5.
少し話したあと、陽菜は美由紀たちと別れて、前川と二人になった。
「どうします? ごはん、食べに行きますか?」
「あ、はい」
陽菜は断るのも悪いかと思って、そう答えた。
前川は爽やかで感じのいい人だった。快活で明るくて。決まった人がいない、というのが信じられない感じの人。別れて、たまたま一人だ、というのは本当なのだろう。前川はそういう自分のことをよく分かっているようだった。言葉には自信があり堂々としていて、陽菜に断られる可能性など、頭にないようだった。
陽菜は前川と食事をしながら、再会した日の實を思い出していた。陽菜の部屋に来て、落ち着きなくもぞもぞとしていた姿が、今でもとても微笑ましく思い出される。思わず笑みが浮かぶと、前川が陽菜の目を見て微笑みかけてきた。
「今度、車で出かけませんか? 少し足を伸ばして遠くに」
「あ、はい」
間違えた、と陽菜は思った。すぐに。だけど、うまく訂正することが出来なくて、前川により、どんどん日にちが決められていく。連絡先の交換もしてしまった。
陽菜は、そもそも断ることが少し苦手なのだ。それに、美由紀のことを考えるとすぐに断ってしまうのも、彼女に悪いように思った。一回だけ、と陽菜は思った。
美由紀の「比べてみたらいいんじゃない?」という言葉が、陽菜の頭の中でぐるぐるとしていた。陽菜の心の中にある、ぽつんとした黒いもの。それはじんわり広がったり、或いは忘れ去られたりする。美由紀の言葉は陽菜に、その黒いものをはっきりと意識させるのだった。陽菜は黒いものがじんわり広がっていくのを意識しながら、美由紀の言葉を反芻していた。そして美由紀の言葉の中でも特に「比べてみたらいいんじゃない?」という言葉は陽菜を支配したのだった。
前川は何か熱心に話している。陽菜は薄く笑いながら、それを聞く。
頭の中は全然別のことを考えていた。前川の顔を見ながら、美由紀の言葉を考え、黒く広がるもののことを意識し、それから實のことを思い浮かべていた。前川の話など、まったく頭に入ってこなかった。
比べる? この目の前の男と、實を?
楽しそうなドライブコースの話は、陽菜を覆った膜の向こう側で展開されていた。既に逃れられなくなったその楽しそうな話を、陽菜は退路を断たれた獲物のような気持ちで聞いていた。だけど、顔だけはにこやかに、楽し気に話す。お腹がずんと重くて、胸が塞がれるような気持ちでいた。
前川と約束してしまった当日、陽菜はどんよりした気持ちで「友だちと出かけてくる」と家を出た。實は「大丈夫? 調子悪いんじゃない?」と陽菜を心配したので、陽菜は泣きそうな気持ちで「ううん、大丈夫。早く帰る」と言って、出かけた。
駅で前川の車に乗り込む。
どうして映画にしておかなかったのだろう? 映画なら話さなくてもいいのに、と陽菜が後悔していると、前川に「映画でもよかったけど、映画だとあんまり話せないからね」などと言われて、見透かされた気持ちになった。
前川は物知りだった。実に色々な事を知っていて、運転中も現地についてからも、陽菜を楽しませるように話してくれた。そのことで、陽菜は気持ちがほぐれて、年上の男の人というのを実感した。
お昼ご飯を食べるくらいの時間になって、「緊張は解けましたか?」と前川に言われ、陽菜はふいを突かれた気持ちになった。
「え、あ、はい」
前川は悠然と笑うと、「随分緊張していましたよね?」と言った。
「……ごめんなさい」
「謝らなくてもいいですよ。何しろ、出会ったばかりだから」
「はい」
「……陽菜さん、と呼んでいいですか?」
「あ、はい」
「陽菜さん、俺のこと、どう思いますか?」
「え?」
「陽菜さんさえよかったら、結婚を前提につきあってもらえませんか?」
「あの……」
「というか、お互いの年齢を考えたら、つきあう、というよりも結婚に向けた準備期間になりますよね?」
「……はい」
前川はじっと陽菜を見た。
「陽菜さん。俺はあなたのことが気に入りました。話に聞いていたよりも、ずっと素敵な方だ。前向きに考えてもらえると嬉しいです」
「……はい」
陽菜はこれまで、「結婚しよう」と本気で言われたことがなかったことに気がついた。結婚したかったわけではない。結婚したくなかったわけでもない。陽菜の恋愛はいつもなぜか季節を一巡りすると終わりに向かっていた。そのような中で「結婚」が現実味を帯びることがなかっただけだ。
「結婚を前提につきあってもらえませんか?」という台詞は想像以上に陽菜に響いた。美由紀の言葉の数々が頭の中で渦巻き、そして「結婚を前提につきあってもらえませんか?」という台詞が黒いものを払拭するような気がしてしまった。
「じゃあ、前向きによろしく、陽菜さん」
前川は闊達に笑った。
食事の支払いも、気づいたらしてくれている。
話題は多いし、気遣いもしてくれる。
美由紀によれば、収入もよく安定した企業に勤めているようだ。
……結婚相手、と思えばきっと申し分ないのだろう。
陽菜は前川に笑いかけながら、まとまらない考えをぐるぐると捏ね回していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます