第65話:夜霧に沈む魔女夫婦

 

 星詠ほしよみの魔女・ルドウィックは万物を見通す目を持っている。一種の千里眼であり、一介の魔術士では決して再現できない、魔女にのみ許される叡知の結晶だ。


 彼は霊廟のひつぎに腰かけ、宇宙のように煌めく青い瞳でメルメリィを見た。最初は死人のように眠る顔を。次に胸の前で重ねられた細い指先を。メルメリィは銀の指輪をしており、よく見ると「メルメリィ・エストレア」と刻まれているのがわかる。ルドウィックが指輪に触れようと手を伸ばした。


「お嬢様に触るな」


 ルドウィックの手が止まる。彼は不機嫌な表情で入り口に目をやった。


「恋人の逢瀬を邪魔するなんて無粋だよ。それにメルメリィは僕の妻だ。触れて何がいけないのさ?」

「眠っている女性には無闇に触れない。それが硝国紳士というものだ」


 暗い入り口からウッドブラット教授が歩いてくる。この男もまた不機嫌な様子。もっとも、ウッドブラット教授は熟睡していたところをルドウィックに叩き起こされ、騒ぎの後始末をするために走り回ったのだから仕方ない。しかも叩き起こした張本人が悠々とメルメリィの霊廟にいるのだ。


「君がメルメリィに忠義を払ってくれるのはありがたいけど、もう少し僕にも敬意を払ってもらいたいね。こう見えて君よりも長生きだ」

「年長者だから敬意を払うのではない。お嬢様だから敬意を払うのだ」

「頑固者め。いつか君の大失態を記事にしてやろう」


 二人の仲は悪い。学院が設立されるよりも前、ウッドブラットは従者としてメルメリィに仕えていた。ゆえに彼からすればルドウィックは親愛なるお嬢様を奪った略奪者であり、逆にルドウィックからすればウッドブラットは妻の隣にいつまでもいる邪魔者。そりが合わないのだ。特にメルメリィが魔女になってからは尚更だった。


「あのような品のない新聞がどうして売れるのか、私は理解に苦しむね」

「僕はむしろ、君みたいな仕事の遅い人間がどうして准教授なのか不思議でたまらないよ。呪いくだしはいつになったら完成するんだい?」

「貴様が思う以上に難しい研究なのだよ。まあ、今回の騒動で台無しになったから完成は当分先だろう」


 台無し、という言葉にルドウィックが反応した。


「台無しになった?」

「私の大壺に死体が投げ込まれたのだ。とても判別できる状態ではなかったが、おそらくカロリーネ王女の侍女だろう……知らなかったのか?」

「ちょいと野暮用で忙しかったのさ。しかし、そうか……」


 ウッドブラットが意外そうに眉を上げた。ルドウィックといえば何でも……それこそウッドブラットが魔女新聞を密かに購読していることも知っている男だ。大壺の件も把握していると思っていた。


「ピッチには一度お灸を据えてやらないといけないな。研究の邪魔に建物の破壊、王女の騒動……学院への損害は馬鹿にならないよ。呪いくだしだって貴重な素材をたくさん使ったんだろう?」

「満月草は学院で採れるし、サラザットの骨片もまだ在庫が残っているが、落炎鳥の灰が無くなってしまった。次はいつ調達できるかわからない」

「あの鳥は神出鬼没だからねえ。まあ焦らなくてもいいよ。仮に薬が完成してメルメリィの呪痕が消えても、彼女が目覚めたと知れば貴族たちに狙われるだろうから。まったく、王家の血とは厄介な代物だよ」

「最近はお嬢様を狙っていた貴族や有力商人が次々に失踪していると聞く。貴様なら何か知っているんじゃないか?」

「はっはっは、いつの時代も欲深い者は深追いをしすぎて自滅するものだよ。きっと神さまに見放されたんだろう」


 笑う新聞屋をウッドブラットは胡乱な目で見つめた。十中八九ルドウィックの仕業だろうが、濁されたならば追求するのは悪手か。


「ふん、まあいい。お嬢様の敵が減るのはいいことだ」


 メルメリィのため、という一点に関してのみ、二人は同じ方向を向く。ずっとそうしてきた。メルメリィが貴族として社交界に立ったときも、研究所で彼女が不当な扱いを受けたときも、二人は常に味方であり続けた。


「なあルドウィック。どれだけ敵を排除しても完全に消えることはない。どこに隠れても必ず見つけられる。王家の血とはそういうものだ。それでも貴様はお嬢様の盾であり続けるか?」

「もちろんだ。僕の持つ力すべてをかけると誓おう。でもウッドブラット、君は少し勘違いしている」

「どういう意味だ?」


 ウッドブラットは怪訝そうに眉をひそめた。こういう言い方をするとき、大抵の場合ろくなことを考えていないのが新聞屋だ。長い付き合いだからルドウィックという男の性根は理解している。


「君の夢を僕は否定しない。むしろ、メルメリィの呪痕を消して再び現実世界で暮らすという君の夢は、僕も素晴らしいものだと思うよ。でも呪痕を消すだけでは足りないんだ。たとえメルメリィが目覚めても、王家の魔導具がすぐに彼女の居場所を見つけてしまう。隠れ続けるには限界があるんだよ」

「抵抗すればいいのだ。ここには魔女が二人いるだろう?」

「いいや、無理だよ。個人の力なんて国の前ではちっぽけなものだ。特にシャルマーンのような古い国には分厚い歴史がある。歴史とはつまり力。侮ったらいけない」

「何か考えがあるのか?」


 ルドウィックは意味ありげに微笑んだ。


「安心してよウッドブラット。たとえ君が無力で仕事が遅い人間だとしても、僕がすべて解決してみせる。だから君は粛々と呪いくだしの研究を進めればいい。今度こそ横やりが入った程度で失敗しないようにね」

「貴様は余計な一言を加えねば気が済まないのか?」


 ここまで言って結論を隠すのがいかにもルドウィックらしい。隠した理由はウッドブラットへの嫌がらせも含まれているだろう。

 再び言い合いがエスカレートするかと思われたが、両者を仲裁するように、地面からメルメリィ教授の幻影が現れた。


「彼を責めないでウッドブラッド。寂しい思いをさせているのは私なんだから」

「お嬢様、この男が霊廟に立ち入るのを禁じてください。眠っているときの貴方は無防備なのです。この男がいったい何をするか……」

「ルディはそんな人じゃないわ。私が選んだ人を悪く言わないで。それと、私はもうお嬢様じゃない。教授か学院長と呼びなさい」


 ルドウィックが顔を上げた。不機嫌から一転、嬉しそうに目を輝かせている。


「やあメルメリィ。さっきは戦いを中断させて悪かったね」

「全くだわ。あの子たちを帰せば必ず面倒なことになるとわかっているでしょ?」

「彼女たちは僕のお気に入りだから許してほしいんだ。相応の対価も払ってもらった。それに、カロリーネ王女の死はどうせ隠し通せないよ。彼女ほどの影響力がある人物が消えたんだ。国の混乱は避けられない」


 二人は花が咲いたように話し始める。先ほどまで殺気を振り撒いていたのが嘘のように。

 ウッドブラットは少しだけ様子を見守った後、静かに霊廟から去った。主人の邪魔をしてはいけない。ルドウィックを残すのは心配だが、メルメリィが望むならば感情を殺してでも身を引くのが従者というもの。


「相応の対価……もしかしてまた他人の記憶を覗いたの? あれはやめなさいと言ったのに。それで、今度はどんな記憶だったの?」


 メルメリィは気づいていた。普段は他人に感情を動かさない彼が、珍しく哀れむような顔をしていることを。

 ルドウィックは先ほどの光景を思い浮かべる。さして長い記憶ではなかった。少女がたどった陰鬱な人生とその末路。観測するのはあっという間であり、数多の他人の人生を盗み見てきた彼にとっては珍しい境遇でもなかった。


(同情はしない。だが――)


 第三者として眺めるのと、当事者の目線で記憶を追体験するのとでは雲泥の差がある。少女が抱いた絶望。なにも変えられない無力感。途方もない自責と怒り。そこから生まれる卑屈さ。それらが鉛玉のようにルドウィックの心を貫く。


「ごくありふれた、ささいな地獄だよ」


 これだから記憶を見るのは嫌いなのだ。他人の人生は遠くから眺めるのが一番面白い。


「ああ、そうだ。記憶のことで思い出した。また今度、人体に関する本を紹介してくれないか?」

「医学に興味がわいたの?」

「興味というか、参考になるかもしれないから学んでおきたいんだ。まさかこの歳で勉学に励むとは思わなかったなあ」

「ふふ、人生ってそんなものよ。まあルディは賢いからすぐに理解するでしょうね。あなた、私が公爵家にいた頃も屋敷の本をほとんど読んでしまったし」


 メルメリィが懐かしそうに微笑んだ。二人がまだ普通の魔術士だった頃。結ばれないとわかっていつつも秘密の逢瀬を重ね、シャルマーン貴族という荒波に真っ向から立ち向かい、玉砕して魔女に落ちた二人の話。それは決して語られず、歴史に残すことも許されない、シャルマーン公爵家の汚点である。


「さて、昔話も楽しいけど、せっかく月の綺麗な夜なんだから別の話をしよう。今夜は君のためにとっておきの記事を用意したんだ。刺激的で欲深い現実世界の話を聞かせてあげるよ」


 そう言って彼は新聞を開いた。一面には『西方諸国で新たな魔窟見つかる』と書かれ、一攫千金を狙う鉱山労働者の後ろ姿が映っていた。二面は『帝国の圧政激化』。三面は『魔導協会所属の一級魔術士、魔女に襲われて失踪か』。その他にも『サルファの跡地で幻の獣がみつかる』『消えた旧シャトルワース領の真相』『魔導協会、ついに汚職か。騎士協会との溝深まる』と続いていた。

 棺に腰かけながら、現実世界のあれこれを語り聞かせるルドウィック。微笑みながら隣に寄り添うメルメリィ。第三者が決して踏み込めない、二人だけの世界。月光を浴びた夜霧が水面のような影を落とす。世にも珍しい魔女夫婦。二人の穏やかな話し声は夜が明けるまで続いた。



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