ、汚らわしい『獣憑き』が……!」


 イザベルがようやく何を言われたのか理解したらしい。怒りで耳まで赤くして、ヒステリックに叫ぶ。

 同じ罵倒の言葉でも、相手の表情にあるのが嘲りか怒りかによって、こちらの受け取り方は異なるものだ。言葉の短剣ポワニャールで一方的に貫かれるくらいなら、私は突き刺し合う方を選ぶ。

 しかし、今回は言葉では収まらなかった。イザベルの手が、婚約者の制止も振り切って、私のヴェールを掴む。勢いよくヴェールを剥ぎ取られて、一歩よろめく。咄嗟に手を頭にやると、硬く冷たい感触が指に触れた。


「頭にそんなものを生やしておいて、よくこんな場所に顔を出せたものですわ」


 何事かと集まった貴族たちの視線が、私の角に向くのを感じる。

 太く長い角は、手や髪ではまるで隠れない。思わず俯き、視線から逃げた。


「『獣返り』だ……」

「まあ、恐ろしい……」

「『獣憑き』は人を襲うというが……」


 遠巻きに見守る貴族たちの間から、そんな声が漏れてくるのも聞こえた。視線を逸らすような素振りで、だが確かに降り注ぐ悪意と隔意。『メイター家の長女は角が生えている』――噂があることは知っていたし、覚悟もできていると思っていた。だが、夜会の席で角を隠さずに晒すのは初めてで、向けられる感情が身体を縛るような感覚に陥る。

 口をつぐんだ私を見て、ぎりぎりこちらまで届く貴族たちの囁き声を背景に、イザベルが勝ち誇る。


「『獣返り』は先祖が獣と番った証だというではありませんか。私も、弟も、こんな汚らわしいものは生えていないのですから――」


 俯く頭を支える首と肩が震える。背が丸まり、腰の力が萎える。何を言おうとしているかわかっていて、今すぐにでも怒鳴りつけて止めるべきと思っているのに、身体は動かない。向けられる視線から、あるいは見えざる悪意から、角を隠してうずくまりたかった。

 じわりと涙が浮かぶのを自覚する。

 泣かされてなるものかと歯を食いしばるせいで、余計に言葉は出なくなってしまう。唸り声が無意識に漏れて、それが獣のようだと自嘲する。

 悔しい。

 そう思った瞬間だった。


「それは誤りだ」


 こぼれかけた涙が、横から鋭く放たれた声で止まる。

 視線を上げると、遠巻きに見守る貴族の中から一人の男が歩み出てくるところだった。

 灰色の混じった黒髪を隙なく撫でつけた、長身の男だ。年のころは二十三、四か。仕立てが良い服装は古典的な王道を踏まえつつ、胸元に揺れる金鎖などの小物が遊びを入れている。

 顔立ちは彫りが深く、怜悧。印象そのままの低く落ち着いた声で、私たちの驚きなどどこ吹く風で続けた。


「獣相を持つ者たち――いわゆる『獣返り』が発生する原因は解明されていない。ただ、先祖が獣と番ったというのはあくまで伝説であり、事実とは考えにくい。仔細は獣に欲情する罪人たちを調査したグンネ修道士の論文を参照したまえ」


 流れるような弁舌は、それでいて聞きやすい。思わず耳を傾けてしまった。イザベルも同じだったようで、低い声の余韻を振り払うように甲高く喚いた。


「ど、どなたですか。いきなり割り込んできて、不躾ですわ!」

「失礼。誤りを指摘しないのも信義にもとる。申し遅れた……ジェラール・ガルニエだ」

「ジェラール……が、ガルニエ公爵!?」


 妹の驚愕の声。流石の私も、ぎこちないながら淑女の礼を示してみせる。


「ガルニエ公爵とは……あの博覧強記の学者の……」

「『獣返り』を囲っているという噂よ……」

「彼の領地は豊かだからな、王も無下には出来んというが」


 貴族たちの囀りなど聞こえていないように、ジェラールが私の方を向いた。黒い瞳と視線が……絡まない。その瞳は真っ直ぐに私の額の上、角を見ていた。僅かに震えた声で、言う。


「すばらしい」

「……え?」

「素晴らしい角だ。遠目に見ただけで確信していたが、予想……否……期待を超えて美しい」


 なんだこいつ。

 角を褒められることなど、初めてだった。大抵の相手は目を逸らすか、あるいはイザベルのように罵ってくるかだ。何と反応していいのかわからない。悔しさなど、どこかに消えてしまっていた。

 戸惑っていると、イザベルの方も衝撃から立ち直ったらしい。


「が、ガルニエ公爵。初めまして。私はメイター家のイザベルと申します……」


 呼びかけられたジェラールの方は視線を投げ……瞳の動きからして、頭の上に角や耳がないことだけを確認し……私の方へ視線を戻す。正確に言えば私の角へ。

 視線が気持ち悪くて頭を少し横に動かすと、視線もしっかりついてきた。


「色は……艶のある黒。だが単なる黒ではなく、複数の色を内包しているように見える……」

「あの。あまり見ないで頂きたいのですが」


 真剣な表情だが声には熱がこもっている。褒められてはいるらしいが、男性が女性に向ける褒め言葉としては様子がおかしい。角を見られるのは嫌だったはずなのだが、悪意を一切含まず、まるで少年のように輝いてすら見える公爵の瞳は……なんというか、『嫌』の種類が違った。

 無視された、それも気付かなかったのではなく明らかに無視された形となった妹が、怒るべきなのか嘆くべきなのか迷っているような表情で告げた。


「公爵閣下。その獣……、『獣返り』の姉は私ども身内の恥。どうかお引き取り下さい」


 さすがの妹も『獣憑き』と言ってもう一度怒られたくはなかったらしい。それでも嫌悪感をたっぷりと込めた言葉に、ジェラールがこちらに問うてくる。


「身内か」

「え、ええ」

「では私も身内になろう」

「……は?」

「メイター子爵のご令嬢、オリアーヌだったな。貴女に結婚を申し込む」


「「……はぁ?」」


 私と、妹と、そしておそらく見守る貴族たちと。全員の疑問符が突き刺さってなお、ジェラールは堂々と立っていた。

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