第66話:違和感の始まり
東の夜空がわずかに赤みを帯び、一足早く目覚めた小鳥たちのさえずりが、まだ暗いサルトリアの街に響きわたる。カタビランカよりも北方にある学園都市は朝晩の冷え込みがひどく、一歩踏み出すたびに真っ白な息が煙のように吐き出された。エルマニアは故郷での生活を思い出す。あの頃も日がのぼる前から剣の稽古に励んでいた。明け方の冷えた空気が脳を冴え渡らせる感覚が好きだった。
「……宿まで遠いな」
体が鉛のように重い。呪痕にほとんど力が残っていない証拠だ。加えて背中でぐっすりと眠っているメヴィの存在も大きい。メヴィは細身で同世代よりも軽いが、それでも意識を失った人間を背負って帰るのはそれなりの体力を消耗する。だがエルマニアは嫌な顔をしておらず、背中で眠る相棒を起こさないようにゆっくり歩いた。
「まったく、私が気を失っている間に何が起きたのやら。後で問い詰めてやろう」
ルドウィックに襲われたとき、エルマニアは本気で死を覚悟した。全身を夜霧に覆われ、自らの体が徐々に冷たくなっていく感覚は今思い出しても恐ろしい。彼女が生涯で最も死を身近に感じた瞬間だ。
それからエルマニアは気を失ったのだが、目覚めたときに新聞屋の姿はなく、メヴィは石床に倒れていた。どうして自分たちが見逃されたのかわからないが、状況から考えればメヴィが何かをしたのだろうとエルマニアは推測する。
エルマニアは悔しかった。騎士である自分がメヴィよりも先に倒れたことが許せないのだ。相手が魔女だった、なんて言い訳にならない。相棒を守れるぐらい強くならねば。決意を新たにしながら宿に向かう。
何度かふらつきながらも彼女は宿に到着した。時刻は夜明け前。宿の女主人ですらまだ眠っている時間だ。他の宿泊客を起こさないように、できる限り音を殺しながら階段へ向かう。
「弓騎士殿は無事に帰っているのだろうか……」
妙に胸がざわついた。明かりの消えた階段は薄暗く、一段、また一段とのぼるたびに、エルマニアの胸にうずくまる正体不明の不安は大きくなった。
扉を明けると室内にアルジェブラがいた。ちょうどお茶を淹れていたようだ。メヴィとエルマニアのために用意したのだろう。朝を感じさせる茶葉の香り。エルマニアは安心したように息をつくと、メヴィをソファに下ろして毛布をかけた。
「流石は弓騎士殿だ。魔女と一人で斬り結んで五体満足とはな。さぞ疲れているだろうに、先に休んでいてよかったのだぞ?」
「おかえりなさいエルマニア。私は……あまり、疲れていないのよ。でも少しぼーっとするかしら」
平坦な声で喋りながらお茶をカップに注ぐアルジェブラ。その様子に若干の違和感を覚えつつも、エルマニアはあまり気に留めなかった。
「驚きの体力だ。メヴィを見てみろ、宴会終わりのパシフィックみたいに爆睡だぞ」
「ふふ、彼女はまだ若いもの。聡明だから忘れがちだけど、本来なら学院に通っているような年頃よ」
「それはシャルマーンの話だろう。パラアンコでは珍しい話じゃない。戦争によって人の往来が減り、ゆるやかに死にゆく街のなんと多いことか。学院なんて王都ぐらいにしかないぞ」
「それならカタビランカに建ててみたらどうかしら。剣術学校があれば、あなたも剣を教えられるでしょう?」
「騎士を辞めたらその道も面白そうだが、こいつが戦場に立つうちは私も現役であり続けるつもりだ。私の老後のために建ててくれるというなら応援するぞ」
ソファで毛布にくるまるメヴィを見た。いつの間にかエルマニアのマントや弓騎士のネグリジェを巻き込んで、まるでミノムシのように眠っている。そのとろけきった顔は年相応。とても戦場で腐敗をばら撒く魔術士には見えない。
エルマニアは最近知ったのだが、どうやらメヴィは寒いのが苦手なようだ。特に真冬の夜はなにか怖い思い出があるのか、降り積もる雪に青い顔をしているのをたまに見かける。一度だけ理由を聞いたが彼女は話してくれなかった。
「……弓騎士殿は、メヴィの生い立ちを知っているか?」
「いいえ、知らないわ。実のところ調べたことがあるのだけど、何も見つからなかったのよね。あなたは知っているの?」
エルマニアは逡巡し、首を振った。メヴィの口から語られていない以上、無闇に喋るのはやめておこう。
それに正直なところ、エルマニアにとって生い立ちは関係ないのだ。過去がどうであれ大切なのは今。たとえメヴィが輪廻の魔女による非人道的な実験によって生まれたとしても、少女が相棒と呼んでくれるかぎり、エルマニアは彼女を守る騎士である。
「そういえば、弓騎士殿はいつ頃帰ったのだ?」
「いつ……いつだったかしら」
アルジェブラが手を止めた。どこかぼんやりとした瞳を虚空に向けながら彼女は思い出そうとする。
「よく覚えていないのよね。なんだか頭がはっきりしなくて。確かパンを買ったはずなんだけど……そうだ、パンだわ」
彼女はきょろきょろと辺りを見渡した。つられてエルマニアも探したがパンらしきものは見つからない。
「私の買ったパンはどこかしら?」
「知らないぞ?」
「そんなはずはないわ。帰り道で買って、タロッコの実をおまけしてもらって、坂で落として……それで、それで?」
「……疲れているのだろう。弓騎士殿も早く休んだほうがいい。街を出るのは少し遅めにしよう――」
茶を飲もうとしたエルマニア。そのカップが途中で止まった。
一瞬だけ、まばたきをすれば消えてしまうほど一瞬の間だけ、アルジェブラのあごから菌糸のような白い生き物が生えているように見えた。心臓がどくんと跳ね上がる。ただの一瞬の光景。だが無意識に剣を掴みかけて――。
「どうかしたの?」
ハッと我に帰るエルマニア。アルジェブラが怪訝な顔をしていた。菌糸はもう生えていない。見間違いだったのだろうか。まじまじとアルジェブラの顔を見つめてから、エルマニアはゆっくりとカップを置いた。自らを落ち着かせるように息を吐く。
「……どうやら、疲れているのは私も同じようだ」
「それならもう寝ましょうか。また明日、全員が起きたら準備をしましょう。悪いけどカップを食堂に返しておいてもらえるかしら」
「ああ、構わない。ゆっくり休んでくれ」
おやすみなさい、と言ってアルジェブラは部屋を出た。まだ心臓の鼓動が早いエルマニアは、脱力したようにソファへ深く沈み込む。しばし瞑目。さっきまでは倒れそうなほど眠かったのに、今はまったく眠気が来ない。
先にカップを運んでしまおうか。立ち上がってアルジェブラのカップに手を伸ばした。
「うん……? おかしいな、弓騎士殿はたしか甘いものが苦手では……」
カップの底に溶け残った砂糖がたまっている。エルマニアは不思議そうに首を傾げながら部屋を出た。平時であれば気にも留めないこと。だが今夜は気になってしまう。
「……よくわからんな。やはり疲れているのか」
カップを返却してから部屋に戻り、ゆっくりとソファに腰掛けると、幸せそうに眠るメヴィの頭を優しく撫でた。サラサラとした感触が指に返る。メヴィは言葉にならない寝言を言いながら毛布を掴んだ。たぶん、毛布は渡さないと言っているのだろう。エルマニアは緩く微笑みながら少女の呪痕を見つめる。
「勘弁してほしいものだ」
メヴィが独占する毛布を一枚だけ剥ぎ取り、彼女にならってぐるぐると体に巻きながらソファにもたれた。外は雪が降り始めている。これからもっと冷えるだろう。さっきよりも近く、温度を分け合うようにメヴィと寄り添いながら、エルマニアはゆっくりと意識を手放した。
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