第64話:転がり始めた果実

 

 サルトリア学園都市の路地裏に倒れ込む騎士がいた。その鎧には無数の傷が刻まれ、守りきれなかった柔肌から鮮やかな血が流れている。常人であれば死んでいてもおかしくない状態だ。しかし騎士の瞳から光は失われていない。


「いったい何だったのかしら。急にあの男が現れたけど……」


 アルジェブラは先ほどの光景を思い出す。メルメリィと激しい戦闘を繰り広げていたところに、突如としてルドウィックが現れたのだ。彼は一言二言メルメリィに伝えると、納得した様子はないものの、メルメリィはなぜかアルジェブラを見逃した。そうして満身創痍のまま学院を脱出したアルジェブラは路地裏で休んでいたのである。


「やはり魔女の力は素晴らしいわ。彼女たちの協力があればパラアンコは再興……いや、更なる発展を目指せる」


 最後の一本となった矢を握りしめる。息が荒く、大粒の汗が滴るが、決して痛みによるものではない。彼女はたかぶっていた。他ならぬ、魔女の可能性に。やはり自分の考えは間違っていないという確信を持つ。

 崩壊しかけの祖国を救えるのは魔女だけ。

 アルジェブラは決意を新たにする。今さっき魔女によって殺されかけたにも関わらず、彼女の心は屈していない。恐怖を上回る愛国心。たとえどれほどけわしく血塗られた道になろうとも、パラアンコの歴史と民を守るために彼女は弓を担ぐ。

 その度を超えた忠誠心はある意味で魔女と似ていた。本人に自覚はない。だが弓騎士の瞳に宿る激情は狂気に近い。


「ルドウィック……新聞屋、ね。気に食わない男だけど実力は本物だわ。どうにかパラアンコで囲えないかしら……」


 上級騎士の呪痕によって驚異的な回復力を見せ、すでに立ち上がれるようになったアルジェブラはぶつぶつと呟きながら歩き始めた。やや不規則な足音が誰もいない路地に響く。他に気配はない。少なくとも彼女は感じなかった。

 学園都市は基本的に学生が多いため夜に出歩く人は少ない。サルトリア魔術学院には勤勉な魔術士のみが集まるからだ。ゆえに静まり返った夜の街。アルジェブラは疲弊した脳を無理やり働かせながら宿に向かう。


「あら珍しい。こんな時間に空いてる店があるわ」


 明かりが灯るパン屋を見つけた。急に自分が空腹だと気づく。きっとメヴィやエルマニアも腹を空かせているだろう。戦い疲れた二人がくたくたで宿に帰る姿を想像しながら、彼女はパン屋の扉を開けた。

 芳醇な香りがアルジェブラの空腹を刺激する。たまたま夜遅くまで営業していたらしく、初老の店主は優しそうな顔でアルジェブラに果実をおまけしてくれた。よく熟れた黄色い果実だ。アルジェブラと同じ色。パラアンコの南方で採れるものである。

 アルジェブラは懐かしそうに目を細めた。彼女も小さい頃はこの果実が大好きで毎日のように食べた。軍人になってから買わなくなってしまったが、久しぶりに食べるのもいいかもしれない。


「ひどい一日だったけど、最後に良い店を見つけられて良かった」


 バターの美味しそうな香りを嗅ぎながら再び帰路につく。パラアンコの硬い黒パンと違い、白くて柔らかい生地のパンだ。バターをつけて食べるのなんていつぶりだろうか。アルジェブラは自然と自分の頬が上がっているのを感じた。消耗した体が栄養を欲しがっている。


 下り坂にさしかかったとき、片腕いっぱいに抱えた紙袋から果実を一つ落としてしまった。黄色い果実はころころと坂を転がり、すぐに見えなくなってしまう。騎士は魔術士と違って夜目が効かない。アルジェブラは「あっ」と声を上げたが、果実の一つぐらいならば構わないかと諦めた。きっと路地裏の浮浪児が拾ってくれるだろう。


「二人はもう帰っているかしら?」


 アルジェブラは大事そうにパンを抱えながら路地を曲がった。そう、彼女は疲れていたのだ。早く帰ろうと急いでいたのだ。ゆえに普段よりも注意力が落ちていた。


「はあい、こんばんは」


 忍び寄る気配にも気づかないほどに。


 ◯


 アルジェブラがパン屋に入る少し前。

 メルメリィの強大な存在感が落ち着いた頃、物陰から少女が現れた。だぼだぼのコートが地面にすれて汚れている。彼女は店先の窓でとんがり帽子の位置を整えてからコートを払った。


「おお怖い怖い。明らかに魔女の覇気じゃん。この学院はいったいどうなっているのさ。もう少し隠れたほうがいいかもしれないなあ」


 西方蛮族の魔女・ピッチ。奇抜な格好の魔女は八つ当たりをするように路肩の石を蹴った。壁にぶつかった石がやけに大きな音を上げる。


「まあ第三王女は始末したし、目的は達成したからいいんだけど。でも帰るのが遅くなるのは嫌だな。兄様も待っているし……うん、やっぱり日が昇ったら帰ろう」


 ピッチが眠そうに欠伸をする。すでに夜はどっぷりと更けており、街の住民は一人として出歩いていない。寝静まった夜の街。あとは見つからずに帰るだけ。

 そのはずだった。

 ピッチの瞳がとある人物の後ろ姿を捉える。学園都市では珍しい騎士。しかもひどい怪我を負っているらしく、濃密な血の香りを放っている。


「あれは……」


 ピッチの目つきが鋭くなった。

 魔術士は夜目が効く。ゆえにピッチは騎士の正体に気づけた。西方蛮族を幾度となく苦しめたパラアンコの軍人。ウサック要塞が陥落した後、苛烈な追撃によって多くの同胞が屠られたのはピッチの記憶に新しい。

 弓騎士アルジェブラ。その名は西方蛮族にとって憎しみ深い騎士を指す。


(なんでこんなところに弓騎士が……まさか第三王女の護衛?)


 幸か不幸か、メヴィが誰と学院に来たのかをピッチは知らなかった。ゆえに彼女は弓騎士が王女護衛の任務で学院に訪れたのだと勘違いした。

 ピッチは考えた。もしも弓騎士を放置すればどうなるだろうか。王女が失踪したという事実は間違いなくパラアンコに伝わるだろう。無論、カロリーネの死が伝わるのは時間の問題だ。しかし早すぎる。少しでも情報を遅らせるために侍女を殺して大鍋に沈めたのに、このまま弓騎士を帰せば苦労が無駄になってしまう。


「ここで争うと学院に見つかるかも……でも見過ごすわけにもいかないし……」


 ピッチは悩んだ。メルメリィに見つかる可能性と、弓騎士を見逃す危険性。どうすれば兄様が喜んでくれるか。悩み、彼女は決断した。これは千載一遇のチャンスだ。危険な芽は摘んでおくべし。

 ざわざわとピッチの肌から真っ白な菌が生える。茸のような菌が月光に照らされ、仄かで不気味な光を帯びた。周囲に胞子が撒き散らされる。一度でも触れれば助からない、死の胞子。

 ピッチの呪痕がどくん、どくんと脈打った。少女の興奮に同調しているのだ。“菌糸の魔女”ピネ・チェア・ドロシー。欲に溺れた魔女が一人、その残忍な牙を見せる。


「邪魔者を排除したら兄様はもっと褒めてくれるかな」


 地面を蹴る。寝静まった夜空を魔女が駆ける。



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